煌王会からの使者
村雨邸に客人が来たという。
ふと気になったので覗いてみると、そこは組員たちで既にごった返していた。
本来、応接室とは来客と主人とが1対1で歓談するための部屋だ。そこに当事者以外が集まってしまうのは常識的に考えれば不適切な気もするが、今回は相手が相手。
部屋中央のロングソファーに腰を下ろす見慣れぬ中年男は、何でも組を挙げて出迎えるべき格の人物らしい。
その向かい側には菊川が座っていたのだが、いつもとは明らかに様子が違う。キリッとした緊張感が伝わってくる。
状況から察する限り、男は煌王会本家から派遣されてきた「使者」のようだ。なるほど。菊川の背筋が伸びるのも無理はない。客人の名前については、親切にも近くにいた組員がこっそり教えてくれた。
煌王会本家舎弟頭補佐、家入行雄。言うまでもなく、馴染みのない名前だった。聞けば直系「家入組」の組長を務めているらしく、村雨耀介にとっては親分のそのまた親分の弟、つまりは大叔父貴分にあたる人物とのこと。
(ずいぶん派手なおっさんだな……)
これが俺の第一印象。黒シャツの上に茶色いダブルブレスの背広を羽織り、ネクタイの代わりに金色のネックレスを下げている。
頭髪は些か時代錯誤的な黒のリーゼント・ヘアで、アゴのあたりまで伸びたもみあげと繋がっている有り様。カタギ社会ではまずお目にかかれない、いかにもなルックスだった。
余談だが、俺は幼少期、ああいうファッションの人物を親父の事務所で何度か見かけたことがある。
あれは空前の好景気で社会全体が沸き立っていた頃だったので致し方ないが、もはや時代は平成。バブルはとっくにはじけ飛んでいる。
後の世において「失われた10年」とも囁かれる平成不況の真っ只中にあった1998年に、バブルを引きずった懐古趣味的な装い――。
申し訳ないが、俺は笑いをこらえるのに必死だった。当時の自分は経済の知識など無いに等しいが、世の中が不景気に喘いでいることくらいは何となく分かるのだ。いわゆる勘ってやつ。
いま振り返ってみても、実に滑稽な姿だったと思う。もちろん客人の前で堂々と吹き出すわけにもいかないので、口元を押さえ我慢するだけ。こみ上げてくるおかしさで腹が痛くなりそうだった。
一方、そんな家入はソファーに我が物顔で腰を下ろしている。やがてローテーブル上のグラスに注がれた茶をひと口飲んだ後、ぼんやりと宙を見上げて呟いた。
「……こりゃ駄目だわ」
どっしりと重く、なおかつ部屋の空調設備の動作音にかき消されてしまいそうな声量。菊川が慌てて聞き返す。
「えっ。いま、何と」
「客に出す茶じゃねぇだろってこと! だいたいにして何だよ、これ?。マズくて飲めたもんじゃねぇわ。排水溝のヘドロか何かか?」
「プ、プーアル茶でございます」
「馬鹿野郎! そんな得体の知れねぇもんを客人に出す奴があるか。こういう時はな、煎茶かコーヒーって相場が決まってんだよ! そんなことも知らねぇのかい」
どうも出された中国茶が口に合わなかったようだ。神妙に恭しく頭を下げる菊川に対し、家入は眉間にしわを寄せて早口でまくし立てた。
「言っとくけどよ、俺は六代目からの伝言を預かって来てるんだぞ? もっと気合い入れてもてなせってんだ!」
「失礼をいたしました。面目次第もございません。すぐに取り換えさせます。普段、村雨はコーヒーはおろか茶は大陸のものしか飲まないものでして」
「それで組に置いてある茶は全部中国茶ってわけか? ヘッ! 何をやってんだい。 マナーや常識ってもんをまるで分かってねぇんだな。たわけもんが!」
家入は止まらない。
「ええかい? お前ら、せっかく羽振りが良いんだから。そんなんじゃいくら組がデカくなったところで出世は無理だ。上に行きたきゃ、それなりの処世術を叩き込むことだな」
「はい。覚えておきます」
「ちゃんと聞いてるか? 極道としての基本のきを教えてやってんだぞ? ったく、これだから最近の若手連中は……まあ、いちおう言っとくが。俺は村雨こそが今後の煌王会を背負って立つ存在だと思ってる。だからこうやって、キツイことも言う。そいつをちゃんと分かってもらわねぇとな」
「仰る通りです……」
淡々と受け答えを続ける菊川だが、その表情は苦渋に歪んでいた。心なしか口元は歯を強く食いしばっているようにも見える。
心情としては十分に共感できた。俺自身、このような無駄に長ったらしい説教が嫌いだ。鬱陶しい以外の何物でもない。
そこに「お前のために言ってるんだ」等と付け加われば、尚更のこと。全くもって余計なお世話。俺のためを思うのであれば黙っててくれ、と言いたくなる。
されど組織の中で生きるということは、上位者からもたらされる理不尽に耐えるということ。
迂闊に反抗するわけにもいかないらしく、菊川はずっと素直に耳を傾けている。周囲に対して恐ろしく慇懃な普段の姿からは想像もつかない、実に謙虚な態度。思わず、息を呑んでしまった。
(人ってこんなに変わるもんなのかよ……)
不意に生じた俺の感想はさておき、次第に家入はトーンダウンしてゆく。話しているうちに気持ちが落ち着いたのか。菊川から差し出されたライターで火をつけると、手持ちの煙草を深々と吸い込んだのだった。
「ふう……今日、俺がわざわざ横浜くんだりまで来た理由は他でもない。本家の六代目より村雨宛てに伝言を預かってきたからだ。村雨は出かけてるのかい」
「ええ。役人連中とシノギ絡みの会合がありまして。2時間ほど前から市役所の方へ出かけてます。呼び戻しましょうか?」
「いやあ、別にいいよ。こっちだって前もって伝えてなかったわけだし。外せねぇシノギってんなら、そっちに集中させてやんなよ。今後は特に金も要ることだろうし。本人が居ねぇなら、菊川。お前から後で伝えてやってくれ」
「ありがとうございます」
村雨が不在という事実を告げられても、最早気色ばんだりはしない。溜め込んでいた不満を先ほどの説教で全てぶちまけて、スッキリしたのか。家入は至って穏やかだ。
間近で受ける側としても、耳をそばだてて聞く側としても、やはり所詮は個人的な主観でしかないクレームを延々と浴びせられずに済むのは良い。
ただ、俺には他方でどうも引っかかることがあった。
(あれ? でも、さっき組長は部屋に……)
しかし、そんな疑問は直後に聞こえてきた会話によって一瞬でかき消されてしまう。家入の口から飛び出した本題は、予想をはるかに上回っていた。
「実は昨日、本家で定例会があってな。前から議題に上ってた、村雨耀介を横浜の貸元とする案が正式に承認されたんだ」
「ええっ!? それって、もしかして……」
「ああ。そういうことだ。お前らにとっちゃあ、ついに大願成就ってことになるな。おめでとさん」
貸元――。
主に博徒系が大半を占める西日本のヤクザ社会において広く使われる用語だ。親分から信託を得て中央より派遣され、当該地域における所領の管理および防衛を一手に引き受ける、いわば「シマの責任者」。
これに任じられるということは即ち、村雨耀介が煌王会の会長から直々に子分として認められたことを意味する。そう。村雨組の直系昇格だ。
(おいおい、マジかよ!!)
そのあたりの事情は横浜に来て間もない頃に芹沢から役職名も含めてレクチャーを受けていたので、俺の頭でもすぐに理解できた。
1998年時点で構成員数は全国で2万5千人を突破し、日本最大の暴力団となっていた煌王会から直系の盃を貰えるのである。これを凄い話、もしくは快挙と呼ばずして何と呼ぶのか。
報せを受けて驚愕していたのは、菊川も同じ。
「ほんとですか!? ぼ、僕らが……いや、村雨組が、煌王会の直系団体になれるなんて……」
「本当に決まってんだろ。そんなくだらん冗談を抜かしたりしねぇよ。さっきも言ったように、俺は本家の長島会長の使いとして来てんだから。そこんところは安心していい」
「ありがとうございます……でも、実感が湧かないなあ。何せ、あまりにも急なお話ですから。なんか、もう、夢のようで……」
「ははっ、信じられねぇか。けどな、お前たちのここ最近の働きぶりを考えりゃ、別に不自然な話でもないだろ。あの伝説の『ハマの英雄』藤島茂夫の命を取って、その上で大鷲会をぶっ潰したんだからよ。実績としては十分すぎるくらいだよ。六代目もたいへん喜んでおられる」
ふとドアの隙間から視線をおくってみると、菊川は両方の瞳をわずかに赤らめていた。少し遅れて鼻息をしゃくりあげる音も聞こえてくる。
嗚咽。人が感極まった際にたびたび見られる生物的な現象だ。こみ上がる情念の大波を堪えきれていないあたり、よほど大きく心を揺さぶられているのだろう。
やがて、彼の両頬には一筋の滴が落ちた。
「ううっ……つ、ついに……果たせるんですね。僕たちが10年間追いかけ続けた夢が、ついに……」
「おいおい。泣くほどの事じゃねぇだろ。これまた、ずいぶん大袈裟な反応をしやがる。少しは落ち着けよ」
「す、すみません……だけど、ほんとに、ほんとに嬉しいんですよ……ここまで来るのに、それこそ数えきれないくらいの修羅場があったので……全部が報われたような心地です……」
「そうかい。気持ちは分かるぜ。かくいう俺も直系に上がるのにゃあ苦労したからよ。お前らの場合、組を旗揚げして10年そこらで上がれたんだから早い方じゃねぇか」
家入の言葉に何度も頷きながら、すっかり歪みきってしまった目元をハンカチで拭い続ける若頭。
菊川がここまで感情を露にする姿は、見たことが無かった。いつも飄々としていて人を食った態度が目立つ男だけに、どこか意外な一面を知れたような気分だ。
不遜な振る舞いを繰り返してこそいるが、心の根っこにあるのは強固かつ強大な忠誠心。そうでなければ、組長の慶事に際して人目を憚らず感涙にむせんだりはしないはず。
先ほどの俺の見立てに、やはり狂いは無いらしい。仮説が確信へと変わった。まだ100%気を許せるわけではないにせよ、1%くらいは信用を置いたって良いだろう。
そんなことを頭の片隅に置きつつ、俺はなおも聞こえてくる会話に耳を傾けた。
「だけどな、菊川。あんまり舞い上がってばかりいられちゃ困るぜ? 肝心なのはここから、直系に上がった“その後”が本番なんだからよ」
「は、はい……十分に理解しております」
「貸元の地位を賜るってのは、親分からお預かりしたその土地を死んでも守ってくってことだ。承知の通り、横浜はただでさえキナ臭い街だからな。甘い汁を吸うために寄ってくるハイエナみてぇな輩も多いこったろう。今のうちに気を引き締めておくんだな」
世界有数の貿易ターミナルをいくつも抱える大都市、横浜。人口は鰻のぼり式に増え続け、それに伴い街の再開発がきわめて短いスパンで繰り返されるために利権には事欠かない。
どんなに貪っても無尽蔵に金脈が湧き出し続けるその様は、言うなれば「シノギのオアシス」。もはや言わずもがな、裏社会の住人達にとって横浜は旨みしかない場所なのである。
むしろ、各方面から狙われない方がおかしいといえよう。素人同然の俺でも十分に予想できた話であった。
「特に気をつけるべきは中川会だ。これまで大鷲会に手を焼いてたせいで、連中は横浜を落とせずにいたからな。藤島が死んで街の勢力図に空白が生じた今この状況を好機と思わんはずがない。必ず、何かしらの形で攻めてくるはずだぜ」
「ええ。僕も同意見です」
「街の掌握は急いだ方が良い。攻め込まれる前に大鷲の残党を片づけて、横浜を村雨で完全に統一するんだ。いいか?決して油断をしねぇことだ。相手はどんな手でも使ってくる。中川会の動きから、くれぐれも目を離すんじゃねぇぞ?」
家入曰く、まずは港から制圧を優先せよとのこと。港を押さえれば貿易船が関税を逃れる窓口になったり、貨物の積み下ろし労働者を囲えたりとシノギの幅が広がり、黙っているだけで毎月莫大な大金が転がり込んでくるらしい。
「俺たちヤクザの戦争は消耗戦。要は軍資金が相手より1円でも多い方の勝ちよ。これから自分達だけで横浜を仕切ってこうってんなら、尚更な」
「なるほど。だからこそ、一刻も早く港を手に入れて長期的な財源を確保しろってことですね?」
「ああ。そういうこった。いちおう言っとくが、こいつは敵さんも考えてることだ。ご来襲となりゃ、お前らのシノギを潰そうと真っ先に港を狙うはずだぜ。極端な話、兵隊なんざカネさえありゃどうとでもなる。警備の人手は可能な限り増やしておけ」
相手の収入源を奪い、経済的に干上がらせる。
いわゆる“兵糧攻め”が軍事作戦の基本であるという世の理は、時代が室町後半から平成に、当事者が武士から極道にそれぞれ移っても、特に大きく変わったりはしない。
そうした事実をきちんと把握できていた辺り、この家入行雄という人物は単なる偉そうなおっさんではないらしい。古の故事を交えて明快に話す姿はさながら学者であった。
「兵糧を制する者こそが戦を制する、こいつは歴史を省みりゃあ一目瞭然だ。あの曹操が官渡の戦いで7倍以上の兵力を持つ袁紹軍を破ったのも、曹操側が兵糧庫を焼き払って敵の継戦能力を削いだのが勝因といわれているくらいだ」
「なるほど。たしかにそうですよね。官渡の戦い、懐かしいです。子供の頃に死んだ祖父から何度も聞かされました」
「あと、日本で挙げるなら長篠の戦いだな。あれは織田と徳川が事前に長篠城へ大量の兵糧米を運び込んでおいたのに対し、武田は城を包囲してる途中でメシが尽きた。もしも武田が初期段階で兵糧入れを阻止できてたら、歴史は違っていたかもな。少なくとも大量の鉄砲の餌食になることは無かったかもしれん」
会話の中で飛び出した歴史的事象については何のこっちゃだったが、主旨は十分に理解できる。
ヤクザの抗争に置き換えるならば、できるだけ早い段階で十分な兵糧(=軍資金)を確保しておくのが何よりも大切ということ。
短期で雌雄を決するつもりであったとしても、事前の備えは絶対に必要。途中で不測の事態が起きて情勢が急変、抗争自体が長期化する可能性は常に伴うのである。まさしく「転ばぬ先の杖」だ。
若頭と来客とが繰り広げる談義を静かに聞いていた俺だったが、途中で何度も頷いてしまった。家入の話は絶妙な例えを持ち出すのが上手く、全体を通してユーモラス。
おそらくは相当量の知識があると見て間違い無いだろう。菊川も、彼のあまりの博学ぶりにひどく感心していた。
「本当にお詳しいですね。流石としか言いようがございませんよ」
「別に大したことじゃない。俺はあくまで、戦略の基本を説いてるだけだ。ほら、孫子も言ってるだろ? 『軍に輜重無ければ則ち亡び、糧食無ければ則ち亡び、委積無ければ則ち亡ぶ』って」
「戦争に負ける際に揃う条件として、後方支援、兵糧、軍資金、この3つの喪失を挙げてるわけですね。なるほど。実に分かりやすい。大叔父貴はよくご存じで……」
「おうよ。当たり前だ。何せ俺は孫子の生まれ変わりにして煌王会随一の戦略家だから、なーんてな。あーはっはっはっはっ!」
冗談はさておき、たしかに的を得た提言だったと思う。
その後も家入は緒戦における人員の動かし方から拠点の防衛、武器の入手法に至るまで、抗争のイロハを事細かく教授してきた。
武器に関して言えば、村雨組には銃火器類に精通した元米兵のスギハラがいて独自の調達経路を有しているのだが、家入はそれよりも廉価な販売元を知っているという。
「ひと通り手帳にリストアップしといた。アメ公の基地から流れてくるのを待つより、確実に早く入手できると思うぜ。もちろん、どこも俺の馴染みばかりだ。『家入組長の紹介』って言えば、チャカ1丁につき2万くらいで卸してくれるだろ」
「安いですね。わざわざすみません。たしかに拳銃1丁で2万円は破格だ。でも、性能は大丈夫ですか? 他にも村雨組は米国製にこだわってるものでして」
「心配すんな。安かろう悪かろうってんじゃない。コルトやベレッタ、M16まであるぞ。今お前らが使ってるものと変わらんはずだ」
「なら良かったです。トカレフなんか、粗悪品が多くて本当に使えたもんじゃないですからね。ロシア製は本当に動作不良が多い。まあ、カラシニコフに限っては別ですが」
渡された小さな手帳に視線を落とす菊川。
銃の購入費用を少しでも落とすことができれば、その分資金に余裕が生まれる。組の財政を預かる若頭としては、やはり嬉しい事この上ないのかもしれない。パラパラとページをめくる手つきに、彼の気持ちが表れていた。
「ありがとうございます。こんな貴重な情報まで教えていただいて……」
「六代目のご意思だ。村雨が横浜を完全に支配すりゃあ、自ずと本家に届く上納金も増えるからな。もちろん俺としても、これからどんどん頑張ってもらいてぇと思ってるんだ。煌王会の未来のために」
ずいぶんな持ち上げ方だ。家入の言葉を文字通りに受け取るならば、組織の将来を背負って立つ存在として、村雨耀介および村雨組に並々ならぬ期待を寄せているようである。
ならば、先ほど菊川に浴びせた厳しい台詞の数々はその裏返しというわけか。本心が何処に在るのかは予想もつかなかったが、何にせよ激しい口調で「たわけもんが!」と罵った先刻の姿とのギャップはあまりに著しい。声にこそ出さぬものの、どうにも苦笑を堪えることができなかった。
(わかんねぇな……オッサンの考えることってのは……)
そんな俺を尻目に、家入と菊川の話は以降も15分ほど続いた。と言っても家入が一方的にペラペラと主張を展開するだけなので、もはや話というよりかは授業のような雰囲気。
菊川も菊川で、ただひたすらに相槌を打って耳を傾けるのみ。敬愛する組長のことを称賛されてすっかり気を良くしたのか、テーマが次第にくだらぬ雑談へと逸れていっても全く気にも留めない。
ゴルフのスコアがついに90を切った、という家入の自慢話にも笑顔で乗っかる有り様。そうした若頭の姿に、きっとあの応接室に居た者の大半が心の中で深いため息をついたことだろう。
ところが、終盤。
「あの、大叔父貴。最後にひとつだけ伺いたいことがあるのですが、よろしいでしょうか……?」
話すべきことは全て話して満足したとばかりに帰ろうとする家入に対し、それまで聞き手に徹していた菊川が不意に問いを投げかけた。
「ん、なんだ」
「斯波一家です。村雨が横浜の貸元に任じられて直系に昇格するということは、彼らにとって見ればシマをひとつ失うことに他ならない。昨日の定例会で、清原総長から反対の声は上がらなかったのでしょうか?」
「反対してたさ。猛烈にな。最後は日下部のカシラに懇々と説得される形でようやく折れたが、あの様子じゃ清原は納得してねぇわな」
「やっぱり、そうなりましか。いちおう覚悟はしていたんですが。今後は、清原総長の動きにも気を配る必要があるというわけですか……うーん、あの御仁のことです。村雨組を潰して横浜を奪い返すために、色んな手を使って仕掛けてくると思います」
ここで出た“清原”とは四代目斯波一家総長、清原武彦を指す。
斯波一家は静岡県西部・伊豆半島全域を支配下に置き、煌王会の直系筋にあたる一大組織。もう何度も書いてきたので改めて説明する必要も無いと思うが、1998年8月当時は村雨組の上部団体の地位にあった。
菊川の抱く懸念。それは村雨組が斯波一家から正式に独立するにあたって生じる、旧主との血生臭い摩擦だ。
「……大叔父貴もご存じのこととは思いますが、今の我々に二正面戦争をやるだけの余裕はありません。もともと斯波とは揉めるつもりでいましたけど、そこに中川会まで加わってしまうのは流石に敵が大きすぎる」
「たしかにな。これからデカい敵と戦おうって時に、身内から背後を突かれるなんざ堪ったもんじゃねぇ」
「家入組の兵隊を貸してくださいとは言いません。ただ、我々が中川会にかかっている間、斯波の動きを止めて頂きたいのです。大叔父貴なら清原にも顔が利くでしょう。どうか、お願いいたします!」
そう言って立ち上がるや否や、深々と頭を下げる若頭。
斯波一家の構成員数はこの時点で3000人弱おり、村雨組とは60倍近い差が開いている。中川会という巨大な敵を相手にする以上、斯波に不意を打たれる展開になってはならないのだ。
「大丈夫だ。安心しろや、菊川。その点は六代目も重々承知していらっしゃる。斯波が横浜へ手を出さねぇよう、今後も本家として逐一釘を刺していく方針だからよ」
「清原は収まるでしょうか……? 既に長島会長からは直々に説得を受けていて、なおも折れる気配が無かったんですよね?」
「問題ねぇよ。その時はその時だ」
不安に表情をこわばらせた菊川の左肩をポンと叩き、とりあえず座るよう促した家入。菊川の懸念をよそに、ずいぶんと余裕ぶった様子である。これではまるで他人事だ。
(何だよ。さっきは都合よく褒めてたくせに……)
名古屋にほど近い豊橋地区の貸元として煌王会の幹部にも名を連ねる彼にとって、斯波一家も村雨組も所詮は格下の存在。内紛を繰り広げた結果どうなろうと、己の知る所ではないということか。
傍から話を聞いているだけでも、実に腹立たしい。俺の眉間にはしわが刻まれる。ところが、家入の口から語られたのは少し意外な事情であった。
「ここだけの話だけどよ。六代目は斯波一家を潰す気でおられる。村雨と清原が本格的にドンパチやることになったら、おそらく煌王会は清原を切り捨てて村雨のケツを持つだろう。清原は破門、斯波一家は解散だ」
「えっ? それって、どうして……?」
困惑気味に尋ねる菊川に、家入は声のトーンを幾ばかりか落として答える。
「最近の清原の動きは目に余るんだよ。静岡の西を仕切る桜琳一家の頭越しにコソコソ動いて、県会議員の犯罪揉み消しに協力したり、浜松市長選へ介入したり、あまつさえ熱海の旅館から保護料を取ったりな。お前も知っての通り、六代目は桜琳のご出身だ。このシマ荒らしに怒らんはずがないだろう」
煌王会六代目会長、長島勝久の出身母体である桜琳一家の所領を斯波一家が荒らしまわっている――。
俺としても初めて耳にする話だ。週刊新星のヤクザ特集は勿論、たぶん実話誌にすら載っていなかったと思う。家入の低くて重苦しい声色も相まって、やけに不気味かつ生々しく聞こえた。
まさにインサイダーの情報。真偽の程はともかくとして、長島が清原および斯波一家の排斥を考える動機としては十分である。菊川もすぐに合点がいったようだ。
「……そういうわけでしたか。たしかに斯波と桜琳は静岡県を東西に二分する存在で、シマが隣合ってますからね。トラブルが起きてもおかしくはない。最も、現会長の古巣に易々と手を出すかどうかは甚だ疑問ですが」
「残念なことに、手を出しちまうんだよ。清原は現体制に不満が溜まってるみてぇだからな。隙を見てクーデターさえ狙ってるらしい。六代目を会長の座から引きずり下ろし、あわよくば自分が後釜に座ってやろうっていう」
「なっ、クーデター!? 清原が……?」
「ああ」
ゆっくり且つ大きく頷いた後、家入は言った。
「今回、村雨組を直系に昇格させるのは単に近頃の働きぶりだけじゃない。現体制の打倒を目論む跳ねっ返りを牽制してもらうためでもある。よって今後村雨が斯波と争うようなことがあれば、その時は本家がお前らのケツを持ってやる。金も兵隊も思いのままだ。そこは安心してくれ」
事情が複雑に入り組んでいるが、どうやら煌王会の上層部としても村雨組と斯波一家の決裂を期待しているらしい。
封建制に由来する原価な上下関係を大前提とする極道社会で、下剋上はタブー。現状の村雨組は斯波一家の子分という立ち位置のため、表立って弓を引けずにいた。
ところがどっこい、本家に横浜貸元の地位を貰って直系になれば“同格”の存在へと向上する。これまでより、ずっと斯波と争いやすくなるのだ。
2人の話を聞きながら、少しずつ理解が追いついてきた俺。一方の菊川も組織の“思惑”を悟ったようだ。
「なるほど。六代目は、僕らに斯波一家を叩いてもらいたいと」
「うむ。本来は身内同士の諍いは御法度なんだが、組織の安寧を脅かす不届きな輩をぶっ潰すとなれば例外だ」
「我々が斯波を攻撃するのも、すべて黙認して頂けるのですね?」
「黙認どころか、煌王会総出でお前らを助けるよ。何度も言ってるように、こいつは六代目のご意思だから、何も心配は要らない。だから、しばらくは中川の対処に専念していいぞ。後ろは俺たちに任せてな」
決して単純には片づけることのできない、村雨組の直系昇格。様々な意図や利害関係の見え隠れする話だが、上層部が全面的に後ろ盾となってくれるのあれば当面は安泰だろう。
俺は心の中で、ホッとため息をついたのだった。
たぶん、菊川も同じ心境だったと思う。肩の重荷が解消されて楽になったとばかりに、彼は安堵の表情を浮かべた。表情も、みるみるうちに綻んでゆく。
「はあ、良かった……これでひとまず安心いたしました。六代目がそのようにお考えなら、これほど心強いことはありません」
「ああ。もし万が一、斯波の馬鹿どもがお前らの昇格を認めずに横浜へ攻め込むようなことがあれば、その時は本家が1000人ほど兵隊を送って村雨組に加勢する。もちろん、家入組もな。みんなお前らを応援してるよ」
味方は予想以上に多いようだ。
言っては悪いが、意外であった。村雨組は汚いシノギに平然と手を出すために、煌王会の中でも半ば鼻つまみ者扱いされている感がどうしても否めなかったのだ。
されど、一方で煌王会に貢献しているのもまた事実である。時代の変化に付いて行けずに金銭面で苦慮する組が多い中、村雨組はずば抜けて多い上納金をコンスタントに献上し続けているという。
言うまでもなく、村雨耀介による手段を選ばぬ辣腕ぶりの賜物。下っ端組員たちの所業はともかくとして、安定した稼ぎを喉から手が出るほどに欲する長島会長がこれを評価しないわけが無い。
考えてみれば、納得できる話だった。
「だからよ、お前らは何も考えず目の前のことだけやってりゃいい。まずは襲名式。日時も含めて本家から追って連絡があるだろうが、先立ってこれを渡しておく」
家入が菊川に差し出した、1枚の真っ白い縦長の封筒。見るからに上質な和紙が使われている表面には、滑らかな筆文字にて「勅」の一文字。どういう意味なのかはさっぱりだが、中に重要な書状が入っていることはすぐに分かった。
「つ、謹んでお受けいたします!!」
「おう。本音を言やぁ、村雨に直接手渡したかったんだがよ。留守っていうんならしょうがねぇや。とりあえずはお前に預ける。後で村雨によろしくな」
「かしこまりました。本人が帰り次第、必ず渡します。あいつもきっと喜ぶことでしょう。僕らは共に16歳でこの世界に入った時から、ずっと追いかけ続けていた夢がついに叶うのですから……」
「浮かれるのは良いが、直系昇格はゴールじゃなくてスタートなんだ。そこら辺はくれぐれも気を引き締めておけ。まあ、今夜くらいは喜びに浸るのも悪かねぇかな。んじゃ、また来るわ」
そう言い残すと、家入は帰っていった。
組員たちが見つめる中、残された菊川は客人が去った後もソファーに座り続けたまま。先ほどの「勅」の封筒を両手で持ち、静かに視線をおくっているではないか。
「……」
特に言葉を発するわけでもないので、室内は沈黙に包まれる。だが、相も変わらず封筒を一心に眺め続ける表情から、彼が何を考えているのかはすぐに分かった。
菊川は悦に入っている。
おそらくは直系昇格の報せが、嬉しくて嬉しくて仕方が無いのだろう。すっかり緩んだ両頬と穏やかな眼差し。
気のせいか、それらはどこか純真な少年のようであった。「ずっと欲しかった玩具を遂に手に入れた子供の表情」とでも喩えれば良いだろうか。
次第に感情が露になってゆくのは、その場にいた他の組員たちとて同じ。皆、少しずつ口を開き始める。
「マジかよ。信じられねぇわ。俺たち、ついに直系になれるのかよ!? 天下の煌王会の直系に!!」
「シノギをたっぷりこなした甲斐があったってもんだ……」
「早く教えてやらねぇとな。ムショにいる連中にも。あいつら、きっと飛び上がっちゃうだろうぜ。誰か、手紙を書いてやれよ」
「ああ。どれもこれも、全ては組長のおかげだ。一時はどうなることかと思ったけど、もう結果オーライだぜ。あの人に、村雨耀介についてきて本当に良かった」
近くにいる者と語り合い、手を取り合って喜ぶ彼ら。先刻まで黙っていた分、押し込めていたものが一気に溢れ出てきているようだ。中には、前方の菊川に話しかける若衆もいた。
「やりましたね、カシラ! おめでとうございます」
「う、うん……実を言うとね、僕もまだ実感が無いんだよ。あの日、組長と2人でヤクザになるって決めた日から14年。本当に長い道のりだった。たくさん苦労もしてきたし、辛いことも山のようにあった。けど、何もかも報われた気分だよ。全ては、この日のために……」
またしても涙がこみ上げてきたようで、言葉を止まらせる若頭。釣られるかのように、背後の組員たちも次々と目頭を押さえ始めた。
なお、俺はというと別に号泣したりはせず、ただ黙ってその場を見渡していただけ。歓喜の渦に飲み込まれてゆく室内にあって、完全に空気と同化してしまっていた。
(やっぱ凄ぇことなんだな……直系に上がるって)
誤解を招かぬように一応書いておくが、決して冷めた気持ちでいたわけではない。俺自身も彼らと同じように嬉しかった。己が身を置く組織が手にした栄光を喜ばぬ者が、一体どこにいるというのか。
ただ、嬉しさの度合いに差があっただけ。村雨組に来てから、その時点でまだ半年にも満たず。他の者が味わったような苦労や修羅場も、俺は一切経験していないのだ。むしろ、自然な反応といえるだろう。
また、自分の立場が組の中においてあまり芳しくはないといった事情もある。下手に口を開いて喧嘩沙汰になるのも気が引けたので、ひとまず黙って聞こえてくる会話に耳を傾けておくことにした。
「皆、本当に感謝してるよ……僕と組長をここまで支えてくれて。こういう事を言う機会なんて滅多に無いんだけど……今日だけは、今日だけは言わせてもらうよ。本当にありがとう!!」
「カ、カシラ……よしてくださいよ。そんな風に頭を下げるなんて……らしくないじゃないですか……」
「いやいや、皆がいなけりゃ、僕らはここまで来れなかった。お世辞でも大袈裟でも何でもなくて、今日の村雨組があるのはキミたちのおかげだよ。この間まで僕が刑務所に入ってた時も、たびたび暴走しそうになる組長を命がけて止めてくれて……」
「い、いや……そいつは俺らじゃなくて、芹沢の叔父貴っすよ。ほんと、あの人の力は大きかったです。最も、どっかのガキのせいで、叔父貴はいま豚箱の中ですけど……」
だが、そんな時。
「浮かれるのは時期尚早であろう!」
突如、室内に野太い男の声が響いた。一瞬で場が静まり返る。声のした方角に視線をやると、そこにいたのは思いがけない人物。
「何を騒いでいる? 我らは今、戦の真っ最中なるぞ。笛吹一党の居所も未だ知れぬという時に、かような体たらくで何とするか!!」
村雨だった。
組長のお出ましとあっては、皆そのままでいられない。慌てて背筋を伸ばすや否や、一斉に頭を下げた。
「ご苦労様です!!」
とりあえず一緒に立礼をしておく。しかしながら、同時に疑問が頭の中をかけめぐる。何故、ここに組長が居るのか。心の中で首を傾げずにはいられなかった。
(さっき、横浜市役所に行ってるって……)
そんな俺を尻目に、村雨は居並ぶ組員たちの間をかき分けて部屋の中央へと進む。そして先ほどまで家入が座っていたソファーへ腰を下ろすと、菊川に低い調子で問うた。
「大叔父上は帰ったか? あの御仁にしては、さほど長居はしなかったようだが」
「あ、ああ! ちょうどさっき帰ったとこだよ」
わずかに唾をゴクリと吞み込んだ若頭。伝えたい報せが流石に大きすぎて、上手く言葉にできないのか。声を震わせながら、手元の書状を村雨に差し出す。
「あのさ……こ、これを見てよ……さっき家入の大叔父貴がくれたんだけど。キミを横浜の貸元にするって……僕ら、ついに直系になれるんだ!」
菊川は笑みを浮かべていた。おそらくは興奮を抑えきれなかったのだと思う。決して不自然な挙動ではない。全身の血液が沸騰するような歓喜に接すれば、彼に限らず誰だってそうなるはずだ。
「うむ。そうであったか」
受け取った封筒から中身を取り出し、村雨は手紙の文面に目を通す。俺の立ち位置から詳細を覗くことは叶わなかったが、例によって秀麗な筆文字で書いてある。
「あれ……? えっ、それだけ? 驚かないの?」
「大して喜ぶことでもあるまい。ここ最近の我らの武功を鑑みれば当然の恩賞だ」
予想を大きく外れて、村雨のリアクションは実に淡白だった。わずか30秒ほどでひと通り読み終わると、書状を封筒へ仕舞い込んでしまう始末だ。
てっきり、組長は笑顔を見せて喜ぶものと思っていた。少年期に煌王会の門を叩いて以来の悲願が、ようやく成就したのではないのか。
(どうして……!?)
彼の様子にただならぬ違和感を抱いたのは、他の連中たちも同じ。にわかに室内がざわめき始める。呆然とする者、首を傾げる者、冷や汗を浮かべる者と組員たちの反応は様々であった。
無論、当の本人は眉ひとつ動かす気配はない。やがて村雨は封筒を再び閉じ終えると、いつもとまったく同じ口調で菊川に言った。
「むしろ遅すぎたくらいだ。私としては、2年前に上がっても良かったが。なれど、本家が我らを頼ってきたのだ。斯波に代わって東海の守護を成す、新たな力としてな。ここは期待に応えてやろうではないか」
「あっ、ああ……うん」
「此度の叙任の旨、喜んで承るとしよう。本家にも左様に伝えておけ」
そして立ち上がると、室内に集う若衆の方を向いて続けて言い放つ。
「良いか? 私が貸元の座に就いたところで、変わるのはせいぜい本家での扱いくらいだ。いま、我らの周りを幾重にも敵が取り囲んでいる状況は変わらぬ。これを打ち破らん限り、我らに明日は無い。皆、ゆめゆめ気を緩めるな!」
これまでの努力を労う台詞が出るかと思いきや、浴びせられたのはまたもや叱咤。一同は戸惑ったが、やはり不服の意を表明する者は無し。
『はい! 承知いたしましたっ!』
表情は複雑であったが、全員そのように前向きな言葉を返すだけ。組の中では絶対的な独裁者たる残虐魔王・村雨耀介に対し面と向かって物申せる人間など、下っ端連中の中には誰一人として存在しないのだろう。
余談だが、五反田の本庄組であればこうはならない。全体的にもう少し穏やかな雰囲気というか、殺伐とはしていないのだ。多少の緊張感はあれど、子が親に対して意見できるほどには上下の風通しは良い。所詮は比べても仕方のないことなのだが。
(もうちょい、言い方あるだろ……)
俺個人の意見はさておき、その場を後にしようと村雨は歩き始める。相変わらず気持ちの切り替えが早い。吉報も凶報も、すべて真正面から噛み砕いて心は一切揺れ動かないというわけか。
慌てて、若頭が後ろからついてゆく。
「ときに菊川。商工会議所との交渉はどうなった? 先日申し伝えた件であるが。どの程度、奴らは話を呑むであろうか?」
「えっ、ああっ。それなんだけど……どうもダメっぽいね。いくら妥協案を示しても首を縦に振らない。あいつら、この街の支配者が未だ大鷲会だって勘違いしてるよ」
「うむ。左様か。ならば、こちらとしても強気でいかねばならんな。己が誰を相手にしているか、あの老人どもに痛みで教えてやるのだ。作法については、分かっておるな?」
「もちろん。キミがやれって言うなら、徹底的にやるまでだよ」
驚いた。もう既に話題が変わっている。察するに、テーマはここ最近で新たに始めたシノギについて。詳しい内容は分からないが、荒っぽい手段を伴われるであろうことは何となく分かった。
「ほらほら。いつまでもボーッとしてないで! キミたちも早いとこ仕事に戻ってくれ。また忙しくなるぞ!」
解散を促す菊川の声で、組員たちもそれぞれ動き出す。皆、それぞれに思う所はあるようだ。しかし、共通しているのは「直系昇格の話を聞いても、何故に組長は喜ばなかったのか?」との一点。かくいう俺も、その中のひとりである。
村雨耀介がドライな人物であることは重々承知しているが、14年来の夢が叶った瞬間さえも淡々と受け流してしまうとは。一体、如何なる理由があるのだろうか。どうにも、彼の本心を推し測れなかった。
(もうちょっと喜んだって良いのにな……)
だが、そんな時。他の者に続いてため息と共に部屋を出ようとした俺の耳元で、村雨がそっと囁く。声量は小さくともはっきりと聞き取れる、実に単純な言葉であった。
「……涼平、昼飯を済ませたら誰にも悟られぬように私の部屋へ来い。お前だけに話しておきたいことがあるゆえ……」
「えっ!?」
いかなる意味か。こちらが尋ねる間もなく、村雨は行ってしまう。ほんの一瞬のうちの出来事でおまけに声のトーンも低かったために、周囲の人間は誰も気づいていない。あ然と、その場に立ち尽くすしかなかった。
(俺だけに話しておきたいこと……? 何だ?)
皆目見当もつかないが、呼び出しを受けた以上は行ってみるしかない。運の良いことに、俺としても村雨に聞きたいことがある。この際、彼から真意を聞き出してやろうではないか。
「……」
目立たぬように沈黙を保ったまま、俺は敢えて組長とは違う方向へ部屋を出る。そして時間帯が昼下がりを迎えるまで自室にて暇を潰し、頃合いを見計らって2階の執務室を訪れたのだった。