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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第6章 氷の夏
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内通者は誰か?

 翌日。


 たしかあれは14時過ぎ、昼食を取っている最中に起きた出来事だったか。ダイニングルームでその日の献立の親子丼に箸をつけていると、不意に背後から話しかけられた。


「あのぅ……ちょっとよろしいでしょうか」


 女性の声だ。


「ん!」


 思わず背中がビクリと反応する。咀嚼の途中であったため、あやうく気管に誤嚥しかけた。それもそのはず。まったく聞き覚えの無い声だったのだ。


(っていうか、村雨邸ここに女なんて居たかよ?)


 呼吸をどうにかして整えながらも、俺は戸惑いを抑えることが出来ない。組員は勿論のこと、組長に雇われて働いている協力者たちの中にも女性は存在しなかったはずだ。


 唯一の例外として家政婦の秋元絹江がいるが、現在は絢華に付き添ってアメリカに滞在中のはず。聞こえてきた声の雰囲気からして、彼女ほど年を重ねているとも考えにくいのだが。


 何にせよ、本来であれば有り得ないことが起きている。どうして屋敷の中に女性がいるのか。


 考えてみれば俺が食堂に入ってきた際、料理人のおっちゃん以外に人の姿は見えなかったはずだ。他の連中と出くわして気まずくならぬよう、敢えてこの比較的遅めの時間帯を選んだというのに。


 空耳か、それとも心霊現象の類か。


 前者はともかくとして、後者は立地上有り得ない話でもない。かつて村雨邸は地元でも指折りの名士の家だったが、若き日の組長がその名士を家族ごと殺害して屋敷を乗っ取ったという噂話を前に聞いていたのだ。


 先ほど聞こえたのは、風鈴の音を彷彿とさせる透き通るような声。小学生の頃に面白半分で観たホラー映画に出てくる少女の亡霊も、考えてみればああいう雰囲気だった気がする。


(おいおい、嘘だろ……勘弁してくれよ……)


 人間相手なら基本的に怖いもの知らずの俺だが、オカルトチックなものはどうも苦手だ。しかし、このまま何もしないわけにもいかない。「恐る恐る」という形容詞を体で表すがごとく、静かに後ろを振り返ってみる。


 そこにいたのは、若い女だった。


「……えっ」


 身長は170センチ前後ほどで、女性にしてはわりと長身。丁寧に切り揃えられたワインレッドのショートヘアが特徴的な、どこか肉感的で色っぽい雰囲気を放つ女だった。


 雌豹を思わせる細い切れ目には付け睫毛と鮮やかなシャドウで化粧が施されており、小さく引き締まった唇も相まって非常に妖艶。まさに、大人の女性といった見た目である。


 ふと足元に視線をやると、履いていたのはやけに踵の高い黒ののヒール。白の無地のショートパンツに胸元が大きく開いた黒のノースリーブのブラウスという比較的派手な装いも加わってか、昼の仕事をしていないのは一目瞭然。職業はホステス、あるいはキャバ嬢だろうか。


 そんな彼女は唖然としている俺に、先ほどと同じく透明感のある声で問うてきた。


「あの、あなたが麻木涼平さんですよね」


 どういうわけかこちらのフルネームを知っているようだが、俺は目の前の女が何者なのか分からなかった。その華麗な容姿から美しい声に至るまで、おぼえというものが何ひとつ無い。


 普通、これほどの美女とお目にかかったとあらば強い印象を受ける。にもかかわらず記憶の片隅にさえ残っていないということは、本当に初対面なのだろう。


(こいつ、どうして俺のことを……?)


 大鷲会から送り込まれた女の殺し屋かとも思ったが、もしそうであれば振り向いた瞬間に仕留められるのが常だし、そもそも歩哨の組員がいる屋敷の中を自由に歩き回れるわけがない。


 よって、村雨組の関係者であることは直ぐに察した。ただ、どうにも正体を推測できない。いわゆる谷間が露出した水商売風のファッションから、彼女が借金のカタに組へ売り飛ばされた“奴隷”である可能性も頭に浮かんだが、それにしては表情に悲壮感が漂っていない。


 首を傾げつつも、俺は静かに返事をした。


「あ、ああ。そうだけど?」


 すると、女の表情がみるみる明るくなってゆく。


「良かったぁ! ようやく会えました。桜木町の事務所を訪ねても居ないから、どこに行けば良いんだろうって思ってたら、木幡さんに『屋敷ここに来れば会える』と」


「へぇ。で、俺に何か用でもあんの?」


「はい。ずっと、謝りたいと思ってたんです。先月、麻木さんには失礼なことをしてしまったので。けど、昨日までいろいろあって横浜を離れてまして……遅くなってしまい、すみません!」


 失礼なこと――。


 そう彼女は言ったのだが、俺には思い当たることがゼロ。というか、そもそも面識自体が無いのだが。一体、何の事だろうか。皆目見当もつかなかった。


「先月って言われてもなぁ。悪い。分からねぇわ」


「そうですよね。お会いするのは今日が初めてです」


「どういうことだ?」


「実は……」


 少しの間を置いた後、女の口から飛び出したのは予想だにしない内容だった。


「私、あの時の電話番なんです。あなたが初めて“仕事”をされた夜、7月31日の」


「えっ!?」


 7月31日。それは俺が村雨組長の命令で、大鷲会を笛吹を刺しに行った日である。組に来てから初めての任務を果たした晩のことなので、忘れるわけが無い。


 たしか完遂後は公衆電話から報告を入れたのだが、その時には女性が出た気がする。おぼろげではあるものの、一応は覚えていた。


「ああ! そういやぁ俺、あの時は何回も『終わった』って言ったんだよな。けど、なかなか通じなくて困ってたんだ。そしたら突然、木幡に代わったような……」


「はい。その通りです。あの夜は大変失礼なことをしてしまい、申し訳ありませんでした!」


 深々と頭を垂れ、女は続けた。


「私としても急に頼まれたことで詳しい説明を受けておりませんでしたので、ついああいう対応になってしまったんです。どうかお許しください」


「いや、そんな気にすることでもねぇだろ! わざわざ頭下げなくたって……」


「この程度で済む話ではないことは百も承知ですが、せめてものお詫びにお持ちしました。どうか、お納めください」


 そう言って手渡されたのは黄色の紙袋。中を覗いてみると、何やら紫色の和紙で丁寧に梱包された大きな長方形の物体があった。見たところ、菓子折りのようだ。


「文化庵のどら焼きです。麻木さんのお口に合うかと思いまして」


「けっこう高級な店じゃねぇか。ほら、テレビでもやってる。そんな、大袈裟な」


「木幡さんにから急に頼まれて訳も分からず……きちんと合言葉を聞いていなかったとはいえ、本当にすみませんでした!!」


 聞けば本来、彼女は組の電話番ではなかったという。


 普段はやはり村雨が所有しているクラブで働いているとのことで、組員たちとも顔馴染み。その日はたまたま木幡に同伴していたところ、急に電話番を頼まれたらしい。


「あの人に『30分だけ頼む』って言われたんです。私もあまり気乗りはしなかったんですけど、お礼に3万円もくれたから。それで、いつもの電話番の人と代わってたら麻木さんからかかってきて……でも、まさか重要な連絡だとは思わなくて……」


「そうだったのか。けど、もう良いよ。別に気にしてねぇし」


「普通なら、私が木幡さんからきちんと聞いておくべきことだったんですけど、あの人は詳しくは教えてくれなくて……」


「いや、だから気にしてねぇって」


 電話番の代わりを引き受けた経緯を説明し、女は改めて俺に謝罪する。こちらとしては別に大した事ではなく、怒ってもてもいなかったのだが、なかなか頭を上げてはくれない。


(はあ……困ったなぁ……)


 もう済んだ話だと何度諭しても、相手の姿勢は一向に変わらず。俺とてあの日はたしかに若干苛立ちもしたが、それを1ヵ月近く引きずるほど暇でもない。むしろ、訪ねて来られるまで忘れていたくらいだ。


 事前に話を聞いていなかったのであれば、やむを得なかったと思う。普通に買えば数千円はする和菓子を貰うにしては、些か大袈裟が過ぎている気がしてならなかった。


 しかし、必死で謝り続ける女は今さら何をどう説明したところで引いてはくれないだろう。昔から、このような押しに弱いのもある。俺は諦め、素直に受け取ることにした。


「……わかったよ。じゃあ、これは有り難く貰っとくわ。これで良いか?」


「はい。この度は、本当に申し訳ございませんでした」


 俺が紙袋を両手で持つと、女はようやく姿勢を戻してくれた。某国民的漫画に登場する青い猫型ロボットでもあるまいし、どら焼きは別に好物でも何でもない。


 だが、貰えるものは自分に損害をもたらすものでない頂いておくのも悪くは無いはずだ。気が向いた時にでも食べようと思い、俺は袋を正面のテーブルの上に置いた。


「あっ……あと、私。普段は桜木町の『ネオ・ロマンサー』って店で働かせてもらってます。なので、良かったら今度遊びに来てください。今回の埋め合わせにご馳走させて頂きます。あ、でも麻木さん。おいくつですか? 年齢的にお酒は……?」


「飲めるぜ。まだ15だけど。ってか、これからヤクザになろうってのに法律なんか気にするかよ。別に大丈夫だ」


「わかりました! では、これを渡しておきますね。入り口で見せれば通してもらえると思うので」


 差し出されたのは1枚の小さな白いカード。そこには白鳥を象ったロゴと店名の横に、太い明朝体の黒文字で名前が記されていた。


【CAST 英零那エレナ


 漢字表記ではあるものの、少し日本人離れした名前だ。


(エレナっていうんだ……)


 当て字の派手さからして、見るからに本名という雰囲気ではない。おそらくは源氏名だろう。生まれが川崎の堀之内なので、その手の店で働く女性に本名を用いる者が少ないことくらいは分かる。


「おう。んじゃ、気が向いた時にでも行くわ」


「はい! いつでもお待ちしておりますね。指名料につきましては初回のみ、私の方で持ちますので」


 どこかで落としてしまわぬよう、俺はエレナから貰った名刺を紙袋の中に仕舞い込んだ。夜の街で遊んだ経験は無いも同然だったが、酒自体は13歳の頃から飲んでいるので慣れている。抗争がひと段落した時にでも顔を出してやろうと思った。


「では、私はこれで失礼いたしますね。麻木さん、どうかお元気で」


「ああ。じゃあな」


 何度も会釈をしながら食堂を出て行くエレナの背中を見送った後、俺は正面に向き直る。室内に効いている冷房のせいか、ついさっきまで出来立てでホカホカとしていた親子丼はすっかり冷めてしまっていた。


 温かみを失った飯を食うのは気が引けるが、こればかりは仕方がない。俺は再び箸を手に取ると、丼ぶりの中に残っていた鶏肉と卵を勢いよく口の中へ流し込む。そして、いつもより遅めの昼食を済ませたのだった。


 それから、しばらく経った後。


「ちょ……ちょっと……良いか……?」


 待機室で1人テレビを観ていると、後ろから肩をポンと叩かれた。今度は誰かと思って振り返ると、そこにいたのは日高。彼の性格上、特に用事も無く誰かに話しかけたりしないことは分かっている。俺は少し、妙な胸騒ぎをおぼえた。


「おお、あんたか。何かあったのかよ」


「く……組長が……お前を……呼んでいる……」


「えっ!」


 ふと時計に目をやると、21時20分。仕事を伝えられる時間帯としては遅い気がする。もしかして、何か緊急の事案が生じたのだろうか。胸騒ぎは動悸へと変わった。


「わかった。とりあえず、行ってみるよ。奥の座敷か?」


「い……いや、違う……月見台公園だ……」


「はあ!?」


 思わず、素っ頓狂な声で反応してしまった俺。月見台公園といえば村雨邸と同じ山手町内にある、ひと通りの遊具を備えた小さな公園。


 丘の中腹にあることから眺望も良く、近隣の住民の憩いの場となっている。俺にとっても、以前絢華と2人で月を観た思い出の地だ。しかし、理由が分からない。


「ど、どうしてそんな所に?」


「いや……詳しくは……俺にも……ただ……何か……重要な相談が……あるみたいだな……わざわざ……そんな……家の外を……選ぶということは……」


 日高も首を傾げていた。組長は既に現地へ向かったらしく、彼は伝言のみを頼まれた模様。何故に□□公園まで呼び出すのかは不明だが、待たせてしまっては不興を買う。


「了解。ありがとな」


「お……おう……どうか……気をつけて……」


 俺は日高に軽く礼を言うと、足早に部屋を飛び出した。月見台公園は屋敷より歩いて3分ほどの距離にあるが、モタモタしていれば無駄に時間を食ってしまう。ひたすら廊下を駆け抜ける。


 だが、その時。


 ――ドンッ!


 急に誰かと肩がぶつかった。ちょうど瞳に入ったゴミを取るべく深い瞬きをしたところだったので、前方不注意になってしまったようだ。


いたっ!!」


「おうおう? 大丈夫か?」


 鈍い衝撃が走った左肩をさすりながら目を開けると、そこにいたのは昼食時に名前が出た木幡。心配そうな顔で、彼は苦笑いを浮かべていた。


「ははっ! 相手が俺で良かったなあ、麻木。もし他の奴らとぶつかってたら、速攻で弾かれてたぜ? それだけお前さんは組じゃ評判悪いんだ。ブチ殺されたくなかったら、もっと気をつけて歩くこったな!」


「はいはい。ご忠告どうも」


「で? そんなに急いで、どこへ行くってんだ? ずいぶん慌てた様子だったが?」


 木幡はニヤニヤと気味の悪い表情を浮かべながら尋ねてくる。嫌味なのか、それとも本当に興味があるのか。いずれにせよ、彼に構っている暇など有りはしない。


「……月見台だよ」


「月見台って、坂の下の公園か? 何でこんな時間に?」


「組長に呼び出されてるんだわ。あんたらと違って、俺はあの人に可愛がられてるみてぇだからなあ。それじゃ!」


 最大限の余計な一言で返し、俺はその場を全速力で立ち去った。背中越しに「あ、ちょっと待てよ!」と呼び止める声が聞こえてきたものの、完全に無視。玄関までひたすら先を急いだ。


「ったく……時間食っちまったじゃねぇかよ。あのクソ野郎が……」


 自分の不覚さを棚に上げた悪態を独り言で呟きながら、ようやく屋敷の外へと出る。この日は天候が快晴だったこともあり空には夏の大三角が綺麗に輝いていたが、天体観測に現を抜かしてはいられない。


 門を潜ってから左に曲がって暫くは坂をまっすぐに下り、それから左折して更に坂を下り続けたところでようやく目的地が見えてくる。


 月見台公園は往路こそ下り坂なのでスムーズに行けるが、復路は急こう配を昇らなくてはならないので大変。前に絢華と言った時も、車椅子を押して歩く帰り道が物凄く辛かった思い出がある。


 何故にそのような場所を選んだのかと思ったが、口には出さない。いざ着いてみると、もう既にベンチに腰かけている村雨の姿が視界に入った。


「涼平か。遅かったな」


 だいぶ早めに来たつもりなのだが。やはり、言われてしまった。せっかちで時間にシビアな組長のこと。例え1分の差だったとしても、相手が自分より遅ければどうせ「遅い」と文句を呈するのだろう。


 本庄との会食の時もそうだった。最早これは彼の生まれもっての性分らしいので、軽く受け流すのが最善である。特に深くは受け止めても良いことは無い。冷静にツッコミを入れるなど、もっての外だ。


 建前だけで対応するのが唯一の策だ。俺は表面的に「悪かった」と詫びを入れた後、村雨の隣にゆっくりと腰を下ろした。


「……で、何だ? 俺に相談ってのは」


「この公園は絢華のお気に入りでな。あの子がまだ幼き頃より、幾度となく足を運んできた。あれに乗って風のそよぎを感じるのが好きだと聞かせてくれたこともあったな」


 正面を向いたまま、呟くように語り始める村雨。彼がぼんやりと見据えた先には、街灯の光に照らされて輝きを放つ古いブランコがあった。


「ん?」


 まさか、愛娘との思い出語りをするために呼び出したのだろうか。さすがにそうではないと信じたかったが、村雨は話を止めない。


「私の命は絢華のためにある。それは昔も現在いまも、そしてこれからも決して変わらぬ。私が渡世に居続けるのも、成り上がりを続けるのも、全ては絢華を幸せにするためだ」


「えっ、ああ? うん」


「我が村雨組とて、同じだ。この組は絢華を守らんがためにこそ存在している。それを忘れる者など誰も居はしない。と、思っていたのだがな……」


 一体、何の話をしているのか。明らかに様子がおかしい。いつもであれば開口一番に用件を伝えてくるのに。村雨の雰囲気は、とてつもない違和感で満ち溢れていた。


 経験上、こうした話し方をする人間は大抵トラブルを抱えているものだ。尋常ならざる事態の対処に困っているからこそ、すぐには本題を切り出さず勿体ぶるのだ。事実、俺にヤクザと揉めている件を打ち明けた時の高坂がそうだった。


 数え切れぬほどの修羅場を経験してきたであろう百戦錬磨の極道である村雨耀介が、ここまでに平静さを欠いているのだ。内容が深刻であることは一瞬で分かる。


「涼平。何故、わざわざこのような所へ呼び出したと思う? 無論、屋敷では出来ぬ話をするためだ。他の者は信用ならぬ。芹沢が獄に繋がれた現在いま、私が心を許せるのはお前だけだ。その意味が分かるな?」


「あ、うん。誰にも言わねぇよ」


「では、心して聞け」


 しばらくの間を挟み、村雨は重い口を開いた。


「……この組に内通者が出た。敵方にこちらの情報を流し、見返りに金を受け取る不埒な輩が」


「えっ!?」


 内通者――。


 平仮名に起こせばたったの6音ほどだが、相当なインパクトがある響きだ。村雨の重苦しい口調のせいか、とてつもない緊張を俺に与える。その場の空気がどんどん張りつめてゆくのが分かった。


「目星はついている。その者は大鷲会と通じていてな。我が屋敷に盗聴器を仕掛けた上、こちらの動向を逐一流していたらしい。本日、その証拠を押さえた」


「な……」


 唖然とする俺に、村雨は続ける。


「何故、奴が私を裏切ったのか。今日は一日中、それをひたすら考えていた。頭の痛い時間だったな。欲に目が眩んで買収されたのか、私に対する恨みがあるのか……または、両方かもしれぬが。何にせよ、私や絢華に対して背を向けたことに変わりはない。これを見落としていたのは私の不覚だ」


 先ほどの嘆息の理由が、何となく分かった。配下の者の裏切りに気づけなかったとなれば、それ即ち自分の人を見る目が狂っていた事実を意味するのだから。己に絶対の自信を持つ村雨のこと。落胆して当然だろう。


「……」


 そんな組長にどういった言葉をかければ良いのやら、俺は返事に困った。「ドンマイ!」などと軽いノリで応じるわけにもいかず、かと言って迂闊に「しょうがないよ」と励ますのも相手が相手なので憚られる。


 悩んだ末、俺は一言のみで返すことにした。


「……そっか」


 驚くことも嘆くこともせず、ただ目の前の事実を受け入れるだけの台詞。これ以外に適切なものは思い浮かばなかった。単に俺が口下手なだけなのもあるのだが。


 流れを変えるように、続けざまに質問を投げておく。


「でも、どうして分かったんだ? そいつがスパイだって気づくきっかけみたいなのが、何かあったのか?」


「前から薄々、疑ってはいたのだがな。きっかけは昨日、大鷲会の連中が桜木町に攻め入ってきたことだ。藤島が撃たれた次の日で、情報を得るのがずいぶん早いものだと思ってな」


「えっ、カチコミがあったのか?」


「ああ。我らが面倒を見ている花宿ヤドが襲われた。死人も出ている」


 花宿とは極道社会における隠語のひとつで、売春婦を抱える娼館ないし風俗店のことを指す。聞けば、村雨組の組員が店長を務めるソープランドが大鷲会の襲撃を受け、店の嬢を含めた3名が死亡、8名が重軽傷を負ったという。


(マジかよ……こりゃ、抗争勃発じゃねぇか)


 村雨にしてみれば自分の方から仕掛けるか、もしくは防衛に徹するか、慎重に情勢を見極めて思案していたタイミングで不意討ちを食らったことになる。言うまでもなく、これは開戦を意味する。もはや後戻りはできない。


「奴らは私の子分と女を殺し、店をさんざん荒らした後で、かようなものを残していった。まったく、舐められたものだ」


「ん? これは……?」


 怒りで声を震わせた村雨が俺に渡したのは、1枚の封筒。そこには太い毛筆による黒文字で「問罪表」と書かれていた。さっそく、中身を確かめてみる。


 ーーー


 問罪表


 先月三十一日、村雨組は当方で本部長を務めていた笛吹慶久を中区長者町五丁目の横浜ロイヤルホテル駐車場内で刺殺し、それを藤島茂夫会長の仕業と見せかけることで大鷲会内の不信と混乱を煽り、組織の分裂および内部抗争を誘発せしめた。


 これに飽き足らず、今月八月十九日未明には中区太田町二丁目の路上で藤島会長を背後から拳銃で襲撃し、意識が戻らぬ深刻な傷を負わせるに至った。


 以上は渡世の理を無視した任侠精神に悖る暴挙であり、断じて許すことはできない。従って、我々は本日より村雨耀介および村雨組に対して断固たる決意で報復に出ることをここに宣言する。


 一、村雨組の解散および組長の渡世引退


 一、一連の襲撃事件の実行犯である麻木涼平の身柄引き渡し


 この二つが満たされない限り、我々は総力を挙げて行動し続ける。


 平成十年八月二十日 大鷲会若衆一同


 ーーー


 読み終えた瞬間、腰が抜けそうになった。


「おっ、おい! これって!?」


「ああ。笛吹の件も藤島の件も、どちらも涼平が下手人だと書かれているな。要は、連中に情報が漏れたということだ。後者については厳密には清水の所業だが、奴がこの世に居ない以上はお前から落とし前を取るほか無いのであろうな」


「マジかよ……」


 書状を村雨に返し、俺は頭を掻きむしる。


 想像していたよりも、事態はずっと深刻のようだ。全面戦争に突入してしまっただけなら未だしも、俺自身が敵の標的マトになっているとは。腹を空かせた猛獣が行き交う大草原に1人で放り出されたような心地だった。


 特に怖いだとか不安だとか、そういった感情の類は一切湧き上がって来ない。ただ、自分を取り巻く情勢があまりにも最悪すぎて、どうすれば良いのか分からなくなった。「絶句する」とは、まさにこうした状態のことを云ふのだろう。


「……」


「これを読んだ瞬間、私は内通者が誰であったのかをすぐに悟った。お前が笛吹を殺しに行ったことを知っていて、尚且つ藤島を殺すよう清水を唆した者だ。そして、その者はここ数日で、かなり怪しい動きを見せている。『内通者は自分です』と名乗り出んばかりにな!」


 苦虫を嚙み潰したような表情でそう言い放った村雨は、手元にあった問罪表をビリビリと破り捨てる。その動作には凄まじい勢いが伴われていた。まるで、大鷲会との戦争に受けて立つと宣うがごとくに。


 そんな中、俺は確かな心当たりを得ていた。


 大鷲会と通じて情報を漏らし、村雨組を破滅へと追いやろうと画策している内通者。それはここ数日、俺の目にもはっきりと分かる形でおかしな行動を見せている。もう、あの男の名前しか浮かばなかった。


 菊川塔一郎――。


 彼は組長と俺しか知らないはずの笛吹殺しの真相を何故か知っていて、さらにはかつて大鷲会に恋人を殺された怨みを抱える清水に報復を吹き込んだのだ。そして挙句の果てには、組長との協議の席で自分に話題が及ぶと尻尾を巻いて逃げ出す有り様。


 どこからどう見ても、菊川しか考えられなかった。村雨組の中で俺のことを疎む者は多いが、彼の場合は常軌を逸している。隙あらば麻木涼平を陥れようとする妬心が、実に分かりやすく見え透いていたのである。


 村雨とは幼馴染みで、かれこれ20年以上の仲になるという菊川。村雨が組を旗揚げした時にはこれを支えるべく自ら若頭になることを買って出たらしいが、そんな友情に一体どこで陰りが生まれたのか。


 動機は分からないが、村雨にとっては竹馬の友に裏切られたことになる。不穏な動きを見落としていた前述の話といい、彼がショックを受けるのも無理はないと思った。その時の俺に友と呼べる者は1人もいなかったが、きっと同じ立場になれば気落ちするだろう。


「私の盃を呑んだ時、奴は『命に代えても絢華を守る』と言った。しかし、結果はこれだ。奴だけは、あの男だけは私に背を向けぬと思っていたのだがな。とんだ買い被りだった」


「……」


「まあ、嘆いていても仕方あるまい。今さら省みたところで、信じた者に裏切られた事実は変わらぬのだ。肝要なのは、これからどう動くか。もう、策は立ててある」


「……それって、どんな?」


 気持ちを切り替えるように次の話へと移った組長に同調し、俺は詳細を問う。すると、告げられたのは意外な言葉だった。


「明日、藤島を開科研に移す。奴をこちらの手元に置いておくことで、その安全の保証と引き換えに大鷲会の執行部の動きを封じる」


 村雨が立てた策。


 それは、横浜市立病院にある藤島茂夫の身柄を奪うことだった。開科研は村雨組の息がかかった医療施設であり、そこへ身柄を移すことは即ち藤島を事実上、村雨の“人質”とするに等しい。ロジックとしては、すぐに理解できた。


「……なるほど。それで『会長を殺されたくなかったら大人しく言うことを聞け』って言うわけだな?」


「ああ。大鷲会の執行部には藤島を慕う者が多い。人質にとれば、少なくともこちらに手出しは出来なくなるだろう。我々としては、笛吹一党との戦に専念できよう」


 この人質作戦によって大鷲会内の藤島体制派を無力化することができれば、横浜における村雨組の敵は本流から離反した笛吹派だけに絞られる。


 三つ巴の混戦を回避できるだけでなく、村雨組という共通の敵を前に両派が一時的に再統合する最悪の事態を未然に防げるというわけだ。


「藤島が解散届を出せなかった以上、もはやこうするしか道は無い。大鷲との戦争を無駄に長引かせては、斯波や伊東を喜ばせるだけだ。願わくば、伊東と戦う前に大鷲の兵力を取り込みたいものだが……それは流石に出来ぬか」


 しかしながら、俺には疑問も浮かぶ。理論としては単純明快なものだが、彼の作戦プランが果たして本当に実行できるのか。どうにも分からなかったのだ。


 そもそも意識の無い入院患者を一体どうやって、外へ連れ去るというのだろうか。おそらくはベッドごと持って行くのだろうが、彼のいる病室の前には警護も付いているはずだ。そう簡単に事が運ぶとは思えなかった。


現在いま、日高に必要書類を作らせている。転院を承諾する主治医の見解書と紹介状だ。開科研は医療施設ゆえ。書類さえ揃えば都合はつく」


「そ、そうなのか……?」


「問題はいかにして、穏やかに進めるかだな。いくら本人の直筆を装ったところで、主治医本人に気づかれれば確実に待ったがかかる。あと、藤島の側には大鷲会の護衛もいよう。これらをどうにかやり過ごさねばならぬ」


 かなり面倒なミッションのようである。いちおう医師免許を有した開科研の職員を同行させるとのことだが、荒っぽい事態に発展するのは避けられない気がする。組長が決めたからには、何であれ従うしかないのだが。


「涼平。お前には大鷲会の護衛を引きつけてもらう。殺さずとも良い。適当に拳を交えて、藤島を連れ出すまでの時を稼ぐのだ。出来るな?」


「……やるだけやってみるよ」


「うむ。よろしく頼むぞ。では明日、昼過ぎにこの公園に来い。此度の作戦、組の中では私とお前しか知らない。身内に間者が紛れ込んでしまった以上、もはや下の連中を頼ることは出来なくなったのだ。良いな? 決して誰にも明かすなよ? 明日は実質、私とお前だけの戦いになる」


「う、うん! もちろん。分かってるって」


 内通者は誰か? 村雨はその晩、最後まで実名を語ることは無かった。しかしながら、言われずとも分かった。話の内容を聞く限りでは菊川しか考えられない。語られた内通者の特徴と一致する人物が、俺の中では奴の他に見当たらなかったのだ。


 敢えて実名を教えてくれなかったのは、きっと村雨の中で未だ親友に裏切られた落胆が大きく「信じたくない」と思う部分があったからなのだろう――。


 そう解釈して、自分を納得させた。チンピラ未満の俺に出来ることは、組長が考えた通りに動く事だけなのである。幸いにも、彼からは信頼と期待を寄せられているのだ。ならば、それに応えてやろうではないか。どんな事があっても乗り越えてやると心に決め、コクンと静かに頷いた。


「よし。では、帰るとするか」


 立ち上がった村雨の後に続き、屋敷へと続く帰路を歩き出す俺。ふと見上げた空では、どんよりとした黒い雲が星を覆い隠していた。

次回、第6章衝撃のラストです。

お見逃しなく!

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