フィルムは生きている その1
1958年、昭和33年の年末、治美は並木ハウスの仕事場が手狭になったため都内渋谷区代々木初台に転居した。
新しい仕事場は京王線初台駅から徒歩5分位の住宅地に建つ立派な一軒家だった。
治美はマネージャーとなった雅人と二人でこの家で暮らしていた。
とは言え一階の応接間には連日連夜原稿待ちの大勢の編集者が泊まり込み、二人きりになることはけっしてなかった。
二階には編集者は上がることはできず、編集者と二階の仕事部屋にいる治美との連絡のやり取りは雅人の仕事だった。
雅人は二階にある治美の部屋の襖をトントンとノックした。
「先生。開けますよ」
返事を待たずにそのまま雅人が襖を開けると、治美が畳の上にうつぶせに寝転びながら漫画を描いていた。
治美は必死にペンを走らせながら尋ねた。
「下の様子はどう?編集の人、怒ってる?」
「みんなで麻雀して時間をつぶしているよ。後で俺が夜食を作って食べてもらうさ」
「ご機嫌を取っていてね」
「それじゃあ、できた分の原稿を持っていくぞ」
「お願いします」
雅人は畳の上に散乱した原稿用紙を拾い集めて部屋を出た。
そして、二階の別室にあるアシスタントたちの仕事部屋に入っていった。
仕事部屋には座敷机が並べられて常時6人のアシスタントが待機していた。
東京出身の高峰よし子や鈴木恵子のように通いのアシスタントもいたが、大半は治美が近所に借りたアパートで共同生活をしていた。
「安村、原稿ができて来た。みんなに振り分けてくれ」
「はい。先輩」
雅人はチーフアシスタントの安村に原稿を手渡した。
安村は雅人の高校時代の後輩で神戸で治美のアシスタントをしていた男だ。
そのため未だに雅人のことを「先輩」と呼ぶ。
雅人の後輩だった安村、藤木、赤城の三名は、高校卒業後漫画家になることを目指して上京した。
しかし彼らは残念ながら独り立ちして漫画を描いていけるだけの才能には恵まれなかった。
彼らは漫画家になることを断念し、当時はまだ珍しかった専任のアシスタントの道を選んだ。
安村は作画能力が突出していたため、治美のもとでチーフアシスタントになった。
そして治美の紹介で赤城は横山光輝こと横山浩一の、藤木は藤子不二雄こと金子俊夫のもとでそれぞれアシスタントをしていた。
「ひい、ふう、みい…。よし、このペースなら間に合いそうです」
安村は原稿を一枚一枚確認して、それぞれの場面に応じて得意なアシスタントに振り分けた。
「みんな、今日は月に一度の月刊誌の締め切りの夜だ。今夜を乗り切ったらしばらくは休めるぞ。頑張ってくれ!」
雅人がアシスタントたちを励まし奮い立たせた。
雅人は自分で作ったおでん鍋を一階の応接間で麻雀をしている編集者たちの所に持っていた。
「みなさん、お疲れ様です。どうぞ、お召し上がりください」
「おおっ!うまそうだ!」
「いただきます!」
雅人の手料理は編集者の間でも好評だった。
彼はもともと上京してからずっと自炊をしていたので料理は慣れたものだった。
編集者たちが麻雀卓の上でおでんを食べていると、廊下の方でチリンチリンとベルが鳴る音がした。
「おっ!できたようです」
雅人は大急ぎで廊下に出ると、二階に続く階段の下に行った。
階段には二階と一階の間に紐が張られており、出来た原稿は洗濯ばさみに挟んでその紐を伝って一階に滑り落とすようにしていた。
そして、一階に原稿が滑り落ちて来るとベルに当たって鳴る仕組みだった。
いつも治美の原稿は締め切りギリギリだったので、階段の上り下りの時間さえ惜しかったのだ。
雅人は完成した原稿を応接室に持って行き、それぞれの担当者に手渡した。
編集者は原稿の枚数を確認すると、大慌てで出版社へと戻っていった。
「やれやれ今月もなんとか乗り切ったな」
雅人は一人応接室のソファーに座り、残ったおでんをつまんでいた。
すると、「お腹すいたあ!」と治美が顔を覗かせた。
「おでん、食うか?」
「うん!」
治美は雅人の正面に座るとおでんを小皿に取り分けてもらった。
「安村たちはどうしてる?」
「仕事場で寝てる」
治美はおでんを頬張りながら答えた。
「お前は寝なくていいのか?」
「うーん、今日は大事なお客さんが来るからなあ…」
雅人は応接間に置いてある飾り時計を見た。
「まだ、朝の七時じゃないか。来客まで三時間は眠れるぞ」
「そうね。じゃあ、おやすみなさい」
そう言うと治美はソファーに腰かけたまま目を閉じ、すぐに寝息を立てた。
どこでもすぐに眠れるのが治美が漫画家生活で身に着けた悲しい特技であった。




