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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第7章 そして少年は極道になった
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覚醒のとき

 近くにいた男を拳で早速1人ダウンさせた後、俺は腹の底から思いっきり叫んだ。


「おい、俺を忘れてもらっちゃ困るなぁ! テメェらがお探しの麻木涼平はここにいるぜ。どっからでもかかってきやがれってんだ!」


 とてつもない声量だったと思う。既に乱闘が始まっていた現場の喧騒を轟音が上書きする。さながら、中世の武士が戦の際に吐く名乗り文句と言ったところか。


「……」


 目の前の男たちが、ほんの一瞬だけ静まり返る。皆、ギョッとした眼差しでこちらを見ていた。


 それもそのはず。つい数秒前に俺が力任せで殴った組員の左頬が醜く抉れていたのだ。まさに顔面陥没。顔の皮膚が裂けて骨が砕けるような心地よい感覚は、確かに俺の右手に伝わっていた。我ながら、恐ろしい破壊力である。


「このガキが……調子に乗りやがって……」


 立ちはだかる俺を直視し、舌打ちと共に鋭い眼光を注いでくる先頭の男。顔を潰された仲間の無残な姿を前に、彼の瞳の奥で俺への憎悪の炎が勢いよく燃え上がるのが分かる。


 勿論、こちらとて負けてはいない。気迫に対しては気迫で返すのが常道。既に沸騰状態にあった闘志を声に込め、盛大に煽ってみた。


「は? どうしたよ? 突っ立ってねぇで早く来いや。今さら何をビビッてやがんだよ。ガキ相手に何もできねぇようじゃ、天下の大鷲会も所詮は……」


「黙れ!! 今すぐブチ殺してやる!!」


 男の怒声によって、俺の言葉は中断される。もっと屈辱的な文言を並べて挑発してやろうと思ったが、最早それには及ばないようだ。まばたきする余裕も無いほどの速さで、男が俺の懐めがけて踏み込んでくる。


「さっさと死に晒せ! 麻木ーッ!!」


 この時、驚いたのは奴の左手に黒い棒状の物体が握られていたこと。見た限り、伸縮式の特殊警棒。恐らくは今の今まで、背広の袖に隠してあったのだろう。陽光を浴びて不気味な光沢を放っていた。


 されど、そんなものに易々と倒される俺ではない。武具を携えた左手を男が大きく振り上げた刹那、腹部に標的を定めて拳を繰り出してやる。


「おらよ」


「ぶうぇっ!?」


 隙を突く形で放ったボディー・ブローは鳩尾(みぞおち)のさらに中央部分を正確にとらえ、男手は醜い声を上げてその場へ崩れ落ちた。このような攻撃を格闘技の世界では「カウンター」などと呼ぶらしいが、喧嘩にルールは無用。


 どんな縛りも不文律も、命のやり取りをする場においては一切存在しない。どんな手段や戦術を用いてでも相手を討ち取る。それが唯一の作法といえよう。


「ぐうっ……」


 ダウンした男の後頭部が地面に着く間もなく、俺はその顎を思いっきり蹴り上げた。


 ――バキッ!


 再び、辺りに鈍い音が響く。先ほどと同じ心地よい感覚が、今度はスニーカー履きのつま先から右脚を通って全身を駆け巡る。察するに、顎の骨が砕けたと見た。


 なお、その衝撃で数本の歯を折ってしまったようで、男は口のからおびただしい量の血を吐き出していた。実に爽快な光景である。これだから、喧嘩は面白い。


(さてと……)


 興奮に由来するプリミティブな快感に脳が痺れる中、俺は地面に落ちていた特殊警棒を拾い上げる。そして右の順手で構えて見せつつ、わざとらしく言い放った。


「誰だ? 次に殺されてぇ野郎は!」


「……っ!?」


 想定外の事態が起こるや否や、動揺が瞬く間に伝播してゆく。それが集団での乱戦における法則であり、難しい所。大鷲会の連中も、決して例外ではない。


 ましてや、大の大人が年端もいかぬ少年に素手で殺されたのである。平常心でいられるわけがなかろう。皆、目を大きく開いて互い顔を見合わせ、衝撃と戦慄の中で言葉を失っていた。


 侮れない相手だ――。


 きっとその場にいた誰もが、俺のことを明確にそう認識したと思う。喧嘩に限らず勝負事においては、先に怯んで立ちすくんだ方が負け。この機を逃さず、俺は連中に猛然と襲いかかる。


 ――ゴンッ。


 まずは1人、仕留めてやった。ぼーっと立っていた正面の男の脳天に一撃を叩き込む。特殊警棒の材質は言うまでもなく金属。ゆえに、まともに食らえば忽ち致命傷となる。相手は静かにその場に倒れた。


「オラァッ!!」


「ぐえっ」


 続いて、2人目。突然の出来事にあたふたしていたため、実に狙いやすかった。無防備な側頭部をクリーンヒット。手加減無しで左に薙ぎ払い、俺は頬に付いた返り血を手の甲で拭った。


 だが、それによって油断が生まれることは無い。


「舐めとんのかぁ! このクソガキ!!」


おせぇんだよ。 馬鹿野郎が」


 俺が攻撃の手を緩めた一瞬の隙を狙ったつもりのようだが、真横からナイフで突いてきた組員のモーションは呆れるほどに緩慢で、かわしやすかった。上体を軽く反らせて刃をいなし、お返しに後頭部に一撃を叩き込んでやるだけ。。不運にも、彼は3人目の餌食となってしまった。


「ぐへぇっ!?」


 それからも俺は奪った特殊警棒を片手に奮戦し、群がる敵を1人、また1人と蹴散らしてゆく。全力をもって腕を振るい、相手の頭蓋骨にヒビを入れる感覚は本当に心地よくて、すっかり癖になってしまいそうだった。


 そこにかぐわしい血の臭いが加われば、俺の闘争心は更に燃え上がる。リミッターなど、とっくの前に外れている。ただ、目の前の獲物を討つ。そんな本能的な衝動が俺の一挙一動を支配していた。


 夢中で暴れるうちに我を忘れ、気が付くと他の事などはまるで考えられなくなってゆく。少し離れた場所で同様に毘沙門天のごとく大立ち回りを演じる村雨組長のことも、俺の周りに次々と積み重なる討ち果たした敵のことも、一切視界に入らない。


「おい! 次は誰だ? 俺に殺されてぇ奴は? ああ? さっさと出てきやがれ! 大鷲会はどいつもこいつも雑魚ばっかりかよ!」


 ただ、敵方も敵方でこのままやられっ放しというわけではない。流れ出た血が駐車場のアスファルトに赤い水溜を作り始める頃になると、大鷲会の組員たちはそれなりの反撃を見せるようになってきた。


「麻木ィ……お前だけは俺が殺す!!」


 直後から、相手の攻撃に力が入る。俺への怒りに身を任せて全力で振ってくる金属バットは威力が凄まじく、受け止めるのも体力が必要。特殊警棒を縦に構えてどうにか凌いだのだが、流石に両腕が疲れてきた。


(こいつ、なかなかやるな……)


 さっきまでの連中とはひと味違う、強い奴が出てきたのか。それとも疲労によりことらが一段階弱くなったのか。詳しい要因は分からないが、俺は目の前の敵をなかなか倒せずにいた。


 攻撃を繰り出せばひらりと避けられ、返す刀で放った一撃もがっちりと受け止められる始末。互いにぶつかる武器の表面からは火花が飛び出し、その様はまさに剣劇におけるつばり合いそのものだった。


 だが、このままではきりが無い。下手に長引かせればその分不意を打たれる危険性も高まるし、ご存じの通り他にも無数に敵がいる状況の中にあっては1人に時間をかけてなどいられない。1秒でも早く、片づけるのが最善である。


「おい、オッサン。そろそろ倒れてくれねぇかな? いい加減に鬱陶しいんだわ」


「倒せるものなら倒してみろ! 俺は藤島茂夫の子分だ。大鷲の代紋を掲げる者として、お前のようなガキに負けはしねぇんだよ!!」


「うるせぇなぁ……さっさと寝ろよ」


「甘い! そんな棒切れで俺が倒れるかぁぁ!!」


 俺の渾身の一撃を軽々と薙ぎ払い、物凄い形相で叫んだ中年の組員。特殊警棒のことをそう呼ぶなら、金属バットを振り回してる自分の所業はどうなのだ。そちらの道具とて所詮は棒切れではないか――。


 そんな無粋かつ鋭いツッコミが頭の中で浮かび上がった、まさにその瞬間。視界に奇妙な光景が映る。突如として、相手が構えを解いたのである。


 何故に、このタイミングで武器を下ろすのか。まったく分からない。困惑する俺をよそに、男は腰のあたりまで戻したバットを下手側に放り投げる。言うまでもなく、武装解除。ただならぬ違和感が瞬く間に思考を支配した。


(えっ!?)


 しかし、驚きはそれからだった。俺が呆気に取られたほんの僅かな隙を突き、徒手空拳になった男が懐に飛び込んできたのだ。プロレス技で云うところのスピアータックル。つい30分くらい前に、俺が笛吹に対して繰り出したものと殆ど同型だ。


 無論、そんな荒技が出てくる想定などしていない。まともに食らう形となってしまった俺はタックルの衝撃を受け流しきれず、そのまま背後に仰向けの体勢で倒れてしまった。


「ぐううっ!?」


 背中全体を鈍い痛みが覆っていくと同時に、内臓が大きく揺さぶられるような衝撃に襲われて呼吸もままならない。それもそのはず、俺の上には先ほどの組員がマウントポジションの体勢で乗っていたのだから。


「おいっ! コイツは俺がる。だからお前ら、手を出すんじゃねぇぞ。そっちの援護にまわれ。いいな? こっちのこたぁ気にせず、村雨の首を獲ることだけに集中しろッ」


『へい!!』


 どうやら彼は幹部のようだ。俺たちをぐるりと取り囲んでいた舎弟たちは一瞬でその場を離れていった。部下たちに指示を飛ばした後、男は俺の胸倉をグイッと掴んで凄みを浴びせてきた。


「よう! これでお前を好きなだけ殴れるってわけだ。会長をあんな目に遭わせた報い、その顔面ツラにたっぷりと刻み込んでやるよ!!」


 これはまずい。非常に危うい状況だ。圧し掛かった男の体重がやたらと重いせいで、押し返すのは困難。自由が効くのは両腕と首だけという有り様だ。このままではタコ殴りにされることは明白。すぐにでも、脱出するすべを考えねば。


(くそっ……どうすりゃ良い……)


 そう思って四苦八苦してる間に、鉄拳が飛んできた。


 ――シュッ。


 慌てて顔を左に傾け回避したので直撃は免れたが、空を切った拳の風圧で髪がわずかに靡いた。あれが当たっていたらと思うと、今でもゾッとする。


「避けんじゃねぇよ。この野郎」


 素直にマウントを取られたからといって、素直に攻撃を受けてやる馬鹿がどこにいるものか。高鳴る胸の鼓動から来る緊張を押し殺しつつ、俺は敢えて強気な煽りで返した。


「ヘッ! その程度かよ。ぜんぜんトロいじゃねぇか。テメェのパンチなんか、俺には止まって見えるぜ!」


「んだと!?」


「俺を殺すんだろ? やってみろや! テメェなんざ所詮は極道の面を被った素人だ。殺しが出来る度胸があるたぁ、到底思えねぇけどな!!」


「この野郎……言わせておきゃあ調子に乗りやがって」


 またもや拳が来た。


 例によって、目にも止まらぬ速さだ。一応かわすことに成功したが、わずかに頬をかすめてしまった。あと0.1秒でも遅れていたら直撃。「間一髪」という形容詞は、きっとこういう場面を表すためにあるのだと思う。本当にギリギリのタイミングだった。


(どうする……)


 されど、考える暇を与えてもくれない。この絶望的な局面から脱する方法を思案する間も無く、さらなる攻めが俺に及んだ。今度は連続での猛攻だった。


「っ!?」


 絶え間なく降り注ぐパンチの雨。動体視力は人並み以上に良いので辛うじて避けられるが、一撃一撃の重さは計り知れない。少しでも食らってしまったら、忽ちダウンしてしまうだろう。


「……」


 不思議なもので、このような状況に陥ると俺は妙に冷静になる。周囲の動きがゆっくりと視界に映り、広く俯瞰的に見渡すことができるのだ。


 大鷲の組員に馬乗り状態で浴びせられる連撃を必死で凌ぐ俺から少し離れた所で、ただひとり村雨組長が大暴れしていた。


(ん? あれって……?)


 次々と襲いかかる敵を軽くいなし、流れる動作で反撃の拳を叩き込む。それがまた1発ごとに強烈で、食らった相手は苦悶の表情でその場に倒れていく。あの動きは、古式の武術だろうか。


 当時は無知ゆえに何とも云い難かったが、少なくとも巷のヤクザやチンピラにありがちな力任せの我流の喧嘩殺法ラフファイトでないことは確かである。何にせよ、圧倒的な強さだ。俺ではとても太刀打ちできない。


 村雨耀介は、素手で人を殺せる――。


 かつて小耳に挟んでいた噂が真実だったことを悟り、少し背筋の凍る思いがした。あの男だけは、敵にまわせない。彼と対峙することは即ち「死」を意味するのだと、俺は凄惨な光景を以て悟ることになってしまった。


「この野郎、よそ見してんじゃねぇ!!」


 ――ドガッ。


 左頬に激しい痛みが走った瞬間、俺の意識は正面にグイッと引き戻される。続いて聞こえてきた鈍音と共に、自分が殴られたのだとはっきり認識した。


「ぐうっ!?」


 村雨の様子に気を取られて、すっかり注意が散漫になっていたようだ。咄嗟に回避行動をとったため100%の直撃にまでは至らなかったものの、俺が追ってしまったダメージは決して小さくない。唇が切れているのが自分でも分かった。


「ははっ! ようやく当たったみてぇだな。痛かったか? 俺のパンチは? この調子じゃあ痩せ我慢は持たねぇだろ。ああ?」


「う、うるせぇ……テメェのパンチなんか痛くも痒くもねぇんだよ。やるなら、ちったあ力入れろや。そこら辺の中坊の方がまだ強いぜ。この腰抜けめ」


「おいおい、まだ強がるかよ。これだから最近のガキは好かねぇ。ま、お前はどうせ殺すんだ。耐え続けたところで待っているのは墓場。どうだ? 今、俺に詫び入れるんなら楽に拳銃ハジキで殺してやってもいいぞ? 殴り殺されるよりゃあだいぶ痛みがマシになるが」


「ほざいてろ。ゲス野郎」


 そう言い終わるや否や、男の顔に唾を吐きかけてやった俺。振り返ってみてもだいぶ命知らずな行動だと思うが、こうして意地を張り続ける以外の選択肢は当時の自分に無かったと思う。


 勿論、その代償は安くない。数秒ほどの間を挟んだ後、返ってきたのは怒りで威力が数倍にも増した強烈な拳だった。


 ――バキッ!


 顔面の中央に何かがめり込むような衝撃。痛みというよりは圧力の方が殊さら大きく、やがては脳全体が激しく揺さぶられる感覚をおぼえてしまった。もしかすると、軽い脳震盪でも起こしていたのかもしれない。


「ぐあっ……ぐううっ……!?」


 飛びそうになる意識を必死で保ちつつ、俺は目前にいる敵を睨む。奴は眉間にびっしりとしわを寄せ、両方の血走った瞳を大きく開いていた。


 手に握られているのは白鞘のドス。今までは背後の腰のベルト部分に隠していたために、存在に気付かなかった。見た目からして、かなり古い年代物の刀らしい。


「いいぜ。そんなに嬲り殺しがお好みなら、やってやる。ただし途中で『止めてください』なんて言うなよ? お前がいくら泣きわめこうが、途中で人格を失くしちまおうが関係ねぇ。死ぬまでたっぷりと切り刻んでやるよ!!」


「……っ」


 俺の胸倉を掴んだ男は大きくドスを構える。その刀身は陽光に照らされ、異様な不気味さと切迫感を与えた。このままでは、間違いなくやられる。さっきの一発を食らってしまったせいで、避けようにも首が思うように動かないのだ。ほのかに痙攣が残っている。


 何とかして、この状況から抜け出さなくては。馬乗りの体勢は挽回できずとも、ドスで顔面を滅多刺しにされる最悪の事態を避ける方法を俺は全力で考えた。危機にして窮地。ここを脱しないことには生き延びられない。


(ど、どうする!?)


 まさしく万事休す。しかしその時、頭の片隅で小さなアイディアがひらめいた。


 一か八か。成功する確率は限りなく低い。だが、何もしないよりはずっと良いはずだろう。幼少の頃より絶望的なシチュエーションにおいて「座して死を待つ」ということが何よりも嫌いで、殊さら格好悪く感じる性分なのだ。


(やるしかねぇ……)


 覚悟を決めた俺は、勢いよく指を前に突き出す。


 ――グシャッ。


 次の瞬間、右の人差し指が一気に生温かい感触で覆われてゆく。喩えるなら、ぬるま湯で温めた寒天に指を刺したような心地だろうか。第2関節のあたりまで、ずっぽりと穴の中に入った。


 そう。俺がカウンターで繰り出したのは所謂「目潰し」。男が短刀を突き立ててくる寸前のほんの僅かな隙を狙い、奴の左の瞳に指を突っ込み、ぐるりとえぐってやったのだ。


 瞳からは、真っ赤な鮮血が堰を切った鉄砲水のごとく溢れ出てくる。


「ああああああ! 痛ぇーっ! 痛ぇぇぇぇぇぇっ!」


 男の口から耳をつんざくほどの悲鳴が発せられたので、思わず顔をしかめてしまう俺。だが、痛みに悶え狂う敵の右手から銀色の物体が滑り離れるのを俺は見逃さなかった。


(よし……!)


 自由に使えるのは両腕と頭だけ。この状況で確実に相手を仕留めるためには、もはや手段など選んでいられない。また、先ほど殴られた報いでもある。数倍にして返してやろうではないか。


 傍らに落としたドスを瞬時に拾い上げ、俺はすぐさま行動に出る。両手で左目を押さえてもがき苦しむ男の喉元をひと思いに切り裂いてやったのだ。


「この野郎っ、さっさと死んじまえ!」


 尋常ならぬ生々しさが、刃越しに伝わってきた。まさに「肉を切る」感覚。真一文字に入った傷口からはおびただしい量の鮮血が放出され、男はそのまま背後に倒れ込む。


「……」


「へ、へへっ! どうだ? 嬲り殺しにしようと思ってたガキに、まんまと返り討ちに遭っちまった気分は? 痛かったろ? チンピラさんよ」


「ウウ……ウウッ……」


 目を虚ろに向かせて瞬きを繰り返しながら、奴はしばらく声にならない呻き声を上げ続ける。


 俺の体は自由になった。馬乗りの拘束が解けたので、ひとまずよっこらせと起き上がる。大量の返り血を浴びてしまったので上半身が真っ赤。お気に入りのTシャツだったゆえに残念ではあるものの、捨てるしかない。


 一方、男は虫の息である。


「ウウウッ……ウウッ……ウッ……ッ」


 出血が喉に流れ込んで声帯の動きを阻害し始めたのか、やがて呻き声さえも出せなくなる。大きく広がった喉笛の傷口からは呼吸の息が漏れ出し、ヒューヒューと音が聞こえていた。こうなってしまっては、もはや助からないだろう。


 痛む背中を左手でさすりながら、俺は無言で男に歩み寄る。


「お前、よくも俺の服を駄目にしてくれたな。こんなに血が付いちまったら洗っても落ちねぇじゃん。どうしてくれんだよ」


「……ッ」


「ああ? 何とか言えや」


「……ッ……ッ」


 どれだけ問うても、既に瀕死の息に達していた男からまともな返事は来ない。認知、思考、反応の行動能力を全て喪失し、ただ生命を維持していくのがやっとの状態。意識も徐々に遠のきつつあった。


 油断した挙句にマウントポジションを取られた悔しさ、その体勢で殴られた屈辱、そして服を汚された怒り。あらゆる感情が1つにまとまり、次第に大きな憎悪へと昇華していく。気づいた時には、既に行動が起きていた。


「もういい。お前、死ねよ」


 瞳孔と喉頭部からの大量出血で衰弱が急速に進行し、ただ呼吸を続けるだけの生物と化していた男にトドメを刺してやったのだ。まだ右の掌の中にあったドスを逆手に持ち替え、心臓あたりに勢いよく突き刺す。


「ッ!!」


 叫びのような一瞬の吐息を最後に、男は事切れた。フェードアウトする音楽のごとく呼吸が止まり、それまで微かな震えを続けていた体の動きも鎮まる。もう「死んだ」と、すぐに分かった。


 このような行為を俗に武士の情けというらしい。瀕死の状態で苦しむ敵の命を敢えて絶つことで、痛みによる生き地獄から解放してやれるからだ。


 しかし、俺にしてみれば相手に慈悲をかけたつもりはない。単純に憎い相手の命を取っただけ。むしろ、もっと酷いやり方で殺しても良かったとさえ思えてくるほど。決して大袈裟ではなく正真正銘、本音である。


 極道の世界に、敵への情けや慈悲は一切存在しない。


 というより、存在させてはいけないのだ。命の取り合いを行う真の喧嘩の場では、少しでも容赦や躊躇いを生じさせた方が負ける。然るべき時に相手を殺さなければ、逆に己が殺されるだけ。それが渡世における絶対的な掟である。


(なるほどな。やっと分かったぜ)


 かつて芹沢に教えてもらったことを思い出し、俺は気合いを入れ直す。つい数十秒前までとは何かが違う。自分が少し、極道に一歩近づいたような実感。明らかに、心の奥底で覚醒が起こっている。


「……行くか」


 そうして、俺は再び戦いの渦の中へと戻っていった。

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