とある芸能人の醜態
1998年5月12日。
横浜で、金のためだけに暴れ続ける日々に慣れてきた頃。いつものように廃工場へ顔を出した俺に、高坂が言ってきた。
「今日、ちょっとしたパーティーがあるんだけどさ」
アルビオンの活動の1つに、イベントの主催があった。市内で大型の飲み会をセッティングし、参加者から会費を徴収する。
高坂はそれら全般を“パーティー”と呼んでいたのだ。
合コンも兼ねた趣旨で開催されるので毎回の参加者は多く、調子の良い時には1日に100万円以上の売り上げを叩き出すこともあるらしい。また当時は、ナイトライフの主流がディスコからクラブへと移行していった時期でもあり、新感覚の刺激を求めて連日連夜、若者が夜の街に繰り出していたものだ。
俺自身、参加したことは無かったが興味は持っていた。
「どこでやるんだ?」
「福富町のマーキュリーって店。もしも良かったら、涼平も出てくれないかな? 参加費は僕が持つから」
「ああ。もちろん、いいぜ」
ふたつ返事で快諾した。ところが、今回はいつもとは事情が違うらしい。
「今夜、来るお客さんはいつもみたいな一般人じゃなくて、それなりにお金を持った人。だからマーキュリーには、少し無理を言ってVIPフロアを使わせてもらうことになったんだ。普通のフロアに比べたら若干、手狭だけど」
「ほう。それはすげぇな」
日が暮れるまで適当に時間を潰した後、俺は高坂と一緒に店へ向かう。既にメンバーが大まかな準備を済ませており、あとは客を迎えるだけという状態であった。事前に書いたと思われる予定表を見ながら、高坂が確認を進めていく。
「何をかけるの?」
「ユーロビート」
「うーん。レイヴに変えた方が良いなぁ。 ゲストの好みと違うから」
彼は細かく、隅々までチェックの目を入れていた。いつもの飄々とした態度からは考えられないほどにせわしなく、落ち着かない様子である。客に対して1ミリの粗相もあってはならない、と気を遣っているのが分かった。
単なる金持ち客相手にどうして、そこまで慌てるのか――。
高坂とは対照的に軽い考えの俺だったが、やがて午後9時を迎えた頃に現れた“ゲスト”の姿を見て、度肝を抜かされた。思わず声が出てしまう。
「えっ!? あれって……もしかして」
隣にいた高坂が、コクンと頷く。
「ああ。俳優のSさんだよ」
そう言うと、彼は入ってきたゲストの元へ歩み寄って軽く礼をすると、丁寧にVIPルームへと先導し始める。
(凄い……本物じゃないか!)
Sは当時、日本人離れしたスマートな容姿で絶大な人気を集める若手俳優で、その年に放送された学園ドラマでは主演を務めていた。そんな大物芸能人と、所詮は一介の大学生でしかない高坂に、いったい何の接点があったというのか。両者は笑顔で語らいながら、VIPルームへ続く階段を昇っていった。遅れないよう、俺も後に続く。
「それじゃあ、今日はSさんが来てくれたということで。パーッといこう!!」
2階の専用フロアに着くと、高坂の合図で宴が始まる。これもまた彼が、事前に手配していたのだろう。ソファに座ったSの両脇に、艶めかしい2人の女が腰を下ろした。
「どうも~。エリカで~す」
「マナミで~す」
2人ともチューブトップにショートパンツという、きわめて露出度の高い服装をしている。
「Sさんを酔わせちゃおっかな~」
まるでキャバクラ嬢のような言い回しで、エリカと名乗った女はSの持つグラスにシャンパンを注いでいった。
「よおし! 望むところだ!」
Sは、注がれた酒をグイッと一気に飲み干した。その瞬間、左右の2人が黄色い歓声をあげる。
「キャ~! Sさんカッコいい!!」
「さっすがぁ! 男前ですね~!」
夜の街で働く女特有の、取って付けたような美辞麗句。きっと、相手が肥満体の中年男性であっても同様に褒めるのだろう。最も、Sの場合は本当に“男前”なのだが。俺は少し呆れながら、部屋の入口付近に座っていた。
「さあ! みんなも飲んでくれよ! 今日は俺の奢りだ!」
やがて、パーティーの参加者全員にSから酒が振る舞われる。彼の奢りということもあってか、口をつける前に皆が「いただきます」と一言添えているのが見えた。近くにいた高坂に尋ねてみる。
「なあ、このシャンパン。いくらするんだ?」
「せいぜい1万円前後だよ」
当時はビールしか飲んでいなかったので、1万円という価格にピンと来ない。
「高いのか安いのか、分からないな……」
「安いんだよ」
「そ、そうなのか?」
「うん。それも、この店に置いてる酒の中でいちばん安い」
初めて味わうシャンパンの味に戸惑う俺だったが、安いと聞かされてしまえば途端にチープな風味がしてくる。高坂は苦笑しながら、他に漏れぬよう小声で囁いた。
「あいつ、筋金入りのケチなんだよね。いっつも自分のためにしか金を使わない」
テレビで見かけない日は無い人気者のSに、そのような一面があったとは。一方、当の本人は上機嫌にグラスを傾けていた。エリカとマナミに囲まれて、その頬が赤みを帯びている。
「え? なに? おっぱい揉んじゃダメだって? いいじゃん、ちょっとくらい! えへへへ!」
「もぉ~。最低!!」
「Sさんのエッチ~!」
美女達を前に卑猥な言動を取った上で、下品な笑い声をあげる彼を見た俺は、少し引いてしまった。そこにあるのは、爽やかなイケメン俳優の姿ではない。単なる酔っ払いの姿だ。この短い時間でどれだけ飲んだのか、Sの目は完全にすわっていた。
(こんなSは見たくなかったな)
ため息をつく俺。そこには失望が混じっていた。来なければ良かったとさえ、思った。だが、そんな俺を励ますかのように高坂が再び囁く。
「まあ、芸能人なんて所詮、あんなもんさ。ちなみに今日、僕が彼を呼んだのには理由があってね。実は……」
その時、Sが大きな声を上げた。
「よし! アレだ! アレやるぞ! マイク持って来い!」
どうやら、カラオケを歌い始めるつもりのようだ。高坂の声はかき消された。
「それじゃあ、俺のオハコ。魂の叫びを聞けっ! ユワッシャ~!!」
Sが選んだのはアニメソング。もともとキーが高い曲ということもあって、お世辞にも上手いとは言えない。それでも、エリカとマナミは笑顔で手拍子をしながら合いの手を入れた。そして曲が終了すると、立ち上がって笑顔で拍手をする。
「Sさん! 流石ですぅ~!」
典型的な作り笑いだ。しかし、彼女たちが立ち上がったのにつられるかのように、その場にいた皆も次々に立ち上がって拍手をしていく。まさしく、スタンディングオベーションだ。
ここは空気を読まなくては――。
気乗りしなかったが、やむなく俺も同調する。全員の拍手を受けたSは、すっかりご満悦といった様子であった。
「いやぁ、照れるなぁ。久々に歌ったから緊張しちゃったよ。あはは」
熱唱したカラオケの後でVIPルームの中を包んでいた歓声が少し落ち着いてくると、俺はすぐに高坂に問うた。
「なあ、教えてくれよ。さっきは上手く聞き取れなかったんだ」
「ん? 何が?」
「どうしてアイツを呼んだのかってことだよ」
質問を受けた高坂は、ニヤリとした。
「ああ。そういえばそうだったね。でも、説明するより……生で見てもらった方が早いかもしれないよ?」
妙に含みのある言い方に、俺が違和感を覚えたその時。
「ちょっと失礼」
部屋に男が入ってきた。アルビオンのメンバーだ。
「……例の物を持ってきた」
その男は高坂に、クリーム色の小さな紙袋を渡す。
「うん。ご苦労様」
高坂はそれを受け取ると、部屋の中央に座っていたSの元へ近づいて行って、静かに差し出した。
「Sさん。ご要望通り、お持ちしましたよ」
「お、 来たか!」
「はい。かなり、質が良い品です。ご賞味ください」
「マジで? 楽しみだわ~」
紙袋を開けたSは中から何かを手に取り、うっとりとした目で眺めていた。
(ん……何だ……?)
室内の照明が少なく薄暗かったので、はっきりとは見えなかったが、それはチャックの付いた透明な小袋で、灰色の錠剤のようなものが3つ入っている。
(あれは……胃薬か?)
しかし、Sは特に腹を下したようにも見えない。
「これをやりたかったんだよねぇ~。じゃないと、わざわざ横浜まで来た甲斐が無いよ」
Sは取り出した錠剤を口に入れると、テーブルの上にあったペットボトルの水で一気に流し込んだ。気になったので、戻ってきた高坂に尋ねる。
「あの薬は何だ?」
「あれはね。MDMA」
「エムディー……何じゃそりゃ」
今までまったく聞き覚えの無い、完全に初耳の単語だった。高坂はにっこりと笑いながら、一言で答える。
「麻薬だよ」
俺の頭の中で、1つの単語が縦横無尽に駆け巡る。
麻薬――。
まっとうに生きていれば、ニュースでしか耳にしないであろう語句。今まで目にした経験は無いが、自分の中で何となく「やってはいけないもの」という認識はあった。しかし、あくまでも「やってはいけないもの」であって「絶対にダメなもの」ではない。未成年のうちにタバコや酒に手を出す行為と一緒だと思っていた。
目の前でSが服用したエクスタシーについて、高坂は語り始める。
「その名の通り、気持ちを昂らせる薬でね。1回につき1錠を飲むと、15分くらいで効果が表れる。嫌な事や、モヤモヤした事、悩んでいる事を忘れるにはピッタリなんだよ」
後になって分かった事だが、エクスタシーは合成麻薬と呼ばれるドラッグだ。高坂が説明した通り、人間の感情を増幅させる効果がある。当時は未だ一般的に名前が知られていなかったが、00年代に入ってクラブシーンで流通するようになった。
一方で身体への負担も多く、服用した人間が死亡するケースも多いと聞く。錠剤を流し込むのに酒ではなく、わざわざミネラルウオーターを使用するのも、アルコールとの過剰な融和反応を避けるためだと高坂は説明していた。
「ふーん。薬を飲んだだけで気持ちがどうにかなっちゃうのか。何だか信じられない」
俺は懐疑的であった。だが、ふと部屋の中央にいた高坂に視線を移してみると、変化は一目で分かった。
「えへへ。俺、みんなのこと大好きだよォ~」
見るからにテンションが上がり、先ほどにも増して陽気になっているではないか。俺は小声で、高坂に問うた。
「……あれがエクスタシーとやらの効果か?」
「うん」
一連のSの変化を目の当たりにした俺は、狐につままれたような顔になっていたと思う。
薬を飲んだだけで、ここまで変わってしまうとは――。
それまで自分の中において「薬」とは、体調が悪くなった人間が飲むものという認識であった。
「とんでもない変化だなぁ……」
「だろ? 苦労して仕入れた甲斐があったというものだよ」
そう言って立ち上がった高坂は、すっかりハイになったSの前に歩み寄る。
「どうです? ご気分は」
「うへっへへへ。最高だよ……もう、さいっこう!!」
「そうでしたか。お楽しみいただけているようで、光栄です」
「あっ、 そうだぁ! 代金なんだけどォ。いまここで払ってもいいかなー?」
笑顔で頷く高坂。
「もちろん。構いませんよ」
すると、Sは着ていたジャケットの懐から1枚の紙切れとペンのようなものを取り出し、テーブルに置いた。
「ここに好きな額を書き込んでくださーい」
「ありがとうございます。では、遠慮なく」
高坂は軽く一礼すると、そこにペンで何やら数字を書き込んだ。詳細には視認できなかったが、彼の書く文字は丸みを帯びている。
「頂戴いたしますが、よろしいでしょうか?」
「だいじょーぶよォ!!」
「ありがとうございます」
Sと握手を交わし、高坂は戻ってきた。俺はストレートな質問をぶつける。
「その紙切れは何だ?」
「ああ、これは“小切手”といってね。僕がSさんの口座からお金を引き出す権利を得るための、チケットみたいなものだよ。書き込まれた分だけ、引き出せるのさ」
この時、俺は小切手という証書の存在を初めて知った。
「へえ。すげえな。そんな紙切れがあったなんて知らなかった。ちなみに、いくら分を書き込んだのか?」
「30万円」
「それって高いのか? 安いのか?」
「高くも安くもない。まっとうな価格だよ」
先ほどのシャンパン同様、俺はエクスタシーの値段の相場が分からなかった。高坂に教えられ、初めて理解できた。違法な物品であるエクスタシーはともかく、小切手は本来、中学3年の公民の授業で教わるもの。
(俺って、ぜんぜん世間知らずなんだな……)
改めて実感した。振り返ってみるとそれまでの俺の人生は、勉強という勉強を殆ど放棄して過ごしてきた。知らなかったのも当然だ。
そんな自分にひきかえ、高坂は知性にあふれている。きっと、豊富な知識の量を有していることだろう。勉強してきた者と、してこなかった者との差であることは言うまでもないが、考え始めると切なくなってしまう。
彼のように博識で、頭の良い人間になりたい――。
そう、素直に思った。