楽になりたい
どのくらい、時間が経った頃だろうか。
Sから再び振る舞われた安いシャンパンを飲んでいると、店員が血相を変えて飛び込んで来た。
「すみません! ちょっとよろしいでしょうか!?」
その男性スタッフは妙に怯えたような様子で、冷や汗もかいている。
「いま、1階に変な人達が来ておりまして……」
高坂が反応する。
「ねえ。それって、どんな奴ら?」
彼の顔を見て、俺はハッとした。いつもの余裕のある笑みは消え、かなり深刻そうな表情をしているではないか。
「おそらく本職の方たちだと思われます。自分達を『ムラサメの者』だと名乗っていますが……」
次の瞬間、凍り付く高坂。
「なっ!?」
ムラサメという単語が耳に入った瞬間、あからさまに動揺し始めた。彼の手元が若干、震えている。
いったい、何だというのか――。
どうして、そこまで焦っているのかが分からない。首を傾げる俺を尻目に、スタッフは低い声で高坂に告げた。
「いま1階で、あなた様の名前を出して『連れて来い』と騒いでおられます。私どもの方で何とか対応しておりますが、長くはもたないでしょう」
「……」
「どうします? 警察を呼ばれますか?」
「い、いや! それはできない!」
ここには紙袋1つ分の麻薬があるのだ。仮に警察が事態を打開したとしても、その際にエクスタシーの存在に勘づかれたら取り返しのつかないことになる。通報を渋るのも、当然だ。
「なあ。ちょっと俺、見てくるよ」
「お、おお! 助かる!」
すっかり竦み上がってしまった高坂を残し、俺は部屋を出た。その間際、奥のソファーに深くもたれかかり、悦に浸っているSの姿が見える。両隣には相も変わらず、ベッタリとくっつくエリカとマナミの姿。
「俺さァ、本音を言っちゃうとぉ。もう仕事やりたくないんだよね。何か、その、周りの連中の期待に応えるのが疲れたっつーか。もうダルくて仕方ないよぉ」
(まったく。お気楽なものだな……)
呆れた気持ちを抱えつつ、ドアを閉めて階段に向かう。1階に降りてみると、エントランス付近が騒然としていた。
「オラァ! さっさと高坂を出せっつってんだよ!」
「あの野郎、ここへ飲みに来てるんだろ?」
「逃がさねぇぞ!!」
厳めしい顔つきをした7人の男たちが、口々に叫んでいる。しかも彼らは、スーツに花柄のシャツ、派手な刺繍の入ったジャージなど、任侠映画やVシネマの世界から飛び出てきたような出で立ちをしているのだ。
どこからどう見ても、ヤクザだった。連中の髪型はそれぞれ、パンチパーマやスキンヘッドにオールバックという「いかにも」な風貌。そんな彼らの前に屈強な3人の警備員が立ちふさがり、必死で押しとどめている。
「ここをお通しするわけにはいきません! どうか、お引き取りください!」
「うるせぇ! テメェ、痛い目に遭いてぇのか?」
「帰ってください!!」
混沌の色を増していく状況を俺は、ただ呆然と見つめていた。すると騒いでいた男の1人が声をかけてくる。
「おう、そこのガキ! お前さっき2階から降りてきたよな。何か知らないか?」
「えっ」
「2階には、お偉いさん御用達の部屋があるはずだ。そこに高坂晋也って男はいなかったかと聞いてるんだよ!!」
ドキッとした。
マーキュリーのVIPルームの場所はともかくとして何故、この男たちは高坂のフルネームを知っているのか。
(もしかして高坂のヤツ。こいつら相手に何か、やらかしたのか……)
俺の中で胸騒ぎが始まるのに、時間はかからなかった。とはいえ、2階に上がられたら大変なことになる。VIPルームにはSがいるのだ。彼が巻き込まれる事態だけは、何としても避けねばならない。俺は意を決して、今にも暴れ出しそうな男たちに向き合った。
「悪いけど、居たかどうかは分からないな」
「なんだと?」
「部屋が暗かったからさ。その……よく見えなかったのかもしれない」
のらりくらりと答える俺に、連中の追及が更に強まった。
「おい、嘘じゃないだろうな? 下手に隠すとテメェの身のためにならねぇぞ? ああ!?」
そう言って睨んできた男の眼光は鋭く、声もかなり、凄みが効いている。今までの不良やチーマー相手の喧嘩では到底味わった事の無い、強烈な迫力がその場を包み込んでいく。
これが本職か――。
しかし、ここで怯むわけにはいかない。俺は負けじと言い返した。
「身のためにならないだと? フフッ。上等じゃねぇか。いいぜ。もう1度、見てきてやるよ」
啖呵を切った俺は即座に踵を返し、足早に階段を駆けのぼってVIPルームへと戻ってゆく。部屋では高坂が、実にソワソワとした様子で待ち構えていた。
「おおっ! 涼平、戻ったか。どうだった?」
「かなりヤバい状況だぞ」
俺は出来るだけ手短に、1階で起きている事案の詳細を説明する。話を聞いた高坂の表情は、みるみるうちに曇っていった。
「ついに来ちゃったかぁ……」
押し殺すような声である。歯を食いしばり一文字に結んだ口元には、悔しさの色が滲んでいる。俺は率直に尋ねた。
「あんた、いったい何をやらかしたんだ?」
「まあ、いろいろとね。話せば長くなる。ざっくりと言えば、チーマーを快く思わないヤクザは多いってことだよ。でも今は、この状況を突破するのが先決だ」
そう言うと高坂は、パンパンと手を叩いて皆に告げる。
「申し訳ないですが、本日のパーティーはこれでお開きとさせていただきます!」
「おいおい~どうしてだよォ~?」
「ちょっと、下でトラブルが発生しちゃいまして。ご勘弁を」
「はぁ~? ふざけんなよ。せっかく、これから全て忘れてブッ飛んで、楽になれるところだってのにィ~」
先ほどのエクスタシーの効果が抜けきっていないのか、不満を漏らすS。見れば、さらなる錠剤を口に放り込もうとしていた。だが、高坂の一声で表情が変わる。
「警察に捕まってしまいますよ!」
「えっ……」
ハイになっていても、自分が違法なものを使用しているという自覚はあるようだ。“警察”の2文字を聞いた瞬間、彼は人が変わったように落ち着いた。
「つ、捕まるのは……嫌だな……」
数秒前まで奇声を上げて騒いでいたのが嘘のように、一瞬で正気に戻ったS。一方で、それ以外の者には動揺が広がる。
「おい、どういうことだよ!」
「1階に警察が来てるのか?」
「説明してくれ!」
正直に「ヤクザが来ている」とは言えないのだろう。「警察」という方便を使ったが、却って皆を慌てさせる結果になってしまった。だが、高坂は浮足立つ参加者たちを穏やかに宥める。
「大丈夫ですよ。この店には正面玄関から続く階段とは別に、一部の人間しか知らない非常階段がありますから。皆様は、どうか慌てずに、そちらからお帰り下さい」
次に、側で控えていたアルビオンのメンバーたちに指示を飛ばす。
「Sさんたちを外までお連れしてくれ」
「……了解」
意を受けたメンバーに先導されて、Sたち一般の参加者はぞろぞろと部屋を後にする。VIPルーム内に残ったのは、俺と高坂の2人だけになった。
「たぶん、もうすぐ本当に警察が来るでしょ」
「大丈夫なのか?」
「ああ。大丈夫だとも。エクスタシーはSさんが全部、持っていった。他のクスリと違ってエクスタシーは錠剤だから、使用した痕跡は一切残らないからね。警察が村雨の連中を片づけてる隙に、僕たちも非常階段からサッと外に出るとしよう」
高坂の想像通り、それから約3分後に警察が到着。どうやら、他の客が通報したらしい。屈強なクラブの用心棒を相手に騒いでいた連中は全員、尻尾を巻いて、スタコラ逃げていった。俺たちは、何事も無かったかのように非常階段から退出する。
いま思えば、かなり危うい計画である。あの状況で警察に鉢合わせしなかったのは、本当に幸運だったとしか言いようが無い。きっと高坂自身も、リスクに囲まれた中で賭けに出たのだろう。彼の大胆な発想力と、それを実行に移せる行動力は称賛に値する。
しかし、気になる事が全く無かったかと言えば、嘘になってしまう。俺は、思い切って高坂に問うた。
「なあ。あんたはヤクザを相手に、いったい何をやらかしたっていうんだ?」
「さっきも言った通りだよ。アルビオンを快く思わない連中は多いのさ」
「だとしても、理由は他にもあるんじゃないのか?」
「いや、そういうのは特に」
顔をしかめた高坂を気にすることなく、率直に質問をぶつける。
「さっきのヤクザ達は『高坂を出せ!』と騒いでた。それってつまり、チーム全体じゃなくて。あんた個人に恨みがあるって事なんじゃねぇの?」
しばらくの間、沈黙が流れた。
「……」
歩きながら、何かに思考をめぐらせているようであった。おそらくは話すか、話すまいか、彼の中で迷いが生じたのだと思う。40秒ほどの静寂の後、高坂はフッと笑いながら答えた。
「……ああ。キミの言う通りだよ。あのヤクザ達は、僕個人を標的にしていた」
「だろうな。最初から、そうだと思ったぜ」
考えてみれば、彼の反応には違和感があった。店に連中が来襲したと聞かされた際、異様なまでに動揺していたのだ。すぐに冷静さを取り戻したものの、あのような彼の姿を見るのは初めてだった。
知性と腕力、そして度胸を兼ね備えた高坂を怯えさせる相手とは――。
思い切って尋ねてみた。
「なあ、話してくれないか? あの連中と、あんたとの間に何があったのかを」
「……3か月前までに遡る」
高坂率いるアルビオンがVIP向けのパーティーを行うようになったのは、1998年の2月から。ちょうど、バレンタインデーの時期だったという。
早大のOB会を通したコネクションで招いた芸能人に、麻薬を売りつける――。
思考錯誤の末、高坂が独自に構築したビジネスモデルだ。当初は実りが少なかったが、次第に中毒になっていった顧客が注ぎ込むカネの量が増え、安定した収益を上げられるようになっていった。
しかし同時に、それは既存の闇社会を敵に回すことを意味していた。
「麻薬はヤクザの専売特許だ。当然、目を付けられたよ。僕らがやっている事は、彼らの独占市場に土足で踏み入って荒らしまわるも同然だからね。『シマの中でヤクを売りたければ、俺たちに払うもんを払え』って言われたよ」
「払ったのか?」
「払うわけないじゃん。なんで、ヤクザの道理に従わなきゃならないのって話だよ。でも、その結果……ああいう事態を招いてしまった。どうせ単なる脅しだけだろって、高を括ってた自分がバカだったよ」
高坂は俺に、襲撃してきたヤクザ達が「村雨組」という組織の者であること、彼らは「煌王会」という関西の巨大勢力の傘下にあること、そして「村雨組」の組長が恐ろしい人物であることを話して聞かせた。
「村雨耀介。あの男のやり方は尋常じゃないよ。殺し方が、とにかくエグすぎる……」
そう語った高坂の顔からは、いつもの余裕に満ちた微笑みが完全に消えていた。
「はあ。これから僕は、何かにつけて狙われ続けるんだろうな」
肩を落とした背中は、見ているのが心苦しかった。麻薬売買に始まる、身から出た錆。すなわち自業自得とはいえ、己がここまで追い込まれるとは想像していなかったらしい。
「どうにかする方法は無いのか?」
「……いちおう、ある」
「何だ?」
目を伏せたまま、高坂は言った。
「村雨に直接、詫びを入れに行くこと。そうすれば……命だけは……助けてくれると思う。たぶん」
「じゃあ、そうすれば良いんじゃねぇの?」
「そこでなんだけどさ。キミに1つ、頼みがあって……」
歩みを止めた高坂。俺は、嫌な予感を覚える。
「ん、まさか『一緒に詫びに行ってくれ』なんて言わないよな?
「そのまさかだ。頼む!!」
予感は的中した。
「おいおい、冗談じゃねぇぞ」
「この通り!!」
高坂は、深く頭を下げてくる。
いつもは身に纏っている余裕という名のオーラが、まるで無い。そんな彼の姿を見るのは初めてだった。応じてやりたいところではあるが、ヤクザに頭を下げに行ってみすみす、なぶり越しにされるのはまっぴら御免だ。素直に受け入れられる話では、断じてなかった。
「なあ、誰かと一緒に行くにしてもよ。どうして俺なんだ? 他にいるだろ。それこそ、ジェームズとか……」
「あいつは頼りにならない。というか、アルビオンは全員駄目だよ」
「どうしてだ?」
「彼らは心の底から、僕に忠誠を誓っているわけじゃない。いざとなったら敵側に寝返るかもしれない」
実に素晴らしい。的確な指摘である。しかし、忠誠という観点で考えるなら、正式なメンバーよりも協力者として動いているに過ぎない俺の方が、よほど危ういはずだ。
どうして自分なのか――。
しばしのディスカッションを挟んで結局、俺は頼みを呑んでしまった。
「わかったよ。そこまで言うなら、一緒に行ってやるよ」
返事を聞いた高坂は安堵感からか、その場に崩れるように座り込んだ。それまで自分を包んでいた不安から、解き放たれたような表情だった。
「あ、ありがとう! 良かった……これでもう、不安な日々を送らなくて済む……やっと楽になれる……」
彼が俺を熱心に誘い、プライドも恥もかなぐり捨てて頭まで下げた理由は、ハッキリとは分からない。
おそらく、あれは高坂なりの“弱さ”の表れだったと思う。天下の早稲田大学に通って輝く将来が約束されている一方、チーマーの頭目として法の外側で暴れる豪胆さを持った彼にさえ、そのような人間臭い面があるのだ。
きっと、単身で村雨の所へ話を付けに行くのが怖かったのだろう。正直な感想を言えば、俺も怖かった。まっとうに考えれば誰が好き好んで、そのように危険な道を選ぶというのか。
結局、俺は話に乗ってしまった。生まれて初めて尊敬の念を抱いた男に目の前で頭を下げられて、断りづらかったのかもしれない。理由は、他にもある。それは15歳の俺が、自分自身の命について、さほど大切だとか、惜しいなどと思っていなかったという事だ。
どうせこのまま生きていても、まっとうな人生は歩めないだろう――。
自分の所業が招いた結果とはいえ高校に行けず、実家に縁を切られ、中卒のまま社会に出てしまった。気づかぬふりをして喧嘩に明け暮れていても、その事実は心の中に十字架の如くのしかかり、年齢を重ねると共に大きくなって、将来への不安という形で現実に迫ってくるのだ。
そんなモヤモヤとした不安から逃れたいが為に、後先考えず刹那的な選択をしてしまう傾向が当時の俺には強かったように思える。
(高坂について行って、そのままブチ殺されても、それはそれで良いか……楽になれるし)
横浜に来て、1ヵ月。トラブルに巻き込まれ、ヤクザと対峙せねばならなくなった俺だが、その心中は非常に投げやりだった。