せめてもの手土産に
殺したはずの男が、生きている――。
そんなあっさりとは受け入れ難い事実のせいで、俺の思考はひどく混乱した。「ひとまず落ち着こう」と己に言い聞かせた後、正面に立ちはだかる男に意を決して尋ねてみる。
「お前……本当に笛吹なのか!?」
「ああ。そうだ。どこからどう見たって俺だろ。最も、お前は専ら写真でしか見たことなかっただろうけどなぁ」
わざとらしく頬を緩めた目の前の人物。
やはり、この男は笛吹慶久で間違いないようだ。その容貌のありとあらゆる全てが、かつて写真で何度も脳裏に焼き付けた特徴と悉く一致している。何度も脳内で検証を試みたものの、まさに本人としか断じようがない。
声に関しても以前少しだけ耳にした、あの独特の低い声と同変わらない。しかし、俺は目の前に広がる現実を疑った。いや、明確に有り得ないと分かる現象を前に「疑わざるを得なかった」と書いた方が適切だろうか。
その理由は、実に単純かつ明快。笛吹は、つい20日ほど前に俺が自らの手で殺しているのだ。氷のナイフを突き立てた際の生々しい感触も、はっきりと覚えている。
あの日、奴の背中にしっかりと刺さっていたことは言うまでもない。その後、刃に仕込んだ遅効性の猛毒によって死に至ったと聞かされていた。遺体も荼毘に付されて灰になっており、市内の墓地への埋葬も済んだという話である。
ちなみに、笛吹の死に関しては村雨組内で裏も取れていた。組長が横浜市役所から独自ルートで仕入れた情報では、7月31日付で「ウスイ ヨシヒサ」の名前で死亡届が出されていたというのだ。
にもかかわらず、どうして笛吹は生きているのか。何故、目の前で不敵な笑みを浮かべているのか。
正直なところ、もはや理解が追い付かない。妙な夢でも見ているかのような心地だった。。されど、如何なる現象にも理由が伴われるのがこの世界の理。ゆえに、必死で頭を働かせてみる。
受容の範疇などはとっくに超えているが、無い知恵を絞って自分なりの考察をしてやらんと努める。その結果、うっすらと浮かんだのはきわめて漠然とした仮説であった。
(刺されたけど、死ななかった……?)
単に刺し方が甘かったのか。もしくは、ナイフの中に仕込まれていた毒の量が人を殺すには不十分だったのか。どちらも仮説であって根拠や確証は乏しい。しかしながら、どうにも説得力が生まれてしまう。
何らかの原因によって、奇跡的に一命を取りとめた笛吹。その後は凶刃に倒れたように見せかけて身を潜めながら、今日まで平然と過ごしてきたのだと推測される。己の死を偽装した意図こそ計り知れないが、最早そうとしか考えられない。
「……」
検証に没頭しすぎるあまり。傍から見ればひどく間の抜けた表情になっていたと思う。やがて、それは笛吹からの更なる台詞によって中断される。
「いきなり黙りこくって、どうしたんだよ。麻木涼平。まあ、お前には感謝してるんだぜ? 俺の掌の上で見事に転がってくれたおかげで、好きなだけ状況を引っかきまわせた。ずっと目の上のたんこぶだった江藤のカシラも始末できたし、今こうして会長を屠ることもできた」
――パンッ。
声を上げる間も無い、ほんの一瞬の出来事だった。
何が起きたのか分からなかったが、すぐに理解が追い付いて来る。どうやら、笛吹が左手に持っていた黒色の拳銃の引き金をひいたらしい。銃口には筒状のサイレンサーが付いており、発砲時に爆音が響き渡ることは無い。
ただ、いくら銃声が控えめでも拳銃が発射されたという事実は同じ。代わりに鳴ったのは、低くて鈍い衝撃音。錆びた金属と金属が互いに激しく擦れ合うような、実に不快な音だった。
「……!?」
数秒遅れで、ようやく反応も追いつく。しかし、ふと視線を落とした先にあった光景を見て、またもや俺は言葉を失ってしまう。
(なっ……)
ベッドに横たわる藤島が死んでいたのだ。どうやら、放たれた銃弾に額の中央を真っ直ぐ貫かれたようである。呼吸が完全に絶えている。傷口からマグマのごとき真っ赤な鮮血を流し、彼は目を閉じたまま絶命していた。
「へへっ。69年間、お疲れさん。会長」
ニンマリと目を細める笛吹。きっと、この時を長らく待っていたのだろう。彼の笑みには達成感から来る充足が滲み出ていた。
一方、その模様を呆然と見つめていた俺の脳裏に浮かんだのは、単に「作戦失敗」の4文字。藤島を病院から生きたまま連れ出し人質に取るという村雨の計画は、これで水泡に帰したことになる。渡世の親を自らの手で射殺した笛吹の挙動によって。
(こ、殺されちまった……)
組長には、何と報告すれば良いのか。殺したはずの男が生きていたという事実だけでも受け入れがたいのに、そこに計画の破綻までが加わってしまうとは。想定外も良い所である。
あたふたする俺を嘲るかのように、笛吹は吐き捨てる。
「ケケッ。やっぱり言葉が出ねぇよなあ! 麻木涼平! 自分じゃ賢く立ち回ってたつもりかもしれんが、お前は所詮俺の掌の上で転がってただけに過ぎねぇんだ。それをこれから思い知ることになるだろうぜ……嫌っていうほどにな!」
書くまでもなく満面の笑み。あれほどまでに勝ち誇った表情は、他にあるだろうか。溝川に落ちた野良犬に投石を浴びせるかのごとき言葉の矢が、彼の口からは次々と放たれた。
「いまの気分はどうだ? 今まで自分がやって来たことが全て無駄だって分かった心境はよぉ! ああ? 何とか言ってみやがれってんだ! 麻木ィ……そうでなけりゃ、このタイミングで俺がわざわざ出てきてやった意味が無ぇだろうが!!」
「うるせぇ。テメェが……」
「おい、どうしたよ。それだけか? 負け惜しみのひとつも言えねぇのか? ププッ。情けねぇ野郎だぜ! こりゃ、とんだ見かけ倒しってやつだ! せっかく最後に遺言くらいは聞いといてやろうと思ったのによぉ。これじゃあ8年前と変わらねぇだろうが。クソつまんねぇよ。ゴミ野郎が。あーはっはっはっ!」
腹を抱えて高笑いする笛吹。いや、「それだけ」も何も、こちらが返答を投げようとした瞬間に話を遮られてしまったのだが。まるで会話にならない。その嫌味たらしい口調も相まって、俺の中で怒りが静かに沸騰した。
(この野郎……)
拳を握り固める。その瞬間、視界に捉えた目の前の優男に飛びかかり、その青白い頬に右のストレートを叩きつけてやる光景が頭に浮かんだ。
自分の中で、闘志がどんどん湧いてくる。やるなら一瞬の隙を突く。ひどく痩せた笛吹の体格からして、決して負けはしないはずだ。そんな事を考えながら、一気に臨戦態勢に入る。
片や笛吹はというと、調子がまったく変わらなかった。
「俺にとって会長やカシラは、たしかに目障りな存在だった。いつか殺してやりたいってずっと思ってたぜ……けどなあ、俺がいちばん殺したかったのは麻木、お前だ! 8年前のあの日から、1秒たりとも忘れたこたぁねぇんだ!!」
いつでも襲いかからんと姿勢を少しだけ低くした俺の挙動には目もくれず、聞くにも堪えぬ罵倒の句をまくし立てる。
「ああ、そうだ! ようやく、ようやく巡ってきたんだ! お前をこの手でブチ殺してやれる日が! 八つ裂きにしてライオンに食わせてやりてぇ、ずっとそう思ってきたんだ……それが今、ようやく叶う! こんなに嬉しいことはねぇぞ! なあ、そうだろぉ? おい、麻木ィ!!」
やたらとテンションが高い。血走った両方の眼を見る限り、冷静さを失って興奮しているのは明らかだ。叫ぶような話し方のせいで明瞭には聞き取れぬ部分も多いが、何が言いたいかは大体わかる。
麻木涼平を殺す――。
その証拠に、笛吹が左手に携えた拳銃は気づけばこちらを向いていた。消音機を付けているためか、やたらと銃口が大きく見える。
されど、動ずることはない。相手が銃を持っているなら、その引き金がひかれる前に飛び掛かって制圧すれば良いだけだ。実に簡単な話である。少なくとも、その時はそうとしか考えていなかった。
しっかりと呼吸を整えた後、俺は言い放つ。
「もういい。黙れよ。さっきからゴチャゴチャうるせぇんだよ。そんなに俺を殺したいなら、さっさと殺せば良いだろ。テメェが持ってる拳銃は何のためにあんだ? ただのオモチャかよ。ああ? 笛吹さんよ!」
すると、奴はまたしても薄気味悪い笑みを浮かべた。
「おうおう! そんなにお望みかぁ! まさかお前も自分から死ぬのを望むなんてなぁ……こりゃあ驚いたぜ。最後の最後に命乞いをしないあたりが、まさにそっくりだ。こりゃあ8年も待った甲斐があったもんだ。殺し甲斐があるってもんだァ!!」
「は? 何をほざいてやがる? だから、さっさと撃てば良いだろうが。いつまでそうやって能書き垂れてんだよ、このヘタレ野郎」
「あはははっ。いいねぇ。その顔。その表情! これで俺も心置きなく殺せるぜ。俺が味わった8年間の屈辱を、お前の体にたっぷり刻みつけながらなぁ……」
もう、何を話しても無駄のようである。殺意を向けてくる相手には、殺意で応じるしかない。そもそも笛吹は1ヵ月前に殺し損ねた標的なのだ。それを今ここで追い討ちすることに、どんな問題があろうか。
俺は再び、笛吹の様子をうかがった。
9mmオートマチックの銃口をこちらに向けつつも、その左手が興奮と共にくるくると動いているために照準は定まっていないと見える。
興奮のために冷静さを欠いているのか、それとも相手が丸腰ということで少なからず油断が生じているのか。どちらにせよ、これはまさしく好機だ。いや、好機でしかない。
俺は奴の銃口がわずかに下を向いた刹那を狙い、一気に踏み込んでやろうと決めた。顔に拳撃を数発ほど浴びせたら押し倒し、銃を奪って眉間に弾丸を食らわせて終了。何て単純な流れだろうか。
討つべき敵を討ち漏らした埋め合わせは、今ここで済ませれば良い。大きな意気に燃えながら、俺は今一度拳を握り固めた。
しかし、一方でふと引っかかることがある。
(8年前……?)
先ほどより笛吹の口から頻繁に飛び出している、文字に起こせば一行にも満たない非常に短いワード。これがどういうわけか、心に残っていたのだ。
一体、何のことだろうか。笛吹は8年前の俺に恨みがあるようだったが、当時の俺は小学校低学年。その頃はまだ親父が生きていて、人生の中でも比較的平穏な時期だったと思う。無論、ヤクザどころか不良の世界に片足を突っ込んでもいない。そんな時期に暴力団員と揉めて憎しみを買うなど、普通に考えて有り得ないだろうに。
(もしかして、父さんのことを言ってるのか……?)
それしか考えられなかった。亡き父・光寿であれば、話に現実味が生まれる。「獅子」の異名を持つ極道だったくらいだから当然、恨みを抱く人物は各方面に居たはず。川崎と横浜だから、地理的にも近い。
つまり、笛吹はかつて俺の父と何らかの形で衝突・交戦し、辛酸をなめる結果になったのだろう。その際の憎しみを息子である俺にぶつけ、8年越しの復讐を成し遂げようというわけだ。
話の詳細こそ見えないが、大まかな全体像は何となく分かってきた。父親が蒔いた種の後始末をさせられるのは不本意だが、やむを得ない。ここはひとつ川崎の獅子の倅として、親子二代にわたって返り討ちにしてやろうではないか。
勢い任せに固めた決意と共に、俺は笛吹に颯爽と応じた。
「……ああ。いいぜ。やってみやがれ。やれるもんならな。けど生憎、俺はテメェが思ってるほど弱くはねぇぞ。父さんと何があったかなんざ、どうだって良い。ただ、俺は俺の殺したい奴を殺すだけだ。誰が相手だろうとな」
「ほーう? 随分と強気じゃねぇか。クククッ。いいぜ。そんなに殺されてぇならなァ!]
普通に考えれば、絶体絶命の状況に思えるだろう。前述の通り、こちらは拳銃に対抗し得る武器を何ひとつ持っていないのだから。
しかし、俺は中3の頃に漫画で読んだことがある。拳銃を持った相手に素手で立ち向かう武道家が、相手がトリガーにかけた指を動かす一瞬の“間”を狙って素早く身をかわし、発射された弾丸を避ける場面を。
フィクションが虚構の塊であることは百も承知だが、何故だか自信があった。完コピは出来ずとも、あの通りにやれば自ずと似たような結果になると考えていたのだ。
おまけに、笛吹は興奮で冷静さを失っている。そのような精神状態で銃を握れば、発砲時の反動を凌げずに手元が狂うはずだ。やはり勝機はこちらにある。ならば、行くしかない――。
「おい。撃ってみろよ。俺を殺したいんだろ? ああ?」
いま考えればひどく馬鹿馬鹿しい勝算を胸に、俺は笛吹を見据え徐々に近づいてゆく。この時、撃たれたらどうするだとか失敗したら云々だとか、後の事は一切、考えていなかった。
ただ、目の前の相手を殺すこと。
頭の中にあったのは、良くも悪くも短慮に尽きる。きっとそれは「殺したはずの男が生きていた」という想定外の失敗を挽回することに、全ての意識が集中していたからだと思う。
「面白いガキだ。自分から撃たれにくるなんて。へへッ! 良いぜ。お望み通り、その愚かな頭に穴を開けてやるよ。おう。最後に何か、言い残したいことはあるか?」
「その言葉、そっくりそのまま……」
映画やドラマではすっかりお馴染みのベタな挑発の質問に対し、俺がとっておきの買い言葉で返そうとした、次の瞬間。
――カチッ。
たしかに見えた。たしかに聞こえた。それまで円状のトリガーガードをなぞっていた笛吹の人差し指が、ゆっくりと引き金に移動して軽い音が鳴ったのだ。
(あっ!!)
本来であれば素早い動作のはずだが、集中力が桁外れに高まっている俺の瞳にはスローモーションのごとくゆっくりと映った。
どうやら相手に「最後に言い残すことは?」などと尋ねて油断させ、その隙にトリガーをひいて倒してしまう戦術らしい。笛吹の指はそのまま奥へひかれようとしている。
一見すると姑息なやり方のようにも思えるが、この手の殺し合いにルールは無用だ。命のやり取りをする場において「卑怯」だの「汚い」だのといった形容詞は所詮、敗者の戯言でしかない。
(よし、見えた!!)
ただ、今回はせっかく視認できたのである。ならば、この機を活かさぬ手などは断じて無い。存分に利用させてもらうとしよう。
笛吹の挙動を完全に見切った俺は瞬時にしゃがみ込んで姿勢を低くし、銃口から放たれる弾丸の射線から頭をし反らした。
――バンッ! バンッ!
身を屈めたこちらの動きから1秒半ほど遅れて、鋭い金属音が鼓膜を伝う。いくら消音機が付いているとはいえ、やはり銃声は銃声。至近距離では恐ろしく響くようだ。
(ううっ……うるせぇ……)
あまりにも不快な音の発生に、俺は思わず顔を歪めてしまう。だが、撃たれてはいない。発砲のタイミングで即座に行動を起こしたことにより、どうやら被弾することなく銃撃をやり過ごせたようだ。
一方、笛吹は目を見張っていた。まさか目の前の少年が弾丸を避けるなど、夢にも思っていなかったのだろう尋常ならぬ衝撃を受けた様がうかがえる。
「銃をかわしただと!? ば、馬鹿な……」
完全に泡を食う格好となった笛吹の左腕が下りる。驚きのあまり、彼の腰は今にも抜けそうである。反撃のチャンスを逃してなるものか。
銃撃をかわされて激しく動揺する笛吹の懐めがけて踏み込んだ俺は、胸倉を掴んでそのまま後方へと押し倒す。そして彼の手首を思いっきり踏みつけて拳銃を奪うと、こめかみに突きつけた。
「おい、これで形勢逆転だなあ! 笛吹さんよ!」
「はあ……はあ……」
俗な技名で云うところのスピアータックルの要領で真後ろに勢いよく倒された笛吹は、すっかり呼吸を乱し、話すこともままならぬ状態だった。
背中を床に強打したのだから、肺がやられてしまうのも無理もない。されど、俺には奴から聞き出したいことがいくつもあった。
「さあ、教えてもらおうじゃねぇか。お前、あれからどうやって助かったんだよ。俺はたしかに刺したはずだぜ? お前の背中を。毒が仕込まれた氷のナイフでよ」
「はあ……はあ……」
「おい。喋るなら、ちゃんと喋れや。ハーハー言うだけじゃ分からねぇだろうが。あの後、俺に刺されてどうやって助かったのかって聞いてんだよ。ああ?」
しかし、笛吹から明瞭な言葉が返ってくることは無い。大きく息を吸ったり、吐いたりを繰り返しながら、苦々しい顔つきでこちらを見つめるだけ。まるで「お前のような半端者の質問に易々と答えてたまるか」と、言わんばかりに。
「……」
駄目だ。これでは埒が明かない。いつもよりも気が昂っていた俺は、銃を左手に持ち替えると笛吹の頬を力任せに殴った。
「ぶはぁっ!!」
「ダンマリを決め込もうだなんて思うなよ? 意地でも喋らないってんなら、こちとら容赦しねぇ。力ずくでも口を割らせるまでだ。テメェが今どういう状況に置かれてんのか、真面目に考えるこったな」
そう言うと俺は再び銃身を右の掌に移し、今度は眉間に消音機の先端を強く押し当てる。体勢としては、いわゆる馬乗りのマウントポジション。相手に逃げ場など、少しも有りはしなかった。
「……舐めんじゃねぇ。この俺が、そう簡単に口を割るほど軟弱だと思うのかよ。やっぱりアホだなぁ。お前は」
「ああ?」
「お前ごときに口は割らねぇ、って言ってんだ。俺に情報を吐かせるだ? フッ。所詮ガキに何ができるってんだよ。やれるもんならやってみろやぁぁぁ!!」
無論、脅しだけで聞き出せるとは微塵も考えていない。荒っぽい手段を用いることも織り込み済みだ。上等である。向こうがお望みとあらば、俺の力を見せてやろうではないか。
「へへッ。そうかよ。んじゃ、遠慮なくやらせてもらうわ。テメェがあくまで素直に喋らねぇってんなら、こっちも容赦はしねぇ。瘦せ我慢がいつまで続くか見物だぜ……オラァッ!」
――バキッ。
右の拳を笛吹の顔面に叩きつけた瞬間、鈍い音がした。その瞬間、彼の表情が苦痛に歪むも俺は意に介さない。一定のリズムを刻むように、連続で打撃を浴びせてゆく。
強く握り固めて至近距離で繰り出すパンチの破壊力は想像以上に凄まじく、やがて1分も経たないうちに相手の鼻からは鮮血が流れ始める。おそらくは内部の骨に亀裂が入ったのだろう。青紫色に醜く変色していた。
「おい、そろそろ喋る気になったか? 鼻が折れちまったみてぇだぞ。さっさと吐いた方が身のためなんじゃねぇの?」
「……黙れ。お前の『拷問』ってのはその程度か。笑わせるな。親の七光りで極道に片足突っ込んだ甘ったれ小僧のパンチなんか、痛くも痒くもねぇんだよ!!」
顔の中央部分を腫らして呼吸を大きく乱しながらも、両目を大きく開いて俺を睨みつける笛吹。どうやら、まだまだ折れないようである。その顔つきからは、少しばかりの余裕が見て取れた。
「へぇー。思ったより、しぶといんだな。さすがに舐めてたわ。2、3発食らわせたら素直になると思ってた俺が馬鹿だったぜ」
「当たり前だ。俺を誰だと思ってやがる。俺はもうすぐ、横浜を手に入れる男だぞ。お前みてぇなガキにやられるほど……がはぁっ!!」
「うるせぇよ」
悪いが、この期に及んで自己紹介を聞いてやるつもりはない。笛吹の能書きを殴って中断させた俺は、それからは気が昂るままにパンチを浴びせ続ける。
先ほど受けた屈辱的な言葉への憤怒と憎しみ、そして自分への苛立ち。あらゆる激情を熱湯のごとく沸き立たせ、無慈悲な暴力という形で笛吹の顔面に叩き込む。
当然、そこに手加減の3文字など存在しない。途中から拳の第二関節のあたりが痛くなっても、満ちに満ちたアドレナリンのせいか屁の河童。殴打の連続によって相手が死亡してしまっても、もはや構わぬとさえ思っていた。
「おうっ、さっさと喋れや。どうしてテメェは生きてんだよ。あれからどうやって助かったんだ? いい加減答えろや、この野郎!」
「ぐうっ!? ああっ!? がはぁっ!!」
責め苦を与え始めてから、どのくらい時間が経っただろうか。少しばかり腕が疲れてきたので、ふと俺は殴打の手を下ろす。
「はあ……はあ……何だよ……もう、終わりか……?」
血まみれになった顔面の中で、笛吹の瞳はまだまだ笑っていた。鼻どころか頬のあたりも醜く歪み、歯も数本ほど折れていたようだが、奴の顔つきに垣間見える余裕は変わらない。
しぶとい。ある程度覚悟はしていたが、あまりにもしぶとすぎる。手の甲で額にうっすらと滴る汗を拭いながら、思わずため息をついてしまった。
(こんなに殴ったのに、まだ口を割らないなんて……)
何か、良い手段は無いか。身体的な痛みによる脅しが通用しないのなら、もっと確実な恐怖を与える術を講じなくては。このままでは俺の根負けになってしまう。即座に頭をフル回転させる。
「……」
不意に、視界の中へ入ってくるものがあった。笛吹を殴ることに集中しすぎて存在自体を忘れていた、黒色の金属製の物体。
人を脅しつけるには十分すぎる、むしろそのためだけにあるともいえる道具。俺はそれに手を伸ばさずとも、既に左手に携えていた。
(……よし。これに賭けるしかねぇな)
そう決心して右手に持ち替えたのは、9mmオートマチック。元々は笛吹が持っていたもので、先ほど奴を押し倒した際に奪い取ってやった。
銃があるなら、それを活かさぬのは勿体ない。銃口とは便利なもので、ただ向けるだけで相手の全てを否定できる。死の恐怖をちらつかせ、相手を己の思うがままに支配できるのだ。
俺は消音機付きの先端を笛吹の額に改めて押し当てると、低い声で囁くように言った。
「俺の質問に答えろ。お前は1ヵ月前、俺に刺されて死んだはずだよな。それが何で、いまこうして生きてるんだ? あんだけのケガをして、どうやって助かった?」
笛吹は鼻で笑う。
「……今度は拳銃で脅すつもりか。それで俺が口を割るとでも? はあ。どんだけアホなんだよ。お前は」
「答えろ!!」
相手の反応にはお構いなしで、俺はなおも返答を迫る。銃を撃った経験はそれまでに無かったが、とりあえずトリガーをひけば弾は出る。多少の反動はあろうが、この馬乗り体勢の至近距離で外すことは有り得ないはず。己の行動には自信があった。
「答えなければ撃つってか? ハッ。つくづく間抜けな野郎だ。ここで俺を殺せば、お前が知りたい情報とやらは永遠に得られなくなるぞ……? それにな、俺にはデカい後ろ盾がついてる。村雨組なんかとは比べ物にならねぇ大御所だ。それを敵にまわそうってんなら、勝手にすれば良いがな」
「知るか」
笛吹の弁説を一言で強引に遮り、俺は当たり前のように引き金へ指をかける。その際に銃身から「カチャッ」と軽い音が鳴り、笛吹の顔からは笑みが消えた。こちらが“本気”であることがようやく伝わったようである。
「……お前、俺が死ぬのを怖がっているとでも?」
射抜くような目を向けてきた笛吹に、俺は瞬きひとつせずに大きく頷いた。
「ああ。そうとしか思えねぇぜ」
「何だと?」
「さっきの質問に答えろ。でなけりゃ、本当に死ぬだけだ」
「ほざきやがれ……」
俺と笛吹の眼光が交差する。こちらも向こうもまったく視線を逸らすことなく、互いに無言で睨み合うのみ。
「……」
室内を冷やすエアコンの音だけが機械的に響き渡る、沈黙の空間。このように張りつめた雰囲気では、時間が過ぎるのも忘れてしまう。
ただ、笛吹の口から事の真相を聞き出したい。それだけを意識し、腕の疲労感などを省みることはない。銃身を握る手に、ひたすら力を込め続けたのだった。
「……」
一方、突きつけられた銃口から笛吹は目が離せずにいるようだ。
「……本当に良いのか? 俺を殺せば、大変なことになるぞ。後には2度と引き返せなくなるんだぞ?」
「構わねぇさ」
この期に及んで俺を逆に脅そうというのか、それとも単なる命乞いか。どちらにしたって、奴の言葉に耳を傾けることは無い。軽くあしらうと、俺は引き金にかけた指をほんのわずかに動かしてみせた。
「なっ……!?」
笛吹の瞳の奥に戦慄が浮かんだ。吐息混じりに漏れた声は動揺の色を孕んでいる。もう、はっきりと視認できる。すぐ目の前にまで迫った死の恐怖に、笛吹は怯え始めているのだ。
先ほどまでの余裕が、完全に吹き飛んでいた。その変化を俺は見逃さない。
(もうすぐ、こいつは口を割る……)
確信がよぎった。どんなに口では威張り散らしていても、やはり覚悟が出来ていないらしい。心のどこかでは「死にたくない」と一抹の願望を抱えているのだ。
なればこそ、土壇場でわずかな光明に縋ろうとする。相手の言う通りにすれば死ななくて済むという、敗北と引き換えの実に虚しい光明に。
目視ではっきりと分かるほどに表面化した笛吹の精神的動揺につけ入るかのごとく、俺は敢えて高らかに言葉を浴びせた。
「お前に最後のチャンスをやるよ。このままつまんねぇ意地を張って頭に風穴あけるか、それとも俺の質問に素直に答えて命拾いするか。好きな方を選べ。どうする?」
打撃で切れた笛吹の唇が、微かに震え始める。もう、他にどうすることもできないと悟ったようだ。答えはすぐに返ってくる。
「……わかったよ。お前が知りたいことは、ぜんぶ教えてやる。だから、その、こ……殺さないでくれ。頼む」
ついに、笛吹が落ちた。自分にとっては初めての拷問だったので思ったよりも時間がかかってしまったが、これでやっと聞き出せるようだ。
殺したはずの男が生きている、その理由を。
自分の本来の役目は藤島から大鷲会の護衛を引き離すことだったが、彼らが全員死亡してしまった今となっては万事仕方ない。村雨組長へのせめてもの手土産に、一連の抗争に関する情報をひと通り掴んでおこうではないか。
どうせなら笛吹のバックに付いているという“後ろ盾”についても、詳しく聞いておきたい。それまでの情報では伊東一家だと伝わっていたが、本人の反応を見る限りはどうも違うようだ。
兎にも角にも、知りたいことが多すぎる、俺は拳銃を持つ右手にもう片方の手を添えて構え直すと、改めて銃口を笛吹に向けて問いを投げる。
「よし。さっそく聞かせてもらうおうじゃねぇか。まずお前さ、何で生きてんの? あの時、殺してやったのに。ナイフの毒のせいで死んだって聞いてたけど?」
「……俺は殺されてなんかいない」
「どういうことだ?」
「あの日、お前が殺したのは俺じゃない。別人だ」
事の真相が、今まさに語られようとしていた。
たいへん長らく、お待たせいたしました。
本日より第7章開幕です。
始まって早々「拳銃の発砲を避ける」という
超人技をやってのけた麻木涼平君ですが、
どうぞ温かい目で見守って頂ければ
幸いでございます。