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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第7章 そして少年は極道になった
107/252

魔王の威を借る使い魔

 それから、歩いて数十分。


 少し和らいだ暑さの下で山手町まで戻ってくると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。普段であれば門の前に2人の若衆が立番をしているのだが、どういうわけか姿が見当たらない。


「……!?」


 何か、よからぬ事態が起きているということは一瞬で分かった。人間の勘とは不思議なもので、このような場面では大体的中する。


 互いに顔を見合わせながら、とりあえず玄関へと進む俺たち。扉を開けると、出迎えたのは真っ青になったジャージ姿の組員だった。


「いま帰ったぞ」


「く、組長! おかえりなさいませ!」


「何があった? ずいぶんと血相を変えているようだが」


「……木幡の兄貴が」


 飛び出したのは聞き慣れた名前。


 村雨組に長きにわたって潜伏し、情報を笛吹へ逐一流していたとされる内通者である。俺と組長がいない間に、奴が一体何をしでかしたというのか。


(まさか、屋敷で暴れた……?)


 だが、それにしては邸内がやけに静かである。そもそも己の正体が露見した事実を本人が察知しているとも思えない。考えられるとすれば、別の可能性になってくる。


「ん? 木幡がどうした?」


「実は……」


 余程よほどのことなのか。村雨の問いに対して、なかなかはっきりとした答えは返ってこない。非常に言いにくそうに間を溜めた後、組員はじっと俯いたまま話を切り出す。


「……死んだんです」


 俺は耳を疑った。


 意味が分からない。だが、ひどく狼狽えた組員の様子から察するに、決して冗談の類を述べているわけではなさそうだ。どうやら真実らしい。


「どういうことだ? 奴が死んだとは」


「え、その、何と言いますか、ご、ご覧いただいた方が早いかもしれません。こちらへ」


 眉間にしわを寄せて尋ねた組長に対し、百聞は一見に如かずとばかりに現場へ案内する若衆。所々で言葉を詰まらせながらもどうにか説明を試みる様子は、どこか健気とさえ思えてくる。


 彼らの会話に耳を傾けながら、とりあえず黙ってついて行ってみた。


「何が何だか、俺たちにもさっぱりなんです! どうしてこんな事になっちまったのか……」


「ひとまず落ち着け。死んだと申したが、屋敷ここでか?」


「はっ、はい! 組長が麻木とお出かけになってすぐに」


 しばらくすると、俺たちは“現場”へと辿り着く。そこは屋敷の2階にあり、当番の若衆たちが食事を取るための休憩スペースだ。


 そんな部屋の中央のテーブル付近に、木幡は仰向けになって息絶えていた。椅子から崩れ落ちたのだろう。両方の瞳は完全に白目をむき、口元からは多量の泡が吹き出ている有り様だ。


 一方、周囲にはあたふたする者たちで溢れかえっている。皆、軽いパニックを起こしていた。ほぼ全ての組員が集まっていたので、入り口に守衛はいなかったのも頷けた。


「お、俺たちは止めたんですけどね。兄貴、自分は大丈夫だからって聞かなかったんです。そしたら10分くらい経って、いきなり苦しみ出して……」


覚醒剤シャブか?」


「い、いや……そいつが分からねぇんです。粉末なんすけど覚醒剤にしちゃあカラフルすぎる感じで。仕入れ元もさっぱりです」


 おおよその事情が分かった。そう。木幡の死因は、薬物を短時間で多量に摂取したことによる急性薬物中毒。俗に「オーバードーズ」などと呼ばれる症状だ。


 一部始終を目の当たりにした組員曰く、木幡は自ら調合したという麻薬らしき粉末を一気に吸引したのだとか。状況が状況なだけに、俺は首を傾げた。


(スパイの件がバレたから、慌てて命を絶った……?)


 だが、それにしては展開が早すぎる。


 笛吹から内通者の正体を明かされたのは、つい1時間前のこと。俺たちが病院に着いた時には既に絶命していたという木幡が、自らの素性が露見した事実をどうやって知ったのか。時系列的に有り得ないだろう。


 また組員の話を聞いていると、自殺の線はますます薄まってくる。何でも、木幡は日常的にドラッグを使用していたとのこと。


「あの人、けっこう前からかなりの頻度で注射を打ってましたね。シノギで売り捌く品物を『自分の体で試してみる』とか言って。傍から見りゃ、ただのヤク中でしたけど」


「それで? お前たちは奴が薬物クスリに溺れてゆく様を黙って見ていたというわけか」


「あ、いや。い、一応、見かけたらその都度止めるようにはしてましたぜ。けど、兄貴には毎回あしらわれちまって……」


「愚か者め! それでも体を張って諫めるのがお前たちの務めであろう。話してくれさえすれば、私から奴を諭すことも出来たものを。何故に今まで黙っていた!?」


 村雨の憤慨は理解できる。しかし、本人が諫言を容れる正常な判断力を持っていたならば、そもそもドラッグに手を出したりはしないはず。


 常習的に麻薬を使用する人間にとって、そこから得られる快楽は他の何物にも勝るのだ。いくら組長が直接説教をかましたところで、彼の目の届かぬ所でこっそりと使い続けるのが関の山。


 溺れに溺れた中毒者に聞く耳など有りはしない。「為せば成る」的な論理で理不尽に責められる組員たちに、俺は思わず同情してしまった。


「木幡め。よもや、かような形で逝くとは夢にも思わなかった。聞き出さねばならぬ話が山ほどあったというのに。これでは何も分からぬではないか!」


「えっ? それって、どういう……?」


「いや、こちらの話だ。気に留めるな。それよりもはよう木幡を片づけてやれ! これ以上、屋敷を骸の臭いで汚したくない!」


「しょ、承知いたしました」


 村雨に檄を飛ばされ、組員たちはあたふたと遺体の処理を始める。既に数時間が経ってしまったこともあり、木幡の体は死後硬直が進んでいて見るからに重そうだった。


 よく見ると、その死に顔は穏やかである。不気味な程に開かれたとは目元とは裏腹に頬が緩んでいるのだ。差し詰め、最後の最後まで悦に浸っていたことだろう。


(なるほど。こいつにとって大好きなクスリで死ねたのは本望ってわけか……ま、ちっとも憧れねぇけど)


 そんな下世話な推察はさておき、気になったのは組長の独り言。ここに来るまで直接は尋ねずにいたが、村雨組に入り込んだ内通者は木幡で間違いないのか。


 いつまでも頭の中だけで燻ぶらせておくわけにもいかない。執務室で2人きりになった折、俺は思い切って答え合わせを試みた。


「面倒なことになっちまったな。笛吹の目的が何なのか、木幡はそいつを探る貴重な情報源だったのに」


「過ぎたことを悔やんでも仕方あるまい。奴が死んだ今となって、次はどう動くか。肝要なのはそれだけだ」


 返ってきたのは実に村雨らしい台詞。やはり、笛吹の話は真実だった。これまで組内部に入り込んでいた内通者とは、木幡のことだったのだ。


「……あ、ああ。そうだよな」


「大鷲会は潰れたも同然といえど、まだ笛吹一党が残っている。あの者の首を刎ねるまで横浜を制したとは言えぬのだ。木幡ごときに構っている暇は無いぞ」


 斯波一家を倒しての直系昇格を目指す村雨にとって、横浜の掌握は謂わば“地盤固め”にあたる。


 兵数・資金力ともに大きな差がある斯波と渡り合うためにも、横浜の街から生み出される莫大なシノギの金脈を抑えることは必要不可欠。組長の優先度が上がるのも無理はなかった。


「夕方に菊川が戻り次第、明日からの動きを決める。新たな所領も捌かねばならぬゆえ、今まで以上に忙しくなることは必定。覚悟しておくのだな」


「うん。わかったよ」


「本日はご苦労であった。もう下がって良いぞ。先刻の戦いではお前も少なからぬ手傷を負ったであろう。休める時に身体を休めておけ」


 内通者の話は当人が死亡した以上、もはやどうでも良いということか。その後しばらくして帰ってきた若頭との談義に襖からこっそり耳をそば立ててみたが、木幡の名前が出たのは1回きり。それも、実に軽いノリだった。


「へぇ! 例のスパイって結局、木幡クンだったの! 意外だねぇ。僕はやっぱり、麻木涼平が怪しいって思ってたけど」


「フッ、つまらぬことを申すな。それはそうと、お前はどうだった? 藤島の取り巻きどもの死体は上手く片付けられたのか?」


「もちろんさ。いつものスクラップ工場に運んどいたよ。きっと今ごろ、廃材と一緒に細かく砕かれてる頃じゃないかな」


「左様か。相変わらず、手抜かりが無くて助かる」


 そんな組長とのやり取りの中で、あらかさまに下品な笑みを浮かべた菊川。わざわざここで口に出してくるとは、よっぽど俺のことを貶めたいのだろう。


 毎度のことではあるが本当に腹立たしい。盗み聞きしている状況でなければ、今すぐにでも部屋に乗り込んで1発ぶちかましてやりたい気分だった。


(あの変態野郎、いつか必ず……)


 湧き起こった怒りをグッと堪えながら、俺は静かにその場を離れる。代わりに思い浮かべたのは木幡の件。このタイミングにて、彼が急性薬物中毒による突然の死を迎えた理由だ。


 あれは本当に偶然なのか――。


 真相を究明するすべは失われてしまったが、このような時には1度でも疑念を抱き始めたらきりが無い。組長と若頭がさほど気にする素振りを見せなかったことも、疑念に拍車をかけたのだろう。


 それから自室に戻った後も、日課を終えて眠りにつくまでの間も、そして翌朝も、俺はひたすらその事ばかりを考え続けた。


 しかし、当然1つのことだけにかまけてはいられない。組長の言葉の通り、それからの日常が急に慌ただしくなったのである。


 並んで横浜を二分する存在であった大鷲会が事実上壊滅したことにより、村雨耀介はつい先日まで彼らがまわしていたシノギを丸ごと手に入れた。


 主に表の事業に絡んだ話が殆どで、それらは公共事業や企業人事への介入に至るまで多岐にわたる。


 もちろん、大鷲会の旧領を併合したので領地シマも拡大。以前までの桜木町や南幸に加えて、新たに伊勢佐木町、真金町といった歓楽街も村雨組の勢力圏となった。


 ヤクザにとって街を手にするということは、そこで得られる権益を全て我が物にできるということ。俺には詳細こそ明かされなかったが、いずれも億単位の大金が動く謂わば“カネのなる木”であるとは何となく理解できる。


 ただ、全てが上手く運んでいたわけではない。


 どんなイベントにも光と影があるように、急激な変化が起こればそれに伴う弊害も少なからず生じるもの。ある日、屋敷の食堂へと向かう途中、廊下で2人の若衆が話し込む場面に遭遇した。


「なあ、大倉山の改装工事の件だけどさ。ちょっと手伝ってくんねぇかな? さすがに俺ひとりじゃキツイと思うんだ」


「いや、すまん。こっちもいっぱいいっぱいでよ。一昨日、新しくの保土ヶ谷の仕切りまで任されちまって。地回りがまったく進んでねぇんだわ。逆に手を借りてぇくらいだ」


「マジかよ。っていうかお前、別件でキリトリもやってるんだったよな。大丈夫かよ? そんなに抱え込んじまって……」


「やるしかねぇだろ。でなきゃ、組長に殺されるし」


 彼らは終始険しい表情。察するに、相当な激務に追われているらしい。反対方向からやって来る俺の存在にすれ違う直前まで気づかなかったあたり、かなり疲労が溜まっているのが見て取れる。


 領地が増えたとはいえ、兵力は抗争前と変わらぬ52人。その頭数のまま大鷲会が300人前後で動かしていたシノギを引き継いでいくなど、どう考えても無理がある話だろう。


 単純に考えると、組員1人あたり6人分の仕事をこなさねばならない計算。精神的な余裕が無くなるのはむしろ当然。俺は少し頭が下がる思いで、頭を抱える彼らの後ろ姿を見送った。


「……」


 また、こんな事もあった。たしか、あれはいつものように待機室で他の者に混じってテレビを観ていた晩だったか。突如、電話番の下っ端が血相を変えて飛び込んできた。


「大変だ! いま、福富町の『ジュリエット』から連絡があってよ。店で外人が暴れてるそうだ。誰か行ってくれ!」


 ヤクザの組本部にはこうした緊急連絡が時折、入ってくる。普段「警護料」の名目でみかじめを徴収している事業所から、トラブルを解決するよう依頼が舞い込むのだ。


 今回は、客として訪れた外国人風の男が支払いをゴネているとのこと。それだけなら話は単純なのだが、その男がフィリピン系マフィアとの繋がりを匂わせているらしく、店側も対処に困り果てているのだとか。


「フィリピン? そういやあ、あの辺りにはたしか奴らの寄り合いがあったか。へっ、大鷲会が消えた途端、調子に乗ったバカが勢いづいたってとこか。いるのは何人だ?」


「屈強そうなのが3人って。でも、そのうち1人はナイフを持ってると……」


「んじゃ、こっちは9人くらいで行ってやろうじゃねぇか! そいつらタコ殴りにして、日本人の怖さを思い知らせてやるんだよ。福富町に村雨組の名を轟かす良い機会だ。テメェら、気合い入れていくぞっ!」


 現場責任者らしい男が飛ばした檄に、その場にいた全員が一斉に奮い立った。


「おう!!」


 まだ正式な構成員ではない俺はスルーを決め込んでも良いのだが、とりあえず暇なので付いて行ってみることにする。舎弟からは「足手まといにだけはなるなよ」と釘を刺されるも、組のワゴン車に颯爽と乗り込む。


 しかし、いざ現場に着いてみると敵の姿は無し。


 代わりに視界へ飛び込んできたのは、ひどく荒らされた店内とうずくまっている従業員達。さんざん殴られたらしく、顔には無数の傷がある。


 また、嬢の中には着衣が乱れている者も何人かいたことから、彼女らがどういう目に遭ったのかは想像に難くなかった。無論、経営者の中年女性はカンカンだ。


「ずいぶん遅かったわね! さっき電話入れてから、一体何分経ったと思ってるのよ。あいつらにここまで好き放題されるなんて、これじゃあ警護料みかじめを納めてる意味が無いじゃない!」


「悪いな。なるだけ早く駆け付けたつもりだったんだがよ。連中の逃げ足の方が速かったみてぇだ。けど、この埋め合わせはちゃんとする。ケガした奴の治療費だって村雨組うちで面倒を見るし」


「そういう問題じゃないわよ!」


 舎弟はどうにか宥めようとするも、向こうの怒りは収まらない。彼女の口からはああでもない、こうでもないと勢いに任せて次から次へと怨嗟の句が飛び出してくる。


 本来、このようなシチュエーションでは相手が納得するまでひたすら謝り続けるのが最善なのだが、単細胞なチンピラに腹芸が出来るはずもない。10分も経たぬうちに喧嘩となってしまった。


「……だから、詫びてんだろうが! 内装の修繕費とケガした奴の病院代は出す、これの何が不満なんだよ」


「お金の問題じゃないって言ってんでしょ!あたし達はもう、ヤクザにはうんざりしてるのよ。真面目に汗水たらして働いてるカタギの生活に土足で踏み入って、あれこれ理由を付けて稼ぎを根こそぎ奪ってく。どうせさっきのフィリピン人だって、あんたらが仕込んだんでしょ? うちからみかじめを巻き上げるために!」


「んだと!?」


「もう用心棒なんか要らない。金輪際、うちの敷居を跨がないで。大鷲会も村雨組も、所詮は同じ穴の狢よ! さっさと出て行きなさい! 下品なチンピラども!!」


 眉間に深々としわを寄せ、大声を張り上げた女。


 売り言葉に買い言葉の流れでついつい本音が出てしまった格好だが、大鷲会の頃からずっと街を一方的に仕切る極道に対し、決して少なからぬ鬱憤が溜まっていたのだろう。凄まじい迫力だった。


 されど、今回は流石に相手が悪い。彼女が感情の赴くままに発露したクレームの代償は、すぐさま無慈悲な報復となって返ってきた。


「言わせておけば調子に乗りやがって……舐めてんじゃねぇぞゴラァ!!」


 ――グシャッ。


 舎弟が一瞬のうちに抜いた短刀ドスの刃が、顔を真一文字に切り裂く。傷口から放出された鮮血で上半身を汚しながら、彼女はそのまま背後に倒れて大きな叫びを上げた。今度は怒声ではない。悲鳴だ。


「いっ……いやああああ! あああああああああーっ!」


 パニックを起こし、泣き喚き、虫のようにのたうち回る女。刃物で思いっきり切りつけられた痛みと、容赦のない暴力が加えられた恐怖。これらの感情がごちゃ混ぜになっているようだった。


 水商売に従事する者にとっては生命線ともいうべき顔に深い傷を負った悲しみなども、もしかしたら介在しているのかもしれない。そちらに関しては自業自得なのだが。


 やがて30秒ほど経つと、息が絶え絶えになってくる。どうやら慟哭のあまり過呼吸を起こしたらしい。感情の急変に我を忘れている時などにはよくある現象だ。


 そんな彼女の様子を見てニヤリと不敵な笑みを浮かべた後、舎弟は軽快に言い放つ。


「へっ、ざまあないぜ! 俺たち村雨組に逆らえば誰でもこうなるってことだ。今より痛い目に遭いたくねぇなら、今まで通り用心棒代を納めるこったな」


「はあ……はあ……」


「ああ? 返事はどうした? 聞いてんのか、このババア!!」


 つま先で腹部を蹴られ、中年の女経営者は苦悶に顔を歪ませた。既に裂傷で顔面が真っ赤に染まっているだけあって、何とも痛々しい姿である。村雨の代紋の威光に怯まぬ者が辿る末路の見せしめとしては、十分すぎる結果だ。


 しかし、彼の行動はそこで止まらなかった。


「よう、ついでにこの店で楽しませてもらおうじゃねぇか! せっかく女も沢山揃ってることだしよぉ! テメェら、遠慮は要らねぇぞ。この頃、仕事続きでストレス溜まってんだろ? ここで発散しろや。好きなだけ遊んで帰ろうぜ!」


「おっしゃーっ!」


 舎弟の一声を受けた途端、それまで背後で控えていた組員たちが揃って暴れ始める。


 ある者は持っていたバットで壁にヒビを入れ、ある者は観葉植物の鉢を倒して土をぶちまけ、またある者はテーブルの上に置かれたグラスやボトルといった食器類を次々と床に叩きつけて壊していく。


 まさにやりたい放題。中には、恐怖ですっかり縮こまった若いホステスの服を脱がして己の欲をぶつけんとする組員まで見られる始末だ。


 こうした光景を世間一般では「地獄絵図」と呼ぶと思う。人間が“獣”に立ち返る様子を俺は初めて目の当たりにしてしまった。自然と、ため息がこぼれてくる。


 新しく獲得した領地に住まうカタギ連中に恐怖を植え付けるためとはいえ、明らかに度を越えている。これでは先ほどまでいたという迷惑客と、何ら変わらないではないか。結託を疑われて当然だ。


(あーあ。何をやってんのやら……)


 大いに呆れたというか、辟易したというか。こんな下らぬ場面に付き合うのは時間の無駄である。どうぞ、後は勝手にすれば良い。そう思って、俺は店の出口へ向けて静かに歩き出した。


 だが、そこを舎弟に呼び止められる。


「おいおい。何帰ろうとしてんだ。お前も手伝えよ」


「悪いな。興味ねぇんだわ」


「ほう? お嬢以外の女とヤるのは気乗りしねぇってか?」


「黙れ。適当なこと抜かしてるとブチ殺すぞ。テメェなんざの言うことを聞く義理は、これっぽちも無い。ただそれだけだ」


 嫌味の域を通り越した、あまりにも露骨な挑発だった。俺と絢華の何を知っているというのか。不意に動揺が全身を走り抜ける。


 本来なら今すぐ回れ右して舎弟を殴ってやろうかとも考えたが、今日のところはひとまずお預け。時間的に眠気が差し込んできたので、黙って屋敷へと戻ることにした。


「まったく! 麻木涼平ってのは、ほんと疫病神だよなあ! 下働きをやらねぇどころかシノギも手伝わねぇときてる! ただの“お荷物”だ。お前がいなきゃ芹沢の舎弟頭オジキだって、あんなことにはならなかったんだし! どうして組にいるんだ?」


「……うっせぇな」


 その直後、俺の中で何かがプツリと切れた。どうにか受け流しておこうと思っていたが、やっぱり我慢などできない。気づいた時には、既に体が動いてしまっていた。


 ――ゴンッ!


 固く握りしめた拳の表面を伝う、生暖かくも鈍い感触。即座に踵を返すや否や神速の踏み込みで舎弟の懐へ入り、その顔面を至近距離から打ち抜いてやったのだ。


「ぶはぁっ!?」


 殴られた男は情けない声を上げるが、俺は止まらない。反撃や回避の余裕を与えぬように、脇腹、顎、胸部の順番で連続パンチを叩き込み、ほんの5秒も経たぬ間に相手を突き崩してしまった。


「ぐうっ……こ、この野郎、いきなり何しやがる……」


 仰向けにダウンした舎弟が、憎しみのこもった眼差しでこちらを睨みつける。喧嘩では俺と勝負にすらならなかった負け犬の、せめてもの抵抗というわけか。


 実にいい気味である。優越感とアドレナリンからか、じんわりと包み込んでいた眠気は完全に消えた。ここはひとつ、奴と遊んでやろうではないか。


「おい、さっきまでの勢いは何処へ行っちまったんだ? “お荷物”のパンチもかわせねぇのかよ。三下ヤクザ」


「て、てめぇ……舐めてんじゃねぇぞ……」


「へっ! 大の字で倒れてるマヌケが何を抜かしてんだか。少しは自分の状況考えてから喋れってんだよ」


 軽快に言い捨てると、俺は舎弟の顔めがけて唾を吐きかけた。浴びせられた屈辱は倍にして返す。それが昔から貫き続けてきた自分なりの流儀だ。


 無論、これだけで終わりはしない。


「お前さぁ。さっき俺がどうして組にいるのか分からねぇ、とかほざいてやがったよな? いいぜ。この機会だから教えといてやる」


「何を……」


「強いからだよ。お前なんかより、何千倍もな。少なくとも俺とタイマン張って勝てる人間は組長くらいしか居やしねぇ。ああ? 分かったら返事くらいしろや!!」


 ―ドスッ。


 先ほどの煽り文句の代償ツケを払わせるがごとく、既に動けなくなっていた舎弟の顔面を靴底で繰り返し強烈に踏みつける俺。そのうち、骨が砕けてしまったのだろう。奴の鼻は赤紫色に醜く変色していった。


「どうだ? さっきまで馬鹿にしてた半端者にここまで痛めつけられる気分はよぉ! 何とか言ってみやがれ!」


「ぶうっ、うぐぁっ!」


「おいおい、どうした? まともな受け答えも出来ねぇってか? ケッ! 情けねぇ野郎だな! このチンピラがぁ!」


 相手がどうなろうと、知ったことか。今は俺の強さと恐ろしさを徹底的に教え込んでやるのみ。それが麻木涼平という存在を守る唯一の手段なのだ。


『極道ってのは、舐められたらおしまいなんだよ』


 どこかで耳にした言葉が想い起こされる。だからこそ、情けをかけるなど有り得ない。ここで勢い余って殺してしまったとしても、己のを貫き通すのが正解だろう。


 当時の俺はそう信じていた。愚かにも思い込んでいたのだ。自分の行動が後々にもたらす因果など、まともに考えもしないままで。


「ぶはぁっ。こ、これ以上、てめぇなんかに……組を好きにされてたまるかってんだよ……調子に乗りやがって……」


「はあ? こんだけ顔面ツラをぐっちゃぐちゃにされといて、まだ意地を張る気かよ。『俺が悪かったです。許してください~』って土下座して詫びりゃあ、痛い目に遭わなくて済むのにな。お前、脳ミソあんの?」


「へっ……ほざいてろ……」


「そうかい。だったら、こうするしかねぇなあ!!」


 最後のトドメを刺すつもりで、俺は再び拳を固める。そして奴の胸倉を掴んで体勢を起こすと、ありったけの力をもって一撃を浴びせた。


 ――バキッ!


 実に痛快な感触である。響き渡ったのは、何かにヒビが入る音。それまでの怒りもあってか、自分でも驚くくらいの力が出たと思う。


 舎弟はそのまま、首を後ろに向けて垂らした。断末魔などは特に聞こえてこない。差し詰め、声を上げる体力すらも残っていないというわけか。完全にノックアウトしてしまった。


 どれだけの時間、奴を痛めつけていたことだろう。右脚には乳酸が蓄積されていた。荒ぶっている最中は、すっかり我を忘れてしまうのが俺の悪い癖。この時とて、例外ではなかった。


 ふと時計に目をやると、午後11時45分。


 もう少しで日付が変わる。他の組員たちは相変わらず店内で“お楽しみ”の真っ最中で、こちらで起きていた事には全く気付いていない。これ以上滞在して面倒が増える前に、とっとと退散するのが適切だろう。


 だが、そう思って店の玄関へ向かおうとした瞬間。不意に背中越しに声が聞こえた。


「……イ、イキがるのも程々にしとけよ。若造が」


 ハッとして振り返ると、そこにあったのは意外な光景。なんと、失神に追いやったはずの舎弟が上体を起こしていたのだ。


 歪に変形して血まみれの顔に、憎悪で燃えた両目を鋭く光らせている。相当なダメージを負っているはずなのに、タフな男である。


「何だ? また殴られてぇのか? お前がその気なら、こっちは遠慮なくやらせてもらうぜ? ただし、次はあの世に送っちまうかもしれねぇけどなあ。ヘへッ!」


 軽く威圧するつもりで拳を鳴らした俺だったが、舎弟に怯む気配は1ミリも感じられなかった。それどころか、つんざくような叫びが返ってくる。


「……見くびるんじゃねぇ。あれくらいで音を上げるわけが無いだろ。ろくに仁義も知らねぇガキ相手に、本物の極道が負けるわけねぇだろうが!!」


 驚いた。声を張り上げて啖呵を切るほどの気力が、奴に未だ残っていたとは。されど、こちらとて怯みはしない。正論で応じてやるまでだ。


「へー。そうなんだ。じゃあ今すぐにでも立ち上がってみやがれ! お前、さっきのは痛くも痒くもなかったんだろ? 負けねぇんだろ? だったら、立てるじゃねぇか」


「……」


「どうした? さっさと立てよ! 俺のことが憎くて憎くて仕方がねぇんだろ? ほら、立ってみろって!」


 ニヤリと軽い笑みを浮かべてわざとらしく両手を広げて煽ってみるも、舎弟は息を切らしてこちらを睨みつけたまま。やはり動けないようだ。気持ちに体力が追い付かない、とでも言ったところか。


「ち、畜生め……」


「ヘへッ! 何だよ。立てねぇじゃねぇかよ。大見得切ってた割には、口だけなんだな。何が本物の極道だ。単純にクソダセぇよ、お前」


「このガキ……あとで覚えてやがれ……」


「おう! 楽しみにしてるぜ! まあ、次も返り討ちにするだけだ。今度はお前を歩けねぇ身体にしてやるよ。そしたら、逆にお前が村雨組“お荷物”になっちまうかもな。こりゃあ傑作だぜ。ははははっ!」


 その男を2度目にボコボコにする光景を想像したら、自然と笑いがこみ上げてきた。これほど完膚なきまでに叩きのめした相手に再戦など考えられないだろう。


 事実、川崎に住んでいた頃はそうだった。


 小6の時分に病院送りにした不良高校生も、中3の夏頃に潰した宮前の暴走族とて同じ。いずれも2度目の喧嘩を仕掛けてくることは無かった。みんな俺の強さに恐れ慄き、素直に負けを認めたものだ。


 ヤクザだって人間。命は惜しいもの。自分の力では如何ようにも埋められぬ圧倒的な力の差を目の当たりにすれば、腰が引いてしまうのは当然の摂理。きっと、この男だって同じはず――。


 しかし、高笑いしていた俺の耳に飛び込んできたのは、またしても聞き捨てならない言葉だった。


「……上等だよ。やってやる。いずれ必ずな。ガキに舐められたまま生き恥晒し続けるくらいなら死んだ方がマシってもんだ。勿論、今度は命がけで行く。そっちも、そのつもりでいるんだな」


「んじゃ、さっきのは手加減してたってのかよ。この期に及んで何を抜かしてやがる。負け惜しみもいい所だぜ」


「麻木。言っとくが、てめぇは強くなんかない。虎の威を借る狐……いや、魔王の威を借る使い魔だぜ。残虐魔王・村雨耀介の絶対的な強さを笠に着て、その力が全て自分のモンだと見事に勘違いしてる雑魚モンスターの使い魔。1人じゃ何もできないくせして、いっちょ前にイキがってんじゃねぇ!」


「そうかい。なら、その雑魚とやらに負けたお前はどうなんだよ。ああ? 雑魚以下じゃねぇか。俺に言わりゃそちらさんこそ、自分の弱さを棚に上げてイキがってるように見えるがな。クッソ笑えるぜ」


 はからずも因縁が生まれてしまったが、向こうから来る以上は受けて立つまで。今度は本当に殺してやるよと圧をかけ、颯爽とその場を立ち去る。


「魔王の威を借る使い魔ねぇ……フッ、上等だよ。せっかく魔王のそばに居るんだから、とことん借りてやろうじゃねぇの」


 屋敷へと戻る道中にあった自販機でサイダーを買った際、不意に飛び出した不遜きわまりない独り言。


 RPGゲームは幼少の頃にかなり遊んできた身なので、あの舎弟が古めかしいことわざにちなんで何を言おうとしていたのかは大体理解できる。最早、自分としては完全に開き直っていた。雑魚モンスター呼ばわりされたのは些か不服なのだが。


 されど、こうした行為が後々に響かぬはずは無い。ましてや、今回やったことは明確なシノギの妨害。血気に逸った若さゆえの不始末と言い訳するには、流石に結果が重大すぎる。


 周囲の若衆たちから徹底的に嫌われようと、組長にさえ可愛がられているなら大丈夫――。


 いま振り返ってみると、あまりにも軽く考えすぎていたと思う。夜風に当たりながら飲む炭酸飲料の美味しさもあってか、実にお気楽な心理状態。


 己の傍若無人な振る舞いがもたらす本当の代償について、この時の俺は何ひとつとして認識できていなかった。

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