アドルフに告ぐ その1
すっかり辺りが闇に包まれ電柱の裸電球が灯る頃、治美たちはエリザのお屋敷に向かった。
駄菓子屋をしている雅人の家とは道を挟んだ反対側に白いモルタルの壁がずっと続く。
これがすべてエリザのお屋敷の壁だった。
アーチ型の鉄製の門を開け、敷地内に一歩足を踏み入れると、そこには芝生を敷き詰めた広大な庭が広がり、白い木造の西洋館が建っている。
「ふわあ~~~!!」
治美は口をあんぐりと開けてエリザの邸宅を見回した。
雅人はもう幼い頃から見慣れていたが、初めてここを訪れた客は皆同じような顔をする。
天井からシャンデリアがぶら下がった応接室に通され、雅人と治美の二人っきりで待っていると彼女がコソコソと小声で話しかけてきた。
「ねえねえ、おじいちゃん………?」
「おじいちゃんは止めてくれ!」
「じゃあ、雅人さん」
「なんだ?」
「雅人さんみたいな駄菓子屋のこせがれが、よくこんなお金持ちの令嬢と知り合いになれたね?」
「お前、駄菓子屋を馬鹿にすんなよ!俺たちは小さい頃からの幼馴染だったからな。近所の中山手カトリック教会が幼稚園を運営していて、そこで同じクラスだったんだ」
「ああ!そう言えば私の時代でも中山手に立派な教会ありますね。あそこ昔は幼稚園だったんだ」
「エリザは目立つ外見をしていたからよく苛められていたな。俺はご近所さんだからそのたびに助けてやっていたのさ」
「へぇ!あのおばあちゃんがイジメられたの。今からは考えられないね」
「戦後、強くなったのは女と靴下というけど、いつからあんなキツイ性格になったのやら?」
「なーに、ぜいたく言ってるのよ!ツンデレの幼馴染の女の子ったら最高じゃん!」
「ツン…何だって?お前なあ、年齢は同じだが、俺はお前の祖父なんだろ?言葉使いに気をつけろ!」
「はーい!全く、昭和の人間は細かいことにうるさいですねぇ」
「あと、人を年寄り扱いするな!」
治美は雅人の抗議も無視して、応接室に飾られた高そうな調度品を眺めている。
「ねえねえ、雅人さん………?」
「なんだい?」
「あの壁にかかったライフル銃、もしかして本物ですか?」
「ニセ物飾ってもしょうがないだろ。弾は抜いてるが本物だよ」
「じゃあ、その横にある鹿の首も本物?」
「ああ。エリザのお父さんがあのライフルで仕留めたそうだ」
「へぇー。あんなアニメに出てきそうな壁飾り、生まれて初めて見たわ」
「初めて見た………?ということは未来世界ではここは……」
「ここってマンガに出てくるお金持ちのお屋敷そのものですね!もしかして、執事とかメイドとかいたりして………」
「いるよ」
「えっ!?ホント?」
「岡田さんという近所の中年主婦が通いのお手伝いさんをしている。あと横山さんという住み込みの番頭さんもいるぞ。二十歳そこそこの物静かな青年だ。二人ともエリザの両親が仕事でいない間、彼女の身の回りの世話をするために雇われているんだ」
「おおっ!異人館って、昔は本当にお金持ちの異人さんが住んでいたんですね!」
「未来の世界では誰が住んでいるんだい?」
「――住んでる人はいないと思いますよ。観光地ですから。このお屋敷は確か結婚式場になっていましたね」
「へぇ………。じゃあ、俺んちは?」
「雅人さんの家………?どうだったかしら?わたしみたいな地元の人間はわざわざ異人館通りなんか行かないからよく知らないんですよ。手塚先生の『アドルフに告ぐ』って名作の舞台だから、一度だけ聖地巡礼に来たぐらいです。『アドルフに告ぐ』というお話は、第二次世界大戦の前後のドイツと日本を舞台に、三人のアドルフという名前を持つ男たちの数奇な運命を描いた歴史長編で…」
「なあ、未来世界では俺はどこに住んでいるんだ?」
「雅人さんは……」
その時、エリザが応接室に入ってきた。
彼女の後から割烹着姿の家政婦岡田とスーツ姿の番頭横山も部屋に入ってきた。
「いらっしゃいませ」
岡田が治美の前に紅茶を差し出した。
「――――なんだ、メイド服じゃないのか……。ツマンナイ」
割烹着姿の岡田を見て治美がポツリと残念そうにつぶやいた。
「はあ?」
岡田さんが目を剥いて治美の方をにらみつけた。
「お嬢様。こちらの金髪の娘さんはどちら様ですか?」
横山は掛けていた眼鏡をクイッと指であげ、鋭い眼光で治美を見た。
「手塚治美、17歳。ちょっと頭のおかしい娘や。もう二度と来んから気にせんでええよ」
「ええーっ!おばあ……エリザさん!冗談やめてよ!」
治美が大慌てで抗議の声を上げると、エリザは可笑しそうに笑った。
「手塚さん?雅人君と同じ名字ですね。ご親戚ですか?」
横山が明らかに不審者を見る目つきで尋ねた。
「―――たまたま同じ名字なだけでまったくの赤の他人や。治美はうちの友達や」
「とてもお綺麗なお嬢様ですね。僕は当家を取り仕切っております横山と申します。以後お見知りおきを」
横山は気取った口調でうやうやしくお辞儀をした。
横山はいつもは他人と距離を置き、黙々と仕事をしている物静かな青年だった。
その横山がじっと治美に熱い視線を送っている。
(こんな横山さんを見るのは初めてだ。もしかして一目惚れか?保護者としては、治美に悪い虫が付かないように気を付けないといけないな)
雅人は心中穏やかではなかった。
「それでこの娘はうちでしばらく預かることにしたからよろしく!」
「お嬢様。旦那様がご不在の時にそんな勝手をなさってよろしいのですか?」
露骨に迷惑そうに岡田が顔をしかめた。
「ええからええから!どうせパパ達は当分帰ってこないし、部屋なら一杯余っとるやろ」
「困りますわ。勝手なことをされると私が旦那様に叱られます」
「ちゃんとうちが世話するから、この娘をおいてあげてぇな」
「猫を飼うのとは違いますからねぇ…」
「治美は住むところもないし、家族もおらん可哀そうな子なんや」
「私は知りませんからね!」
そう言うと岡田は応接室を出て行った。
「フーンだ!」
エリザが舌を出して岡田の背中に向かってあっかんべーをした。
「治美さんも戦災孤児なんですか?」
横山が急に話に割り込んできた。
「まあ、そんなもんや。そう言えば横山もそうやったな。横山は二年前、長田の街を裸足で歩いてるとこ、うちのパパに拾われたんやで」
「はい。旦那様には大変感謝をしております」
「だったら横山、なんとかしてくれへん?」
エリザは番頭の横山に手を合わせてお願いをした。
「そうですねぇ……」
横山はスーツの胸ポケットから「Shinsei」と書かれた煙草とマッチを取り出した。
横山は煙草を一本くわえるとマッチで火をつけた。
「わあ!タバコ吸ってる!?」
治美はいきなり煙草を吸い始めた横山を物珍し気に見つめていた。
「物置にしている屋根裏部屋はどうですか?少し片づけたら十分住めますよ」
そう言いながら横山は紫煙を吐き出した。
「ゲホッ!ゲホッ!ゲホッ!」
周りに喫煙者がおらず、煙草に慣れていなかった治美が堪らず咳き込みだした。
「治美!屋根裏部屋でもええなら部屋貸したるわ!」
「あ、ありがとうございます!」
治美が慌てて立ち上がって、エリザと横山に向かって深々とお辞儀をした。
「横山!それじゃ二人で屋根裏部屋片づけよか!」
「はい。お嬢様」
エリザは横山を連れて応接室を出て行こうとしたが、治美が呼び止めた。
「エ、エリザさん……」
「ん?なんや?」
「こんな立派なお屋敷に住まわせてもらえるなんて夢見たいです!」
「礼はいらん。下宿代はきっちり払ってもらうからな」
「え~~~~~!?お金、とるの?」
エリザ達の姿が見えなくなると治美は雅人にぼやいた。
「普通、孫からお金取りますか?お小遣いくれるのが本当でしょ!やっぱりおばあちゃんドケチだわ!」
「まあな、貿易商の娘だから昔から金勘定はしっかりしてるよ。未来のエリザもケチなのか?大変だな」
「なに言ってるんですか?一番苦労してるのはあの人の旦那さん、つまり雅人さんなんですよ!」
「…………………」
手塚雅人は若干17歳にして、将来の夢も希望も打ち砕かれるのだった。