亡霊、本当の夏のはじまり
1998年8月20日。
正午過ぎ。俺は昨日の指示通り、再び月見台公園に1人で向かう。勿論、誰にも告げずに。「他の連中には悟られるな」というのが組長の言いつけであり、おかげで屋敷を出る際には周囲の目が気になって仕方がなかった。
ここまでコソコソする必要があるのかとも思えたが、組の中に裏切り者が潜んでいる以上はやむを得ない。これは藤島の身柄確保は俺と村雨、2人だけの隠密作戦。
うっかり情報が洩れて内通者の耳に入ってしまっては、全てが台無しになってしまう。むしろ大袈裟に気を張るくらいが丁度良いのだろう。俺は出来るだけ足早に、公園へと続く坂を駆け下りていった。
「来たな、涼平。遅いぞ」
やはり、村雨は到着済み。昨晩とは違い、公園の入り口付近のフェンスに背中を預けるように腰かけていた。定刻通りにもかかわらず文句を言われるのは相変わらずだが、変わった点はもう1つある。
それは、公園の前に黒い車が横付けされるかのごとく停まっていたこと。あれはおそらくHANDA社製のバンか。少なくとも6人は乗れると思しき、非常に大きな車だった。
(うわぁ。でけぇ……)
後部座席の窓ガラスには黒いシートが隙間なく貼り付けられており、内部を窺い知ることは出来ない。車体自体のカラーリングも相まって、まるで塗りつぶされたかのようなその無機質な黒色はひどく不気味な雰囲気を放っていた。
きっと、後部座席には確保した藤島を寝かせるはず。車の用途としては非常に分かりやすい。逆に、入院中の意識不明の患者を奪取するのに適した車種はバン以外には見当たらない。そう考えると、妙に納得できる。実に適切な車選びだ。
「では、早く乗るが良い。モタモタしている暇は無いぞ」
村雨に促され、スライド式のドアを開けて車の中へと入り込む。すると、運転席にいたのは見覚えのある顔だった。
「ハーイ! 久しぶりだねぇ、リョウヘイ!」
「あんたは……!?」
満面の笑みを浮かべながら俺に話しかけてきた男の名は、J・B・スギハラ。村雨組で銃器の調達および管理を担当しているという元米兵の協力者である。
「ファミリーの人手が足りないってことで、今日はボクがドライバーを任せられたんだ。ミッションコンプリートまで、どーぞよろしくね!」
「あ、ああ。よろしく」
前述の通り村雨組の中ではスパイが目を光らせ、耳を澄ましている。当然、他の組員たちの動きも逐一注視していることだろう。
そんな時に彼らを使えば、内通者に作戦を察知されてしまいかねない。だからこそ、立場的には部外者であるスギハラが起用されたというわけだ。
「そういえば、リョウヘイ。ユーのことはミスター・ムラサメから聞いてるよ。殴り合いのファイティングじゃあ、負け知らずらしいね。凄いなあ」
「おお。そりゃ、どうも」
「いやあ、やっぱり生粋の日本人は強いよ。まさにヤマト・ダマシイってところだね。そのスピリッツはボクにも流れてるんだけど、生憎半分だけだからさぁ。憧れちゃうよ~」
「……」
彼と接するのはおよそ1ヵ月ぶりだが、相変わらず調子が軽い男だ。発する言葉の節々には英単語が混じっており、米国本土で生まれ育っただけあって発音は非常にネイティブ。そのせいか、どこか絡みづらい印象を受けてしまった。
「スギハラ。無駄話はそのくらいにして、早う車を出せ。指定の刻限に遅れれば怪しまれるゆえ」
「OK!」
村雨が割って入ってくれて、非常に助かった。菊川や嘉瀬のように初対面からあからさまな敵意を向けて来られるのは厄介だが、陽気が過ぎるのもこれまた対応に困る。
(やりづれぇなあ……)
だが、助手席に座っていたのは、さらに厄介な人物だった。バックミラーに映るその目元を見た瞬間、俺に凄まじい戦慄が走る。
(えっ……菊川!?)
何故、奴がいるのか。意味が分からない。大鷲会と密かに通じていた内通者とは、菊川のことではなかったのか。急に頭が混乱してしまう。
いかに村雨組長が大胆な人物であろうと、起死回生をはかる隠密行動にスパイを同行させる理由は無いだろう。勿論、こちらの手の内が向こう側に漏れたら終わりなのである。昨晩、組長が「誰にも言うな」とわざわざ俺に釘を刺したのは、作戦の概要を悟られないためだと思っていたのだが。
意表を突かれて言葉を失っていると、当の菊川が口を開いた。
「やあ。麻木クン。まさか、君まで呼ばれていたとはね。さすがに依怙贔屓が過ぎるんじゃないかって言いたいところだけど、組の中に敵の犬が紛れ込んでるって状況なら止むを得ないか。まあ、人手も足りないことだし、来たからには役に立ってよ。ね?」
「……うるせぇ。別にあんたに言われなくたって、分かってるよ。カチコミの時にソープで遊んでた誰かさんと違って、俺は役立つ人間なもんでね」
「はははっ! 相変わらずだなあ、キミは」
後ろから首を絞めてやろうかとも思ったが、続いて乗り込んできた村雨が俺の隣に座ったので止しておいた。ここで揉めても、良いことは何も無いのである。
「よし。それでは参ろう。スギハラ、車を出せ」
「了解!」
スギハラのテンションは、発進してからも変わらず。運転中、彼はずっと独りで何やらあれこれ喋っていた。俺としては、一貫して無視で通す。下手に反応して会話になってしまっては終わらせるタイミングが掴めないのだ。
村雨邸から市立病院までは、中央街道を通って20分ほど。その間、俺は何も言葉を発さない。時折お喋りな元米兵を「運転に集中しろ」と窘める隣の村雨の声を耳に挟みながら、ただ無言で窓の外を見つめ続けるだけ。
(菊川はスパイじゃないのか……?)
考えていた事といえば、それに尽きる。菊川でないとするならば、一体誰なのか。ひと度「怪しい」と思い始めれば心当たりのある人物は組員の中に山ほどいるので、1人に絞り込めない。
そもそも組長からは、実名を伝えられていない。内通者の存在だけを匂わされたのみで、具体的にどの人物なのかについては一切明示してもらえなかった。
ただ、これにはきちんとした意図があるようだ。官庁街通りを出た所にある交差点の赤信号で車が停まった時、菊川が村雨に大きな欠伸をしながら尋ねる。
「ねぇ、そろそろ教えてよ。うちに潜り込んでる敵の犬って誰なの? 昨日からずっと考えてて、もう気になって仕方ないんだけど」
「いや、教えるのは藤島の身柄を押さえてからだ」
「何でさ?」
「いま内通者の正体を知れば、きっと激情に駆られよう。その者を屠ることしか頭に浮かばなくなり、やがては目先のことが手につかなくなる。そうなっては困るのだ。此度の作戦は、慎重に慎重を来さねばならぬゆえな」
なるほど。そういう理由だったか。どうやら、俺だけではなく若頭にも実名を伝えていないらしいと見た。まずは作戦に集中させようというのは、確かに納得のできる意見である。
「はあー。キミが言うなら仕方ないか。それも一理あるからね。けど、勿体ぶらなくたって良いのになぁ……麻木クンはともかく、僕がいかなる時も平常心を忘れない男だってことはキミも分かってるだろうに」
「念のためだ。あと、間者に関しては戻り次第に“対処”するつもりだが、すぐには殺さない。誰の指図で送り込まれたか、今までに如何ほどの情報を流したか、丸々全てを吐き出させる。処刑はその後だ。良いか? 己の裁量で勝手に殺すなよ?」
「はいはい。分かってるって……」
渋々ではあるが、菊川も了承しているようだった。いちいち俺に聞こえるような声で嫌味を言ってくるのは気に入らないが、一連の会話で彼が内通者でないことは何となく分かった。
ちなみに、村雨の口から飛び出した“対処”とは即ち拷問のことだろう。残虐魔王と呼ばれるくらいだから、その内容は相当凄惨なものなのだと容易にうかがえる。少し想像しただけで、全身に鳥肌が立ってしまった。
そんな中。
「おい。涼平」
青信号で車が動き出すと、今度は俺が村雨に声をかけられる。
「え?」
「昨日も伝えたが、此度のお前の役目は護衛を藤島から遠ざけることだ。藤島を病院の外へ連れ出すまでの間、ひたすら時を稼いでもらう。出来るな?」
「出来るとも。連中を屋上に連れてって、そこでボコボコにブチのめせば良いんだろ。簡単な話じゃねぇか」
順序は、ひと通り頭に入っている。
村雨が事前に入手した情報によると、藤島茂夫が入院しているのは6階の特別室。まずは俺がそこに単独で向かい、入り口を固めている大鷲会の組員を挑発し、逃走。
大鷲会にとって、俺は「本部長の命を奪い、会長に重傷を負わせた張本人」として名前と顔が既に割れているため、こちらの姿を視界に捉えた組員は必ず追いかけてくるはず。
やがて病室から護衛が離れた隙を狙い、開科研の医療スタッフが密かに藤島を外へと運び出す――。
それこそが今回の作戦の概要である。謂わば、俺は敵を引きつけるための囮。あまり気乗りはしないが、大切な役割だ。作戦成功の命運は俺に懸かっているといっても、何ら過言ではない。
(そう考えると、責任重大じゃねぇか……)
昨晩、屋敷へと戻る道中に組長から詳しく話を聞かされた直後から、脳内で何度となくシミュレーションを重ねたのは言うまでもない。
毎夜の日課である筋トレに励んでいる最中も、シャワーを浴びている最中も、そして寝る前も、病室の前に立った敵の組員を煽って逃走し、6階から屋上へと誘導した後に無力化するまでの流れを繰り返し思い浮かべていた。
もともと俺は脚力には自信があり、途中で追いつかれる可能性はゼロ。それに先ほどスギハラに褒められた通り、殴り合いでは負け知らずの腕力も備えているので成功はほぼ間違い無いだろう。
だが、それでも大役を仰せつかったとなれば心に緊張の色を孕んでしまうのが人間の常。県道から国道に入って目的地が次第に近づくたび、自然とため息が漏れてくる。
「ふう……」
武者震いする俺に、村雨は言った。
「大鷲会が会長の病室を守るのに如何ほどの戦力を投じているのかは分からぬ。なれど、涼平。必ずしも全員を倒す必要は無いぞ。お前の役割は、あくまでも護衛を病室から遠ざけること。ゆえに我々が藤島を運び終えた後は、頃合いを見計らってその場から逃げよ。合図を送ってやる」
「合図? っていうか、どうやって俺たち連絡を取り合うんだ?」
「これを持っておれ」
渡されたのは、長方形の物体。俺には見覚えがあった。
「……トランシーバーか」
1km以内の比較的短い距離での通信を行う際に用いる簡易無線機。ほぼ寝たきり状態であった絢華の雑用係として組で働き始めた頃、秋元から貸与されて使っていた端末である。
実に懐かしい。
銀色の本体から伸びた黒色のアンテナ、そして表面にいくつも空いたスピーカーの穴まで、もう何から何まであの時のままだ。握りしめた瞬間、絢華と過ごした数ヵ月前の情景が鮮やかに脳裏に蘇ってくる。
(そういえば、あの頃は……)
しかしながら、今は懐古的な感傷に浸っている時ではない。己に課せられた任務を全うし、組長の作戦を必ず成功に導くことのみを考えねば。
頭を左右に振って幻想を中断し、俺は慌てて我に返る。
「あ、ああ! こいつを使うってことか!」
「そうだ。護衛を病室から引き離したら、端末中央の『呼び出し』のボタンを押せ。私が出るのを待たずとも良い。そして、こちらの用が済んだら今度は私からかけるゆえ、通知音を聞き次第、頃合いを見計らって逃げ延びて参れ。車は先に行かせるが、私はお前が来るまで待っている。分かったな?」
「了解!」
俺が軽く返事をした後、車内は走行におけるタイヤの駆動音だけが響く沈黙の空間となった。乗っていたのは俺と村雨と菊川、それとスギハラの4人。医師を含めた開科研のスタッフ4人とは現地で合流し、帰りはこの車に彼らと藤島を乗せる予定だという。
「……」
そのためか後部座席はシートが全て倒され、成人男性1人を寝かせられるだけのスペースが確保されている。ゆっくりと視線をやりながら、村雨は呟いた。
「本来なら、救急車を使って転院搬送を装いたかったのだがな。あまりにも急だったゆえ、本物の救急車が用意できなかったのだ。些か心許ないが、やむを得ぬ。このまま進める他あるまい」
彼が内通者の存在を悟ったのは前日のこと。そこから急いでこの作戦を立案・実行するに至ったのだから、準備が不十分なのはむしろ当然といえよう。されど、絵に描いたような完璧主義者であるがために悔しさが隠せないようだった。
また、村雨が漏らしたため息には、おそらくは組の中に潜り込む内通者の存在に気づけなかった自分への怒りも含まれているのだろう。言葉には出してこなかったが、彼の眼差しの色からすぐに分かる。
常に己を律し、他人にも自分にも厳しい組長のことだ。その悔恨の大きさは計り知れない。それからしばらくの間、俺は何も言葉をかけることが出来なかった。
「……さて、行くか」
社内の沈黙が村雨によって破られたのは、やがて車が大きな駐車場に入った時。『横浜市立病院』。この関東有数の大病院であり、最先端の検査設備も充実した総合医療施設だ。
平日の午後ということもあってか、停められている車の数は多い。きっと皆、健康診断やら外来の通院治療やらで訪れているのだろう。入院中の患者を強奪しに来たのは、当然俺たちだけのはず。そう考えると、どこか可笑しかった。
「よし。時間通りだ」
金色の懐中時計に目をやった村雨が深々と頷く。合流予定の開科研のスタッフ達は、既に正面玄関前に待機していた。スギハラに適当な場所に車を停めてもらった後、こちらも足早に降りて彼らに歩み寄る。
「村雨組長、お待ちしておりました」
「うむ。手筈は心得ているな?」
「もちろんです。藤島氏を確保したら、車椅子に乗せてあのワゴン車へ運び込む。簡単な話じゃないですか。楽勝ですよ。あ、さっそくで恐縮なのですが……例の書類はご用意いただけましたでしょうか」
「これだ」
村雨が手渡した、2枚の紙。上部にはそれぞれ太い黒文字で『転院承諾書』『紹介状』と記してある。詳細こそさっぱりだが、藤島の身柄を市立病院から開科研へ移すために必要な書類であることは何となく分かった。
2枚ともに、ご丁寧にも一番下の欄に署名が窺える。あれはおそらく、藤島の主治医のフルネームを日高が書いたものだろう。独特の「とめ」、「はね」、「はらい」の癖から筆圧に至るまでまで全てが本人そっくりらしい。
ここまで完成度が高いと、もはや流石としか言いようがない。今改めて振り返ってみても、まさに神業である。受け取った開科研の医師もひどく唸っていた。
「いやあ、お見事ですな。病院の法人印まで正確に押されていらっしゃる。やはり、村雨組の皆さんは仕事が完璧だ。これじゃあ右に出る者は居りますまい」
「だろうな。毎度のことながら、私も日高の腕には舌を巻かされている。まったく、頼もしくも恐ろしい男だ」
そんな話を繰り広げる村雨と医師の後を追い、俺は病院の中へと入ってゆく。駐車場の光景から察した通り、内部は混んでいる。この日はたまたま団体の検診があったらしく、特に玄関から直ぐの所にある外来の待合スペースはごったがえしていた。
病院の出入り口は救急車などが来る救命救急センターを除き、この正面玄関だけ。よって、任務を終えて病院から逃げる際にはエレベーターもしくは階段で1階に降りた後、このフロアを通って外に出ることになる。
(うーん……こんなに人がいちゃ、邪魔になるかもな)
既に座る場所さえも見当たらないくらいに患者で埋め尽くされてしまっているが、走って逃げる際にぶつかったりすれば厄介だ。ゆえに、離脱の際には注意を払わねばならないと感じた。
厳密に言えば、他にも出入口はある。それは病院に勤務する医師や看護師などが使う職員通用口なのだが、部外者である通れば確実に怪しまれるだろう。警察を呼ばれるリスクを避けるためにも、やはりここは正面玄関を通るのが最善だろう。
実に面倒である。されど、これが己に与えられた任務である以上は仕方がない。甘んじて受け入れようと心に決め、俺は村雨たちの後を無言で歩いて行く。
そんな時、背後から囁かれた。
「ねぇねぇ。麻木クン」
急に耳元で声が聞こえたので、ビクッとして振り返る。すると、俺のちょうど左後ろに菊川が立っていた。前方の組長たちの会話に気を取られていたせいか、足音と気配にまるで気づかなかった。
「やっぱり、キミなんじゃないかな。大鷲会から送り込まれたスパイってのは。なんか、キミがいちばん怪しいんだよねぇ」
「はあ? その言葉、そっくりそのまま返してやるよ」
「フフッ。だよね。素直に認めるわけないよね。でも、デカい態度を取っていられるのも今のだけだよ? そのうち、キミは異端審問にかけられる。人間を生きたまま解剖しちゃうような、エグ~いやつだ。うちの組長は裏切り者に容赦しないからねぇ。キミが耐えられるかどうか、見ものだなぁ。まあ、せいぜい残りの命を楽しむがいいさ。束の間のひと時をね」
「……ほざいてろ。変態野郎」
妖怪のごとくニタッとした薄ら笑いを浮かべた菊川の表情が、が、ひどく気持ち悪く感じた。どうも、内通者の正体が麻木涼平だと本気で信じているらしい。
村雨組長の口から実名が明かされるまではやむを得ないのかもしれないが、作戦中にこうして突っかかってこられるとやりづらい。彼と共に行動する役回りではなくて、本当に良かったと感じた。
「では、皆々。よろしく頼むぞ」
エレベーターホールの手前にある総合受付のすぐ近くまで来たタイミングで、村雨が皆に小声で号令をかける。ここからは各々が分かれての行動となるのだ。気合いが高まるとともに、緊張が背筋を伝った。
「……」
今回の作戦の流れは、完璧に頭に叩き込んである。俺の役目は組長たちが受付で手続きを済ませるまでの間、先に藤島の病室から護衛を引き離すこと。簡単な話だ。失敗する可能性など、殆ど無いに等しいではないか。
プレッシャーが武者震いに代わるのを心で確かめつつ、俺は歩き出した。
(ええっと、たしか6階だったよな?)
まずはエレベーターに乗り込み、行き先ボタンを押す。この市立病院は9階建て。よって逃走時には非常階段を使って3階層分、一気に駆け上がらなくてはならない。改めて考えてみると、とてもハードな行程だ。
少しでも体力を温存しておくべく、ゴンドラの中では無駄な動きを極力しないよう心がけた。ただ黙って、後ろのガラス張りの大窓から見渡せる光景を見つめるだけ。束の間の気分転換である。
(それにしても……すげぇ眺めだな)
300万もの人々が住まう大都会であり、世界でも指折りの巨大貿易港を有した港町・横浜。さながら森林のごとくそびえ立つビルの群れは、こうして高い所から見渡してみると今更ながら勇壮に思える。
大きな街の中では、いくら大暴れしたところで自分などは所詮ちっぽけな存在に過ぎないのだろう。無理もないことである。考えるまでもない。
されど、一方で試してみたい気持ちもあった。大都会の中で麻木涼平がどこまで行けるか、己の腕に賭けてみたいと思っていたのだ。
そのためには如何なる試練や障壁が立ちはだかろうと、確実に乗り越えていかなくてはならない。目の前にある仕事ひとつ満足に片づけられぬようでは、成り上がることはおろか生きていくこと自体心許ないのだから。
これは俺という男が先へ進むため、越えるべき関門――。
何が何でも乗り越えてやろうではないか。そう改めて決意を固めた瞬間、半畳ほどの狭い室内に無機質なアナウンス音が響き渡る。
『6階です』
どうやら、到着したようである。扉が開くのを待ってから、俺は颯爽とエレベーターを降りた。
(ここか……)
横浜市立病院6階・特別入院病棟。一般の病室とは違い、豪華な家具や設備を備えた謂わば病院のスイートルーム。滞在費用は恐ろしいほどに高額だが、その代わり極上のホスピタリティによって快適な入院生活を満喫できるとの話。
まさにVIP御用達のサービスというわけだが、藤島はそんな特別病棟の614号室に居るらしい。銃撃により彼は全身の血液の大半を失って心肺停止、その後の蘇生が遅れたため昏睡状態に陥ってしまったのだとか。
あれだけの弾を食らって生きていた時点でも奇跡としか云いようは無いが、自力では呼吸すらできない状態に陥っても未だ現世に留まれる生命力の高さには敵ながら凄さを感じてしまう。
やはり、腐っても鯛。老いてもなお、極道として任侠渡世の第一線に立ち続けてきただけのことはある。そう簡単に力尽きたりはしないのだろう。生きることへの執念深さが、並大抵の老人とは違うようだ。
(ええっと、608号室は……?)
事前の情報を頼りに、俺は藤島の病室を探す。608号室というからには「6階にある08番目の部屋」なのだが、生憎フロアが大きいために分かりづらい。病室と病室の間隔が、異様に広すぎるのだ。
普通の病棟ならば各室間は数メートルほどの距離だと思うのだが、俺が行った特別病棟では桁違い。少なくとも10メートル以上はあったように感じた。
横浜市立病院において一般の病室が1フロアにつき24部屋なのに対し、特別室はこのフロアに9部屋しかない。ゆえにこの間隔なのだろうが、流石に離れすぎだ。ここまで広いと、少なからず苛立ちも沸き起こってくる。
(ったく……どんだけデカい部屋なんだよ……)
心の中で悪態をつきながらも、懸命に藤島の部屋を探す俺。やがてエレベーターから続く廊下をつきあたりで曲がった所で、自分が少しずつ近づいているとようやく認識できた。
【606号室】
もうすぐだ。あと1部屋を超えれば、藤島が眠る病室へと辿り着ける。アドベンチャーゲームでたとえるならば、道なき道をひた走ってセーブポイントに到達したような気分。わずかな安堵感に包まれ、俺はホッと胸を撫で下ろした。
ところが、それは束の間。隣の607号室を通り過ぎて目的地が見えてきたと思った瞬間、妙な違和感が俺を襲う。
(……あれ?)
608号室は、確かにあった。しかし、扉の近くに人がいないのだ。事前の情報によれば、大鷲会の組員が会長の入院する部屋の前を固めているはず。にもかかわらず、部屋の前には誰も見当たらない。不気味なほど、しんと静まり返っていた。
組員たちの行き先は2パターン、考えられる。便所なり昼飯なりを済ませるためにその場を一時的に離れたか、もしくは何らかの理由で病室の中へ入ったか。
いずれにせよ、これでは任務を遂行できない。俺は眉間にしわを寄せ、軽く舌打ちをした。かなり面倒な展開である。
当初の計画では部屋の前に立つ護衛を挑発して屋上へ連れ出せば良いと考えていたが、彼らが部屋の前に居ないのであれば話にならない。不本意かつ急ではあるが、計画の修正が必要のようだ。
とりあえず、藤島から部下を引き離せば良いのである。挑発して遠くに誘導するにしても、まずは連中と出くわすことが先決だ。それにはどうすれば良いか――。
いや、悩んでいても仕方がない。もともと無い知恵を総動員して考えたところで所詮、浮かんでくる策などはたかが知れているのだ。
(……やるしかねぇな)
藤島の病室への“突入”。もはや、これが最善だ。中に護衛が居るなら好都合だし、居ないならば室内に潜んで待ち受けて、やがて戻って来たところを狙えば良い。
任務の趣旨は、護衛を藤島から引き離すこと。計画に多少の狂いと途中変更が生じようと、最終的にそれが果たせれば結果オーライ。何ら問題は無いはずだ。
覚悟を決め、オレンジ色の取手に手をかけてゆっくりと右側に引いてみる。あまり音を立てぬよう、慎重に。たぶん、それまでの人生の中で5本の指に入るくらいの繊細な動作だったと思う。
「……」
しかし、扉を全て開けきった刹那。
「えっ!?」
思わず、驚きの声が漏れてしまった。藤島が眠るベッドの近くに、1人の男が立っていたのだ。夏だというのに白の背広の上下を着込んだその人物は、大鷲会の護衛の組員ではない。
護衛の連中は、無惨な姿となって室内に転がされていた。皆、頭部に弾玉を食らったような痕がある。白スーツの男の左手には拳銃が握られていたことから、彼の仕業であるとすぐに分かった。
ただ、問題なのは男の容貌。
「お、お前は……」
やや小さくて細めの瞳に、剃り上がった眉。肩のあたりまで伸びた黒の長髪が、開いた窓から吹き込む風を受けて後ろにたなびいている。
明らかに、見覚えがある顔だった。
「う、笛吹!?」
横浜大鷲会本部長、笛吹慶久。紛れもなく本人である。前月に村雨から写真を渡されて以来、何度となく姿を捉えて脳裏に焼き付けてきたのだ。忘れるわけがない。
「クックックッ……やっとお出ましかよ。待ちくたびれたぜ。麻木涼平。ずいぶん来るのに時間かかったじゃねぇか。ああ?」
煽るような眼差しと共に、俺に不敵な笑みをよこしてきた笛吹。声にしても以前耳にした、あの低くて野性的な声質そのもの。視覚と聴覚、どちらとも目の前の男を「笛吹本人である」と瞬く間に結論付けた。
しかし、どうにも解せぬことがある。あまりの驚きで意識が飛びそうになるのをグッと堪え、しっかり保ちながら、俺は震える声で問うた。
「何で……どうして、生きてるんだ!?」
そう。目の前に立つ男=笛吹は、死んでいるはずの人間なのだ。いや、そうでなくてはおかしい。何故なら1ヵ月近く前、長者町の伊勢佐木町ロイヤルホテル地下駐車場にて、俺自身の手で刺し殺したのである。受け入れられるわけがなかった。
「おう、麻木ィ。今、お前が何を考えてるか当ててやろうか? たぶん、こう思ったろ。『あの時、氷のナイフでぶっ刺したのに』って。どうだ? 当たってるか?」
「……」
「だよなあ。図星だよなあ! そらぁ、無理もねぇぜ。お前は今の今まで、この俺を殺したつもりでいたんだからよぉ。そりゃ、そんな無様で間抜けな顔にもなるわなぁ……ハハハッ! もう、終わりなんだよ。テメェも、村雨耀介も!」
生きている人間か、それとも冥界から戻った亡霊か。
笛吹の高笑いの声だけが響き渡る病室が、段々と冷たい空気に包まれてゆく。30℃は超える夏の日だというのに、背筋から全身にかけて寒気が走る。喩えるならば冷凍庫に閉じ込められて、体を氷漬けにされてしまったような感覚とでも云えようか。
(おかしい……あの時、殺したはずなのに……たしかに、刺さっていたはずなのに……どうして……!?)
俺にとっての本当の夏は、今まさに始まろうとしていた。
第6章、これにて完結です。
いかがでしたでしょうか?
連載開始からは1年が過ぎました。
この作品が少しずつ、そして着実に
広まっていることを日々感じております。
作者として、これほど嬉しいことはございません。
応援してくださった皆様、本当にありがとうございました!
どうぞこれからも『鴉の黙示録』をよろしくお願いいたします。
第7章は2月上旬にスタート予定です。
麻木涼平の奮闘ぶりと、覚悟を決めた先で
つくり上げる最強伝説を温かい目で見守って
いただければ幸いです。
まだまだ寒い日が続きますので、
どうかお体にはくれぐれもお気をつけて。