菊川の意図
横浜第2埠頭――。
鶴見区の小石浜通りの信号を右折し、そのまま真っ直ぐ進んだ地点にその埠頭はあった。ざっくりと言えば貿易港。荷揚げ倉庫や事務所が幾多にも並び、コンテナを運ぶための大型クレーンまで備わっている、市内でも指折りの規模といえようか。
ただ他所と違うのは、現在は全く稼働していないという点。元々は名だたる国際海運会社のものだったが、7年前にバブルがはじけ飛んで以来、情景が一変したという。
会社が所有権を土地ごと手放して競売にかけられるも、買い手がまるでつかないうちに年数だけが経過。そのまま現在に至るそうで、沢山の船や貨物、幾人もの水夫や沖仲仕たちで賑わっていたかつての面影は見る影も無い。ひどく寂れた港であった。
「ここは人の行き交いが滅多に無いからね。銃の取引を昼間にやっても、まったく問題ないってわけさ」
車が駐車場に停まるや否や、後ろの菊川が静かに呟く。彼曰く、取引に際してこの地を指定してきたのは先方らしい。何でも「互いにとって等しくリスクが担保される場所だから」とのこと。座席のシートベルトを外しながら、若頭は続けた。
「村雨組が7人なのに対して、相手は1人で来るって話だ。そりゃ、向こうから見れば集団で取り囲まれて多勢に無勢、ブツを奪われる懸念がどうしても捨てきれない。だから、こちらとってもリスクのある場所を選んだってことだね。つい2週間前まで、鶴見は大鷲のシマだったわけだし」
いくら組織として壊滅状態にあるとはいえ、横浜大鷲会には未だ残党が健在。その旧領へ迂闊に足を踏み入れようものなら、どこで息を潜めているとも知れぬ残党に襲われる危険が常に伴うのだ。笛吹一派を掃討できていない以上、村雨組にとってアウェーな場所ということになる。
「こっちが街を仕切るヤクザだから、あちらさんも緊張してるのかな? まっ、何にせよ。『互いに公平かつ均等に危険を背負い、状況における安全を保障し合う』。まさに取引の大前提だよ。当然の話だね」
たしかに理屈としては筋が通っている。
だが、実際には違うだろう。いや、違うに決まっている。銃器を売ってもらえると思いきや、家入の息のかかった武装集団に強襲され、まんまとカネだけ奪われるのが顛末。容易に想像できてしまう。
(当の本人たちは危機感ゼロかよ……)
まだ横浜を完全掌握してもいない、それも準備の準備さえも未着手であるにもかかわらず、菊川を筆頭に随行の組員たちも皆すっかり浮かれきっている。下っ端連中に至っては「組が大きくなったらどうしたいか」という捕らぬ狸の皮算用に現を抜かす有り様だ。
「横浜を全て手中に収めりゃ、それこそ数えきれねぇくらいの莫大な大金も転がり込むだろうぜ。そしたらある程度の分け前は貰えるはずだよな? 俺、まず初日に時計買うわ。海外ブランドの最高級品だ」
「おう。分かるぜ。人によって考えは色々あるだろうが、高いスーツを着て高い時計をはめて、高い車をぶっ飛ばす。俺らヤクザの見栄えはその3つで決まるようなもんだ。そうしなきゃ女にもモテねぇしな」
「あとはマンションも買いてぇわ。今、日居原町あたりにでっかいタワマンが建つ計画があんだろ? そこの権利って大体、いくらぐらいで買えるもんなのかな? 1億くらいありゃ余裕かも……」
「馬鹿。そんなに貰えりゃしねーよ。でも、自分でシノギを獲ってこられりゃ話は別だ。どんなに荒稼ぎしようがアガリさえきっちり納めてれば誰も文句は言わねぇ。村雨組はこれから直系になるんだ。黙ってても美味いシノギが入ってくるぜ。山のようにな。あーはっはっはっ!」
開いた口がふさがらなかった。青写真を引いているだけの段階で、どうしてここまで有頂天になれるのか。夢見る未来は言うまでもなく絵空事。全ては家入が持ちかけた与太話である可能性も捨てきれないのだ。
(少しは疑ってみれば良いのに……)
直系昇格の件がまったくの出鱈目だった場合、彼らが被る精神的ダメージは測り知れない大きさとなろう。ぬか喜びで馬鹿を見るのは殊更に屈辱的だ。呆れを通り越し、些かの同情さえも覚えてしまう俺であった。
「さて、そろそろ行こうか。相手を待たせちゃあいけない。村雨組の信用にも関わってくるからね。えへへへっ」
くだらぬ雑談が10分ほど続いた後、菊川のひと声でようやく車から降りる。この時期だと珍しい25℃前後の気温のおかげだろうか。外に居てももまったく暑さを感じない。8月最後の日にしては若干物足りない気もしたが、不快な汗を浮かべずに済むので有り難くもあった。
やがて、しばらく歩くと目的地が見えてくる。待ち人は既に来ているようだった。ちょうど時間通りである。
「……」
古い赤色のコンテナが積み上げられた港の一画に、やたらと派手な服装の男がぽつんと1人立っていた。鍛え上げられた色黒の肉体に黒のタンクトップ、下は真っ白なスラックスパンツという異様な装い。両手には大きなジュラルミンの箱を1つずつ抱えているではないか。
この男が、例の武器商人。
ひと目でそう確信した。いくら心華やぐ夏の候といえど、全身をここまでに厳ついファッションで揃えた人間はカタギにはまずいない。ましてや頭髪をワックスで固め、白のエナメル靴を履いているのだ。極道関係でなければ流石に趣味が悪すぎる。村雨組でも見受けられない「いかにも」な部類だ。
あまりのおかしさに吹き出しそうになるのを必死で堪え、どうにか平常心を保つ俺。ここで笑い転げては任務が果たせぬ。己の役目は冷静に状況を監視すること。話を切り出すのは菊川に任せ、ひとまず密かに日高謹製のペン型隠しカメラを取り出しておいた。
「ええっと、あなたがタカハシさん? どうも。村雨組の菊川です。午前中に電話しました通り、本日は武器の買い付けに来ました」
「初めまして。どうぞよろしくお願いいたします、菊川さん」
タカハシと名乗った長身の男は右手の荷物をいったん地面に置くと、相変わらず上機嫌な菊川とにこやかに握手を交わす。声に震えらしきものは一切感じられなかった。
極道のシマ内で隠れて闇商売を営んでいる自覚があれば、少しくらいは後ろめたさが顔に表れるもの。にもかかわらず、男が醸し出す雰囲気に「恐怖」の2文字は無い。街を仕切る組織の若頭を前にしても、この余裕ぶり。
間違いない。このタカハシとやらもまた、極道ないしはその関係者だ。やはり家入組の人間か。正式な組員でなかったとしても、息のかかった手先であることは確実だろう。高鳴り始めた心臓の鼓動が胸騒ぎとなって押し寄せてきた。
すぐさま、カメラのボタンを押す。
「……」
そして即座に左のポケットにしまう。手はず通りペンを走らせるふりをして写真を撮り続ける選択肢もあったのだが、この時点では「メモを取る」という行為に必然性が生じないため、敢えて選ばなかった。無駄に相手から怪しまれて取引が中止になっても、それはそれでまずい。
おそらく、シャッターを切れる機会は二度とめぐって来ない。気軽にメモ帳を出せる雰囲気でもない。よもやシャッターチャンスが1度きりとは想定外だったが、ここは気持ちを切り替えるのが最善。
つい数秒前に撮った写真の画質がすこぶる鮮明であることを強く祈りながら、俺は菊川とタカハシが始めた饒舌な会話に黙って耳を傾けるしかなかった。
「さっそくだけどさ、タカハシさん。とりあえずおたくの商品を見せてはもらえないかな? 電話では『アメリカ軍の最新式』って言ってたよね? ちょっと気になっててさ」
「いいでしょう。百聞は一見にしかず。言葉であれこれご説明申し上げるより、実際に手に取って頂いた方が早いというもの。サンプルを用意してありますから、どうぞ心ゆくまでご覧ください。ベレッタM9ピストル、陸軍正式採用改良型モデルです」
「おっ、いいねぇ! 14発撃てるやつじゃんか。コルト45と違って威力は劣るけど、至近距離で狙う分には問題ない。反動も小さめだから、新入りに持たせるのにもぴったりだ」
「さすがは菊川のカシラ。お詳しいですね。よくご存じだ。何といっても最新版ですから、我々も仕入れるのに苦労いたしました。合衆国本土からの直輸入です。こっちの税関を抜けるのに少々骨を折りましたが、苦労した甲斐があったというもの……」
タカハシがジュラルミンケースから取り出した試用品を手に取り、じっくりと眺める菊川。遊底の強度や安全装置および撃鉄への指の掛けやすさ、照準器の位置まで、確認すべき項目は多岐にわたる。
当時は銃に関する知識が全くといって良いほど無かったので、俺は専ら黙って注視するのみ。されど、決して暇ではない。ベレッタは中1の時分に観た洋画において主人公が使っていた銃であり、何となく思い入れがあった。
(実物ってこんな感じなのか……すげぇな)
光沢を放つ真っ黒の銃身。ただ傍から見つめているだけでも、禍々しい迫力が伝わってくる。人を殺めるために作られた道具で、全体的な造りはその用途だけに特化した実に合理的なもの。自分が直接手に触れたわけでもないのに、あまりの重厚感に心が圧倒された。
ただ、脳裏をよぎるのはネガティブな要素だけに留まらない。例えるならば博物館にて初めて名画に出会った時の感動。生で見る憧れの銃は荘厳で、どこか美しかったのだ。
あの独特の丸みを帯びた曲線的な形状がそう思わせたのか。はっきりとした理由は何とも説明しがたい。だが、俺にとってはずっと見ていられるだけの魅力を大いに孕んでいる。それだけは確かな事実だった。
「こちらは92FSですからね。 スライドは通常より強化してありますから、給弾不良を起こすことは殆ど無いと言って良いかもしれません。92FSの『S』は『Special』という意味です」
「ほんとに!? いやあ、この手のオートマチックはいざって時に弾が出ないことが多くてさ。撃ち合いでピンチに陥るのは本当にまずいから。そこだけが心配だったんだよね」
「ええ、ご安心ください。性能に関しましてはアメリカ国防総省の折り紙付き。砂嵐が吹き荒れる中東の砂漠地帯で3ヵ月使っても壊れなかったくらいですので」
デパートにおける総菜販売員を想起させる早口で、自らの商品がいかに有用かを語ってみせたタカハシ。この手のセールストークには慣れているのか、やたらと饒舌だった。実際に起きた事例を例えとして持ち出すあたり、そちら方面の情報にも詳しいのだろう。やはり只者ではない。ますますカタギとは思えなくなってきた。
一方、菊川は素直に頷いてしまっている。いや、どちらかといえば「乗せられている」といった方が相応しい。タカハシの発する宣伝文句に対して逐一相槌を打ち、柔らかい笑みを浮かべて試用品を眺める始末。これではマルチ商法でカモにされる素人と何ら変わらない。かなり危うい空気になってきた。
「なるほど! それは頼もしい限りだ。僕らは今、大きな抗争を目前に控えている状況だからね。求めてるのは絶対の信頼が置ける銃。まさに、ベレッタがぴったりじゃないか。買っちゃおっかな……」
しばしの間にんまりとしていた若頭は、意を決したように呟くと銃をタカハシへ返す。そして背後の組員からアタッシュケースを受け取って軽快に差し出した。
「ここに1000万円ほど、詰めてきた。そっちの価格設定がいくらなのかは知らないけど、これで買える分だけちょうだいよ。いいでしょ?」
「ありがとうございます! いやあ、菊川のカシラ。やっぱりあなたは噂通りのお人だ。話が早くて気前も良い。あの村雨耀介氏の片腕を務めておられるだけのことはありますなあ! さすがでございますわ」
まずい。2人の言葉からして即断即決。まんまと大量購入へ誘導されてしまう流れだ。一体、菊川は何を考えているのやら。目の前の男が村雨組にとってはシマを荒らす敵であることを認識していないのか。
「……」
他の組員とて同じ。皆、若頭と売人が嬉々として繰り広げる会話を黙って見つめるだけ。ちょっと待ったと声を挙げる者は誰ひとり存在しない。それどころか、彼らも彼らで表情が明るい。優れた武器の調達先にありつけたとでも思っているのだろうか。
金額いかんの話ではない。問題は村雨組が「ナメられる」ということ。
自領でコソコソ動き回る得体の知れない相手から物を買ってしまった事実自体、極道としては名折れ。シマ荒らしを許したとの風聞が広まってしまえば、組の看板に傷がつく。同様に跋扈する不届き者も増えることだろう。
ヤクザ社会に身を置く人間であれば、俺のような初心者ですら容易に理解できるロジックのはず。にもかかわらず何のためらいもなく平然と取引を進めようとする奴らの姿に、もはや呆れを通り越して愕然と目を疑うほかなかった。
(どんだけ浮かれてんだよ……)
村雨からは「冷静に事態を注視せよ」と命じられているだけだが、好ましからぬ動きを前に指をくわえて見ているのは俺の性に合わない。タカハシの写真は撮影済み。もう、ここは敢えて出過ぎた真似をするのが正しいと見た。
後々での叱責は覚悟の上。大事な取引をパーにしたと組員たちから更なる不興を買い、菊川との関係だって今よりもっと悪くなるはず。それでも、このまま村雨の威厳が貶められてしまうよりはずっと良い。動くは一時の損、動かぬは永遠の損だ。
(……いくか)
やるしかない。刹那的に固まった確かな決意を胸に、ゆっくりと呼吸を整えてみる。だが、そんな時。不意に発せられた大きな声によって、俺の挙動は中断された。
「はあっ!?」
誰の声か。すぐさま前方を見やると、そこにあったのは実に怪訝な表情。菊川より差し出されたアタッシュケースを開いたタカハシが、あからさまに眉をひそめている。
「あのぅ、菊川のカシラ……これは、一体……どういうことですかねぇ……ちょっと理解ができねぇんですが」
「ん? どうした?」
「代金ですよ。あんた、1000万あるって言ったじゃないですか。なのに何なんですか、これは。ご冗談のおつもりならタチが悪すぎるし、こんなので支払おうってんならいくら何でもふざけすぎだぁっ!!」
勢いのまま声を荒げるや否や、ケースを乱暴に突き返したタカハシ。眉間に刻まれたしわをぐっと深め、怒りに燃えた目で菊川を睨んでいるではないか。
ここまで憤慨するとは余程のこと。もしや菊川の持参した額が足りなかったのではとも考えたが、それにしてはリアクションが些かオーバーすぎる気がしなくもない。
何があったというのか。
いずれにせよ、自分が物申すまでもなく取引が不調に終わるのならば、それはそれで助かるというもの。予想だにしない展開ではあるが、終わり良ければ全て良し。むしろ、願ったり叶ったり。菊川には悪いが、このまま話がこじれてしまえば――。
だが、心の中でそう微笑むのも束の間、新たな衝撃に駆られることになる。タカハシが怒り任せで地面にぶちまけた、アタッシュケースの中身。思わず、息を呑んでしまった。瞬く間に背筋を戦慄が駆け抜ける。
(なっ……あ、あれは……!? )
ジッパー付きのビニール袋にぎっしりと詰められた、ピンク色の錠剤。それがいくつも小分けにされて、ケースの中に収められていたようだった。全体の総数がどれほどかは見当もつかない。
一部はタカハシが散らしてしまったものの、こちらの見る限りケース内にはまだまだ沢山入っていた。あれほどの量をいかにして集めたのか。言葉を失わずにはいられなかった。錠剤の正体には、心当たりもある。
MDMA――。
すぐに分かった。部類としては幻覚剤に位置付けられる合成麻薬で、数ヵ月前に高坂晋也が南幸町で密かに売りさばいていたものとまったくの同型だ。水などと一緒に摂取すると強い興奮や多幸感をおぼえる、きわめて依存性の高いドラッグだ。
日本国内においては、もちろん規制の対象となっている。ゆえに暴力団にとっては美味しいシノギの素材であり、使用者の中には芸能人も多いという。村雨組はMDMAを扱っていないが、あれを用いて小遣い稼ぎを行っていた高坂がどのような目に遭ったかは俺も十分記憶している。
まさか、ここで再びお目にかかろうとは。夢にも思わなかった。どうやら菊川は銃器の“代金”として現金ではなく、麻薬を持ってきたようである。支払いの方法としてはあまりにも突飛だ。当然、タカハシは納得しなかった。
「どういう了見です? 俺にこのエクスタシーを売って現金にしろと? こっちはあんたが1000万円きっちり持ってきてくれるというから、わざわざこんな重い積荷を持って来てやったんですよ。ああ? 何とか言ってくださいよ。菊川のカシラ」
「ふふっ。そんなにカリカリしなくたっていいじゃん。ここにあるのは、どれもかなり効き目のある薬ばかりだからね。きちんとしたルートで捌けば1000万円は余裕で確保できる。いや、1500万にはなるんじゃないかな。逆に感謝してほしいくらいさ」
「ふざけんなッ!! あんた、さすがにバカにしすぎじゃねぇのか? 現金で支払おうとしねぇことが問題だって言ってんだ。大体、そのエクスタシーが本物だって証拠がどこにあんだよ。おお? 真面目に取引する気が無いなら、いくら極道でも容赦しねぇぞコラァ! どうしてこんなものを持って来やがった?」
「どうしてって……そりゃ、決まってるじゃんか。キミの言う通り『真面目に取引する気が無いから』だよ」
その場が水を打ったように静まり返る。俺は元より菊川の側で控える組員たちも、てっきり若頭はまっとうに現金で支払いを行うものと思っていたのだろう。皆、互いに顔を見合わせてはあんぐりと口を開いていた。
『真面目に取引する気が無いから』
もしや、菊川はカネを支払わずに商品の銃器だけを奪い取る算段なのか。村雨組側が7人なのに対し、相手は1人。やろうと思えば余裕でどうにかなる状況だ。途中で大鷲会残党の邪魔が入りさえしない限り、勝機は俺たちにある。
ただ、恭しい低姿勢から一変して物凄い剣幕でがなり立てるタカハシを前にしてもなお、いつもの薄ら笑いをたたえた余裕の表情を崩さない菊川。そんな彼の口調には、どこか含みのようなものが感じられたのだ。
若頭の思考の片隅に、はるか想像も及ばない大胆な魂胆が秘められている。心理学を嗜んだわけでもないので所謂当てずっぽうだが、俺にはそう感じられて仕方が無かった。
「……」
無言の睨み合いが続く。呆気に取られる一同を尻目に、今にも笑い転げそうな面持ちで頬をみるみる緩めてゆく菊川。先に静寂を破ったのはタカハシだった。
「おい。若頭さんよ、さっきから何を笑ってやがる。真面目に取引する気がねぇってのはどういうこった? ああ? 答えようによっちゃ、今この場であんたを血祭りにあげたっていいんだぜ!」
「はーあ。この期に及んで、まだ自分の置かれてる状況が分かっていないんだね。こりゃ想像以上のおバカさんだ。生きて帰れないのは自分の方だっていうのに」
「んだと!? テメェ、調子に乗るのも大概にしとけよ。口の聞き方には気をつけろや。あんまりナメてっと……」
「ナメているのはお前の方だ!」
タカハシの啖呵を強引に遮った、菊川の声。つい数秒前よりも言葉の節々に力が入っている。会話の途中でいきなり語気を強められると、人は多少なりとも動揺するもの。相手がほんのわずかにたじろいだ一瞬の隙を見逃さず、菊川はなおも続ける。
「ご承知の通り、僕は村雨のナンバー2だ。その立場にある者が自分の組のシマを荒らした人間をみすみす許すと思うのかい? 落とし前は、きっちりつけさせてもらうよ。お前の命で」
「まさか、取引をしようってのは!」
「ああ。真っ赤な嘘だよ。お前を釣り上げるためのね。まさか、こんな簡単に引っかかるとは思わなかったけどね。そもそも昼間から取引したいって時点で怪しかったし。村雨組を相手に銃を売ろうだなんてバカもいいとこだよ。もちろん、僕もお前が単独犯だとは思ってない。バックがいるんだろ? 大方、予想はついてるけど」
「こ、この俺を騙しやがったわけか……くそったれが!!」
悔しさの滾る台詞を吐き捨てた後、タカハシは歯噛みした。
(えっ……?)
一方、菊川の次の動作は実に早かった。背広の内側に隠し持っていた短刀を鞘から即座に抜き放つと、動揺するタカハシの喉元めがけて間髪入れずに突きつける。そして、低い声で問うた。
「さあ、洗いざらい答えてもらおうか。お前の後ろにいるのは煌王会の直系組長、家入行雄だな?」
「ハッ、誰だそいつ。知らねぇよ……」
「お前は家入にカネで雇われ、銃器の格安購入を餌に僕ら村雨組をここへ連れ出す役目を引き受けた。そんで取引してる最中に、この港の何処かに隠れた家入組の兵隊が襲ってきて僕らを始末する計画だと。そうだな?」
「だから、知らねぇって……」
強かに胸倉を掴まれてもなお、目を背けて詰問にはまったく答えようとしないタカハシ。やはり、こうした反応は想定済みだったのか。菊川はさらなる行動に出た。
「ちゃんと答えろよ」
――グシャッ。
「ぐえぁっ!? いっ、痛えぇぇぇぇーっ! お、俺の顔がぁぁぁ! 顔がぁぁぁぁぁぁ!」
鮮血が飛んだ。短刀を逆手に構え直した菊川が、タカハシの顔面を真一文字に切り裂いたのである。その行動に躊躇は1ミリも感じられない。ほんの一瞬のうちの、実に淡々とした動作だった。
「ほら、さっさと答えて? 次は鼻を削ぎ落としてあげるから。これ以上痛い思いをする前に、素直に吐いた方が身のためだよ? さあ。早く」
無機質に目を細めたまま、菊川は赤く染まった刃の表面を舌でペロリと舐める。
「うああああああっ! い、いやだぁぁぁぁぁ! やめ、やめてくれぇぇぇぇぇぇぇ!」
「やめてほしいなら答えることだね。無駄に傷跡が増えるだけだ。お前さえ良ければ、もっと切ってあげようか? 鼻を落とす前に」
「いっ! 言うからぁぁぁぁぁ! ちゃんと言うからぁぁぁぁ! 切らないでぇぇぇぇぇぇぇ!」
そのあまりにも異質かつ不気味な仕草は、既に痛みと恐怖で半ば狂乱状態になっていた罪人を追い詰めるには決定的すぎた。やがてタカハシは、涙と鼻水、それから血にまみれてぐちゃぐちゃになった顔を歪ませながら、観念したように話し始める。
「おっ……俺は、本当に何も知らねぇんだ……横浜で、ずっと隠れてハジキを売ってきたけど……煌王会と絡んだことなんか1回も無い!信じてくれ!!」
「はあ。この期に及んで、まだそんな言い訳を。お前、本当は家入組の回し者なんでしょ? 大叔父貴に言われて、村雨組を嵌めるために動いた。そうなんだろ? 認めろよ」
「違う!! 俺は家入組なんかじゃない!!」
「そーゆうの、もういいから。で? お仲間はどこに隠れてるわけ? 素直に吐いた方が楽だって。いい加減にさあ」
刃による威力と威圧の二段構えによって、泣き喚くタカハシを徹底的に尋問する菊川。何が起こっているというのか。目の前で次から次へとで急展開する模様に付いていけず混乱してしまう俺だったが、3秒くらいの間を入れて段々と状況が理解できる。
すべては、菊川が仕掛けた罠だった。
銃器の購入に応じる体を装ってタカハシを呼び出し、こうして身柄を押さえて情報を吐かせる。目的は他でもない。奴の背後にいると思しき家入の暗躍を裏付け、その真のねらいを確かめるため。
(嘘だろ!? 本当は気づいてたのか……!?)
本音を言えば、菊川は騙されているとばかり思っていた。彼が今までに見せていたのは、突如として降って湧いた直系昇格の吉報に浮かれていた姿そのもの。
急な出世に伴う家入の甘言を鵜呑みにし、勧められるがままに美味しい話に飛びつく。そんな間抜けきわまりない醜態を晒しているようにしか、俺には考えられなかったのだ。
それがまさか、騙されたふりをしていたなんて。驚きのあまり腰が抜けそうな心地だった。だが、どうして今の今まで隠していたのだろう。家入の企みを看破していたのであれば、言ってくれても良かったのに。これでは敵の術中にあえて飛び込むようなもの。
俺はともかく、若頭の真意に次々と気づきはじめた随行の連中は皆大いに戸惑っていた。
「あの、カシラ。これってつまり、どういう……」
「後で話すよ。今は、こいつから情報を聞き出さなきゃならないもんだから。邪魔しないで。下がっててくれるかな?」
「は、はい! 失礼いたしました!」
「ごめんね」
恐る恐る尋ねた組員の問いを軽く一蹴した菊川は、力強く握った短刀を片手に改めて尋問を再開する。
「タカハシさあ。お前、さっき僕が持ってきた錠剤を見て『エクスタシー』って言ったよな? 何で分かったの? 僕は『効き目のある薬』としか言ってないのに。普通、こういう錠剤を見たら頭痛薬とかを連想するでしょ。ヤクザでもない限りは」
「あっ! いや、それは」
「お前自身がヤクザだからなんじゃないの? MDMAを『エクスタシー』と呼ぶのは、こっちの世界の人間だけだ。ああ? どうなんだよ。お前は家入組の使いで、僕らを何らかの手段で陥れるために大叔父貴の指示で動いた。ほら、さっさと認めろよ。そんなに鼻を削がれたいのか?」
「だから、違うって! 俺は家入組なんかじゃ……」
その時だった。
(ん? 何か来る?)
不意に後方が気になってしまう。車のエンジン音が聞こえた。ここは埠頭の中でも奥の奥に位置する場所で、多くの車が行き交う県道からは少し遠いはず。にもかかわらず、音は次第に大きくなって、俺たちの居る方へと近づいてくるではないか。
「誰だ? こんな所に用なんか無いはず」
「まさか、警察だったりして」
「いや、パトカーにしてはサイレンの音がしないよな。おそらくは別の何かだ」
「もしや、家入組?」
互いに顔を見合わせ、騒ぎ出す組員たち。エンジンに加えタイヤの駆動らしき音も混じって聞こえ始め、やはりこちらへ近づいてくる。その音は尋問に集中していた菊川にも聞こえたようで、彼はタカハシの胸元から手を離すと静かに呟いた。
「おでましか」
タカハシを救出・奪還するために駆け付けてきた、家入組の兵隊。きっと、あの場に居た誰もがそう推察したことだろう。俺自身、タカハシが事前に用意していた増援部隊だと思っていた。何故なら、他に思い当たる正体が浮かばなかったのである。してやったりと古狸のように笑う家入の姿が脳裏をよぎり、自然と舌打ちが起きた。
やはり、村雨組を嵌めるつもりであったか。全ては言わずとも知れたこと。取引との名目で人気の無い埠頭へ誘き出し、隙を突いて一気に仕留める策だろう。その手回しの良さは敵ながら称賛に値する。タカハシが拷問で自白しそうになる寸前に現れるとは、実に見事なものである。
そうと決まれば、迎え撃ってやるのみ。敵の数はいかほどか。持っている武器に銃は有るのか、無いのか。
喧嘩の段取りが頭の中で瞬時に整理される。ここは港という開けた場所で、弾丸から身を隠せる遮蔽物らしきものは周囲を見渡しても特には見当たらない。だが、それは敵方にとっても同じこと。向こうとて壁の無い丸裸の状態で戦うのだから、条件は同じ。相手にとって不足はない。
(……よし。やってやるぜ)
敵の急襲を前に浮足立つ組員たちとは対照的に、俺は至って落ち着いていた。完全に平常心を保っており、普段の自分のまま。ふと前方に目をやると菊川も同じく冷静そのもの。視線が重なった瞬間、彼はいつものような口調で話しかけてきた。
「麻木クン。まあ、見ての通り。どうやら僕らは大叔父貴の術中に嵌まったみたいだね……」
「あんたがわざと嵌まったんだろ。何でまた」
「面目ない。理由については後でちゃんと説明するから。とりあえず、今はこの場を切り抜けることだけを考えよっか。戦えるよね?」
「ヘッ、誰に向かって言ってやがる。家入組だろうと何処だろうと、俺にとっては朝飯前だ。10分でひねり潰してやるぜ。あんたはその辺で見とけって」
そうしているうちに、やがては車が姿をあらわす。迷路のごとく入り組んだコンテナの陰から見えたその車体は、淡いクリーム色。少し古めかしいミニバンだった。ぱっと見た限り、6人乗りか。
奴らの優先目的がタカハシの奪還であるならば、身柄を確保したら直ぐに逃げられるよう運転手は戦闘に参加しないはず。となると、敵兵は5人という計算になる。
(5人か……楽勝だぜ。こいつは勝ったな)
ようやく姿を見せた敵に対して身構えつつ、手首等をまわして軽く体を慣らす俺。この程度の数であれば、川崎に住んでいた頃から何度も経験してきた。100人以上を相手に単騎で突撃をかましたことのある俺にしてみれば、まさに赤子の手をひねるように容易い。
「……」
ところが、停まるや否や車からぞろぞろと降りてきた敵の姿を目にした瞬間。妙な違和感が思考を横切った。何かが違う。いや、明らかに何かがおかしい。
(えっ? あれって……?)
俺たちの前に立ちはだかった5人組の男たち。彼らは皆、何故か覆面で顔を隠していた。あの形状はガスマスクか。服も全身黒ずくめ。夏だというのに、両手にはグローブまではめている完全防備ぶり。
背筋に嫌な予感が走る。想像していた敵の姿とは見るからに異なっている。いや、格好が違うだけで、中身は至って普通のヤクザなのかもしれない。だとしても、違和感を拭い去ることができない。大きく縁取られたマスクの両目が、ひどく不気味に思えた。
「……」
ぽかんと呆気に取られていたのは、菊川たちも同じ。彼らも彼らで、事前に想像していた相手とは違ったことだろう。
やはり、人間は得体の知れない存在に対して恐怖を抱かずに習性があるらしい。かつて本庄組の絡みで大井町の商店街にて味わった感覚が、じわじわと蘇ってくる。気づけば俺の額には若干の冷や汗が浮かんでいた。
(あれは、ヤクザ……だよな?)
一方、先ほど菊川に投げ飛ばされてからというもの地面にへなへなと座り込んだままだったタカハシ。現れたガスマスク集団に、少なからず心当たりがあるのか。切り裂かれた顔を両手で押さえつつ、彼は苦笑まじりに吐き捨てた。
「あーあ。まさかとは思ったけど、やっぱり来ちまったか……もう終わりだな。俺も、テメェらも……」
「ん? お前を助けに来たんじゃないのか?」
「頼るわけねぇだろ。あんな言葉も通じねぇような連中。呼んだことには呼んだが、こういう形で来ちまうとはなあ。ありゃ、だいぶ怒ってるぜ。死んだな。テメェら」
「どういうことだ?」
食い入るような菊川の問いに、タカハシは無言で地面にがくりとうなだれる。数秒後に返ってきたのは、予想外の言葉だった。
「……ありゃ、俺の先客だ。いまここにある銃器はな、本来ならあいつらに売るはずだったんだよ」
「なっ、何だと!?」
「ま。せいぜい頑張って返り討ちにしてくれや。たぶん無理だろーけど。相手は全員、軍隊仕込みだ。テメェらみたいなチンピラがどこまで通じるか、見ものだぜ」
すると、ガスマスクの男のうちの1人が声を上げた。
「이봐. 왜여기에 일본인이 있는 거야? 약속이 다르지 않나. 설명해라!」
何やら早口でまくし立てているようだ。マスク越しのせいか、詳細はまったくと言って良いほど聞き取れない。だが、落ち着いて耳を傾けみたところでおそらくは限界があるだろう。
何故なら、日本語では無かったのだ。
「너들은 야쿠자인가? 우리의 무기는 절대로 빼앗을 수 없어」
いったい、どこの国の言葉か。考える間もなく、奴らは襲いかかってきた。全員が手にしているのは包丁。肉を切る際に用いる長い刃渡りのものだ。
「죽일거야! 각오하라!」
ふと気がつくと、すぐ目の前に男が迫っていた。猛然と振り上げられる刃に対し、俺は咄嗟に左へ身をよじって斬撃をかわす。ほんの一瞬の差で回避に成功したものの、まったく油断できない。あと0.1秒でも動作が遅れていれば、俺の右腕は切り落とされていたはず。これは厄介だ。
(クソっ! こいつら、強い……)
瞬く間に広がってゆく、待ったなしの乱戦。渦に巻き込まれるかのごとく奮戦する俺に「余裕」の2文字など無かった。