ぼくのそんごくう その5
「久しぶりやね!治美!」
「会いたかったよう!おばあ……エリザさん!」
兵庫県神戸市の北野町山本通り、後に北野異人館街として広く知られるようになる西洋式の住宅が立ち並ぶ通り。
その反対側に建つ駄菓子屋の店先で治美とエリザは抱き合った。
この手塚雅人の実家で治美とエリザは半年ぶりに出会ったのだ。
治美とエリザがハグを交わし頬にキスをしているところを雅人と新井は苦々しい思いで見つめていた。
「せっかくここまで来たんだから、ちょっと神戸の実家に寄らせてよ」
そう手塚先生にせがまれて新人編集者の新井はダメだとは言えなかった。
せっかく捕まえたのに下手に先生の機嫌を損ねては原稿を描いてもらえなくなる。
遠い親戚だという青年、手塚雅人がこんこんと彼女に説教をしていたがまったくこたえていないようだ。
結局二人とも根負けして一緒に京都から神戸へとやって来たのだった。
「ここは君の実家なのかね?手塚先生の実家じゃないのかい?そもそも君と手塚先生とあのエリザという女性、3人はどういった間柄なんだい?」
雅人の実家の茶の間で出された湯飲みのお茶を飲みながら不思議そうに新井が雅人に尋ねた。
「まあまあ、深く考えないで下さい」
雅人はそう言って愛想笑いを浮かべながら新井に瓦煎餅を差し出した。
「それでね、聞いてよエリザさん!わたしの目の前に漫画本を積み上げて火をつけて燃やしたのよ!信じられないでしょ!」
治美が口から食べかけの瓦煎餅の粉をまき散らしながら憤慨している。
「みんな漫画なんか読むと子供がバカになるっていうのよ!漫画だけじゃなく漫画家をバカにしているのよ!!」
治美が珍しく興奮して声を荒げてエリザに対して愚痴をこぼしている。
「何の話です?」
雅人が新井に尋ねると新井は暗い表情で首を横に振った。
「ご存じでしょ?悪書追放運動…」
「ああ。『日本子どもを守る会』とか『母の会連合会』が子供向けの漫画を批判している運動ですね」
「手塚先生は漫画界のリーダーですからいつも矢面に立たされているんですよ。この前は遂に先生の漫画本を小学校の運動場に積み上げて子供たちの手で火をつけて燃やさせたんですよ」
「そんなひどいことまでするんですか!?どうしてそこまで騒動がエスカレートしたんですか?」
「私らも訳がわからないんですよ。PTAだけじゃなくてマスコミや警察まで一斉に漫画を敵視して無くそうとしているんです」
雅人はふといつかの横山とのヨタ話を思い出していた。
何かこの世界に漫画を流行らせたくない勢力が存在し、治美たち未来からやって来た勢力の邪魔をしているのではないだろうか。
この頃、東京のPTAが始めたエログロ雑誌を「見ない・買わない・読まない」の「三ない運動」は子供向け漫画を標的として全国に広がった。
エプロンやかっぽう着姿の女性たちが何万冊もの漫画や雑誌を燃やす様はさながら魔女狩りのようであった。
「それでこの前ラジオの討論会に出て小説家のジジイと戦ったのよ」
「ほう!よくあんたがそんな討論会にでたな?」
「しょうがないでしょ。せっかく芽生え始めた漫画の芽を摘まれてたまるものですか!」
「なんていう小説家や?」
「そんなの忘れちゃったわよ!何とかいう賞を取ったお偉い純文学者なんだって!」
「そんでその小説家は何て言うたんや?」
「漫画みたいな低俗な物を描くのは止めろ!どうせ漫画なんてすぐに廃れてしまう子供だましのお話だって!だからわたし、そのジジイに聞いたのよ。あんた、どんな小説書いてるのよって?」
「ほんで?」
「タイトル聞いたけどわたしの知らない小説だったわ。そしたらそのジジイ、漫画家なんて物知らずの無知な人間ばかりだって笑うのよ」
「ほんで?ほんで?」
「それでわたし、言ってやったの。あんたの書いた小説なんか、あと五十年もしたら誰も読まないし、あんたの名前も誰も知らなくなってるわ。でも手塚治虫の名前は五十年後の世界でもみんな知っていて、みんな手塚治虫の漫画を読んでいるわ!」
「あちゃあ!あんた、えらいこと言っちゃたわね!」
「だって本当のことなんだもの。そしたらそのジジイ顔をタコみたいに真っ赤にして、漫画みたいな低俗な物、いずれ滅んでこの世から消え失せるぞ!って怒鳴るのよ」
「あんたは何て言うたんや?」
「消えるのはそっちの方よ!未来世界では、あんたたち純文学者は漫画家が稼いだ印税のおこぼれ貰って細々と出版界の片隅で生きていくのよって!」
雅人はこっそりと新井に尋ねた。
「手塚先生が言っているお偉い純文学者って誰のことなんですか?」
雅人は新井からその名前を聞いて顔面蒼白となった。
芥川賞の選考委員を何十年も務めている文学界の重鎮だった。
一方、言いたいことを言ってスッキリした治美は、楽しそうにエリザと雅人の母親と談笑している。
この二年、治美はすぐに未来世界に戻れると思って毎日毎日漫画を描いてきたのだが一向に戻れそうもない。
そのうえ悪書追放運動で世間から非難され、ストレスが溜まっていたのだろう。
(実家に逃げたくなったのも無理がない。ここはひとつ保護者として優しく見守ってやろう)
そう考えて雅人が暖かい眼差しで治美を見つめていると、急に彼女が思い出したようにエリザに言った。
「そうそう!こうしちゃいられないわ!そろそろ出かけるわね」
「何や泊まっていかへんのか?」
「今度ね、西日本の新聞社で『黄金のトランク』って絵物語を連載するのよ。でもね、全然描けてないので描き貯めしてくれって頼まれてるのよ。だからこれから博多に行くわね」
「は、博多ですって!?手塚先生、話がちがうじゃありませんか!」
慌てて新井が治美の腕にすがりついた。
「もう新聞社に博多の旅館を取ってもらっているのよ。向こうで新井さんの原稿も描くからついて来なさいよ」
治美は雅人に向かって手を合わせた。
「絵物語だから文書を一杯書かなきゃならないの。行きの汽車の中でわたしが喋るから、雅人さんは昔みたいに口述筆記してね」
雅人は両手の握り拳を固く握りしめた。
「お、お前!最初からそのつもりだったな?」
治美はスクッと立ち上がって、気持ちよさそうに大きく背伸びをした。
「汽車の旅はいい気晴らしになるわ。雅人さんも一緒だし楽しい旅行になりそう」




