ぼくのそんごくう その1
昭和32年1月17日、木曜日、仏滅。
その夜も東京都豊島区雑司が谷の 鬼子母神堂 にほど近いアパート、並木ハウスの六畳間には六人もの人間が詰め込まれていた。
手塚治虫こと手塚治美と彼女の新しいアシスタントの高峰よし子と鈴木恵子、そして三名の原稿待ちの雑誌編集者たちだった。
編集者たちは治美の原稿ができるのを待って十日間もずっと泊り込んでいた。
彼らは全員会社にも家にも帰らずこの狭い六畳間でじっと原稿ができるまで治美を見張っているのだった。
治美の担当の編集者は「手塚番」と呼ばれ、毎月治美の原稿を取るのだけが唯一の仕事だった。
治美の描く手塚漫画は人気絶頂で、どの雑誌も治美の原稿を載せることが売り上げアップにつながるのだった。
だからどこの雑誌社も治美の原稿をもらうために血眼になった。
自分のところの原稿さえもらえたらよその原稿なんか落としても構わない。
そのため毎月十人の手塚番の編集者たちは原稿をもらうための順番会議を行っていた。
原則的には雑誌の発売日順だが、色ページだと締め切りが先になるし、64ページもの別冊付録が突然入る時もあった。
順番会議で原稿を貰う順番が決まったら編集者が最低三人、並木ハウスで付き切りで治美を見張った。
編集者が一人だと目を離したスキにすぐに治美が逃げ出した。
編集者が二人だと、一人の編集者がいなくなるともう一人の編集者が自社の原稿を描いてもらうために治美をどこかに連れて出してしまう。
そういった訳で最低でも三名の集者が並木ハウスに泊まり込み、互いにけん制し合うのだった。
そんなピリピリした雰囲気の中、机に向かって原稿を描いていた治美が大きく背伸びをした。
「お腹すいた!わたし、カツ丼が食べたい」
治美の声を聴いてすぐにアシスタントのよし子が立ち上がった。
「出前とりますね、先生。恵子さんはどうする?」
よし子が仲間のアシスタントの恵子にそう尋ねると、恵子は今にも倒れそうな憔悴しきった顔で答えた。
「食事より眠りたい……」
「――私たちは親子丼にするね。編集のみなさんは何がいいですか?」
「ぼくはカツ丼にして下さい」
「俺、天丼!」
壁に寄りかかり、膝を抱えてボーと待っていた編集者たちが口々に言った。
突然、治美が椅子を引いて立ち上がった。
「それじゃあ、わたしは出前が届く前にちょっと出てくるわね」
そう言って治美が部屋の扉に向かうと気色ばんだ三名の編集者たちが立ちはだかった。
「手塚先生!どちらへ!?」
「銭湯に行くだけよ。もう三日も徹夜だから体中、汗でベトベトなの!」
そう言うと、治美は戸棚から洗面器と石鹸とタオルを取り出した。
「お供します、手塚先生!」
治美に逃げられては堪らないと編集者がそう言うと、治美は大袈裟に声を張り上げた。
「ヤダー!あなたたち、女湯までついて来るつもり!?」
「い、いえ!失礼しました!」
編集者はドギマギして脇に退いて治美を通した。
「本当にすぐに戻ってきて下さいよ」
三人の編集者たちは心配そうに治美に懇願した。
「やだなあ!わたしが今までに編集さんをだましたことがあった?信用してちょうだいよ」
(そう言って今までにだって何度も逃げ出したくせに!)
編集者だけではなくアシスタントたちもそう心の中で呟いたが、ニコニコと屈託のない笑顔をしている治美を前にして何も言えなかった。
「それじゃあ、ちょっと出かけてきますね!」
そう治美は明るく笑顔で言って部屋を出て行った。
そして、そのまま治美は行方をくらまして戻っては来なかった。
アパートを出るとすぐに治美は洗面器を投げ捨て、そのまま夜行列車に飛び乗って東京を脱出したのだ。
これが後に「手塚治虫の九州大脱走」と呼ばれた事件の始まりであった。




