トキワ荘物語 その1
昭和30年4月2日、土曜日。
東京都体育館で開かれた大学の入学式を終えた手塚雅人は最寄りの駅に向かった。
詰襟の学生でごった返した駅前に白いワイシャツにスラックス姿の金子俊夫が待っていた。
「お久しぶりです。金子さん」
「大学入学、おめでとう。雅人くん」
先発隊として金子が一人、東京に旅立ったのは先月の中旬であった。
金子が先発隊に選ばれたのはもともと東京出身で土地勘があるというのと、「トキワ荘」と言う名のアパートについて詳しかったからである。
金子は後から上京する治美たちのために「トキワ荘」で部屋を借りていたのだった。
雅人は金子に連れられて電車に乗ると、これから自分が住む「トキワ荘」に向かった。
豊島区椎名町に建つ木造の二階建てのアパートがこれから雅人が四年間暮らす場所だった。
二人は玄関を入ってすぐのところにあるギシギシきしむ階段を上って行った。
階段を上がるとすぐ目の前にはトイレと共同炊事場があった。
「二階にも炊事場と便所があるんですか?これは便利だな」
「共同ですけどね。もちろん風呂はありません」
二人は長い廊下を歩いて突き当りの部屋の前で止まった。
「18号」と木製の表札が掛かっている。
扉を開いて中に入ると四畳半のこぢんまりとした部屋だった。
「押し入れもあるし、窓に洗濯物も干せますね。貧乏学生の下宿には十分すぎる物件です」
「部屋代は月三千円、敷金は三万円でした。お金はもう手塚先生が支払って下さいました」
「ええ。部屋代をタダにしてくれるってのが、俺がここに住む条件ですからね」
「隣の17号室が手塚先生。そのまた隣の16号室が私の部屋です」
「横山さんや玲奈ちゃん、章子さんの部屋はどうなるんですか?」
「今月末にあと二部屋空く予定なので大家にそのあと貸してくれるように頼んでいます。玲奈ちゃん、章子さんはそこに住んでもらいます。横山さんは自分で近所のアパートを探すと言っていました」
「横山さんも一緒にトキワ荘に住まなくていいのですか?金子さんたちの世界では、このアパートは著名な漫画家たちが青春時代を過ごした漫画の聖地なんでしょ」
「横山光輝先生はもともとトキワ荘出身でなかったのでいいんですよ。それに章子さんや玲奈ちゃんは知りませんが、手塚先生はすぐにこのアパートを出てゆくと思いますよ」
「えっ!?なんでまた?治美はトキワ荘に住むことをとても楽しみしていましたよ」
「――平成生まれの少女にはこのアパートは耐えられないでしょう。手塚先生はこちらの世界に来てすぐ、エリザさんの豪邸で暮らしていましたから、昭和30年の頃の庶民の生活をご存じないですから」
「炊事場と便所が共同だからですか?それとも風呂がないから?」
「それもありますが…」
と、部屋の隅を何か黒い物が走って行った。
それを見た時、雅人は金子の言っている意味を理解した。
雅人は別に何とも思わなかったが、もしも治美がいたら大騒ぎして叫んでいただろう。
「ああ。ゴキブリが出るんですね」
「ええ。それと南京虫も」
南京虫はトコジラミとも呼ばれ、成長すると5、6ミリにもなり人間の血を吸う寄生虫である。
治美は治虫というペンネームにしているくせに、大の虫嫌いだった。




