メトロポリス その1
昭和29年10月17日、日曜日。
エリザ邸の庭に建てられたバラック小屋、通称「虫プロ」には朝から大勢の人間が集まっていた。
小屋の中には丸椅子がいくつも置かれて、横山が集めた近所の主婦が十数名一番前を陣取って座っていた。
主婦たちには雅人が用意したお菓子が配られ、みんなお茶を飲みながらわいわいがやがや楽しそうである。
そんな彼女たちの後ろには横山、安村、藤木、赤城の男性陣が申し訳なさそうに静かに座っている。
書面の壁には黒板が取り付けられており、書類を持った雅人とエリザが立っていた。
「それでは、手塚先生、お願いします」
雅人が真面目くさった顔で治美を呼んだ。
小屋の外で待機していた治美がドアを開けて中に入ってきた。
主婦たちの間から歓声が上がった。
「見て見て!サブリナパンツだわ!」
治美は腰から裾までがぴったりと体の線に沿った細身のズボンをはいていた。
映画「麗しのサブリナ」で、主演女優オードリー・ヘプバーンが着ていて世界中で流行っているファッションであった。
足元を見ると低いヒールで履き口が浅いパンプス、通称サブリナ・シューズもちゃんと履いている。
治美は映画を観るのが大好きで、昭和の勉強のためといいながら新開地の映画館に出向いては一人で映画を観ていた。
「手塚先生、素敵だわ!」
「とってもよく似合っているわね!」
主婦たちはみんなうっとりとした眼差しで治美を見つめている。
安村たちも心を奪われ、ぼうとした表情で治美を見ている。
「みなさん、今日は朝早くから集まっていただいてありがとうございます。わたしの漫画のために大勢の方がお手伝いに来てくださるようになりました。みなさんの力を借りて、わたしはこれから月に2冊のペースで単行本を発表していこうと思います」
まず治美は前列に陣取っている主婦たちに向かって話しかけた。
「みなさんには漫画原稿の部分部分の作業をお願います。ですからみなさんのことを今後『パート』と呼びます」
次に治美は安村たちに向かって話しかけた。
「あなたたち4名はチーフアシスタントです。パートの人たちのお世話もお願いしますね」
「はい!」
重圧で固くなった安村たちが気負った声で返事をした。
治美は黒板に大きく「ジャングル魔境」と「メトロポリス」と書いた。
「今月はこの二つの作品を完成させます。ひとつはI出版から依頼されているジャングル物『ジャングル魔境』。もうひとつはF書房から依頼されているSF物『メトロポリス』です。そのため二つの班を作ります」
治美が雅人に目で合図を送った。
「君たちは『ジャングル魔境』班だ」
雅人は『ジャングル魔境』の下書き原稿を安村と藤木に手渡した。
「そして君たちは『メトロポリス』班だ」
雅人は『メトロポリス』の下書き原稿を横山と赤城に手渡した。
横山が雅人から原稿を受け取るときに尋ねた。
「どうして僕が『メトロポリス』班なんだい?」
「『メトロポリス』はその名の通りニューヨークのような大都会が舞台です。今後、横山さんは都会を舞台にしたSF作品を描かれるでしょうからそのための勉強です」
「なるほど。了解した」
治美が黒板に大きく「トーン」を書いた。
「パートの皆さんは書道教室や絵画教室に通っている方や学生時代美術部にいた方とか絵のお上手な方だと聞いています。皆さんにはベタやライン引きだけではなく、原稿にいろんな模様を描く仕事、『トーン』もお願いします」
主婦たちがざわついてきた。
「模様ですって?なんだか難しそうね」
「わたし、線を引いたり、墨で塗りつぶすだけの簡単な作業だと聞いてきたのに」
治美は黒板にチョークで何本も横線を引いた。
「この模様は『Z』」
次に治美は黒板にチョークで何本も縦線を引いた。
「この模様は『T』」
治美はまず縦線を描き、その上から横線を描き、格子柄を描いた。
「そして横線『T』と縦線『Z』を合わせた格子模様に『K』と記号を割り振りました。このような模様を『トーン』と呼びます」
治美は格子柄の上に斜め線と逆斜め線を描いて見せた。
「特にこの模様は『カケアミ』と呼びます。もっと模様を濃くしたり濃淡を表したい時は斜め線の角度を変えて重ね描きしてゆきます」
雅人が主婦たちに「指定表」と書かれた用紙を配って回った。
「指定表」にはいろんな模様が描いてある、それぞれにAからZまでアルファベットが振られていた。
治美が描きかけの漫画原稿を一枚取り出してみんなに見せた。
「例えばこの原稿に書かれた男の服には『T』と書いてありますよね。そしたら指定表を確認してこの服の部分に縦縞模様を描いて下さい。どうです、簡単でしょ?」
主婦たちは安心して、みんなコクコクと頷いた。
「指定表どおりに描くだけなら簡単ね」
「自分の描いた模様が本になるのって楽しそう」
次にエリザが主婦たちの前に立ち、一冊のノートを取り出した。
「パートのみんなは何時でも自分の都合の良い時にここに来て仕事してくれたらええからな。仕事はいつでもなんぼでもあるからな。そんで、仕事が終わったらこのノートにどのページを手伝ったか記入してや」
エリザは横山たちチーフアシスタントに向かって言った。
「チーフアシスタントの人は、ちゃんと記入内容が間違いないかチェックしてサインしてや。うちはこのノートを集計してお給金を支払いますからキッチリとつけてくださいな」




