ロストワールド その1
昭和29年8月31日、火曜日。
雅人は夏休み最後の日、茶の間で治美と「手塚治美を手塚治虫にして、日本を漫画と漫画映画の世界一の大国にする計画」を練っていた。
するとそこに、雅人の母親がスイカを持ってきてくれた。
「スイカ、切ってきたで。治美ちゃん、食べや」
雅人の母親が治美にスイカを一切れ手渡した。
「ありがとう!」
「いよいよ明日は治美ちゃんの『新寶島』の発売日やね!おばちゃん、ぎょうさん仕入れて店で売ってあげるからな」
「おばちゃん、店で売らない方がいいよ」
「そらまたなんでや?」
「将来プレミアムがついて300万円ぐらいで売れるから置いといた方がいいよ」
「アハハハ!相変わらずあんたはおもろい子やなあ!」
「おばちゃんにはいつもお世話になってるから、特別に日付入れてサインしてあげるね。これで100万ぐらい値が上がると思うよ」
雅人の母親は治美の言葉を冗談だと受け取り、まったく相手にしなかった。
そのまま笑いながらまた駄菓子屋の店番に戻っていった。
「もう!真面目に言ってるのに全然信じてくれないんだから!雅人さんからも言っといてくださいよ」
「そんな話はどうでもいい。それより明日から学校が始まる」
「はあ…。みんな学校にいくから、また昼間はわたし一人になるんですね」
「安村たち美術部の後輩も放課後しか漫画を描く時間が無くなる。こうなると仕事は家に持ち込まないというわけにもいかないぞ」
「そうですよね。アシさんたちにも頑張ってもらうしかないですね」
「毎日、治美が描いたネームを俺が学校で3人に渡す。3人はそれぞれ自宅でネームをもとに原稿を描いてもらう。そして日曜日には仕事部屋に集合してみんなで仕上げる」
「なるほど!そのやり方で出来るだけ原稿を量産していきましょう」
「そうするしかないな。3人とも原稿1枚完成するのに平均30分かかっていた。1人1日2時間で4枚描けたとして月曜から土曜の6日で24枚、3人で72枚か。週に100枚仕上げるためにはやっぱりもう一人いるな。そうしないと月に単行本2冊出すのは不可能だ」
「もう一人?横山さんはダメですよ。彼には自分の漫画を描いてもらいますから」
「いや。俺もペン入れも手伝うよ」
「雅人さんが!?ダメダメ!雅人さんはこれ以上漫画に時間を使わないで勉強してください。雅人さんが東京の大学に落ちたらわたしの中央進出計画が台無しになります! 」
「でも俺は第二志望校に合格したんだろ?」
「そう言って油断してると歴史なんて簡単に変わるんですよ。雅人さんはただでさえ、わたしがやって来てから勉強はかどっていないでしょ。将来のためしっかり勉強してください」
「―――お前に勉強しろって説教されると心底情けなくなってくる」
「わたしがネーム描きながら、ペン入れもしますよ」
「ペン入れしながら月に400ページもネームを描けるのか?」
「月に400ページね……。わたしは週休2日制にしたいから、月に20日働くとして………1日に20ページネームを描けばいいんですよね。楽勝です!」
「本当かよ!?」
「ネーム描くのに苦労するのは、ストーリーやコマ割りを考えたりする部分ですからね。その点、わたしはまったく苦労しません」
「まあ、なぞって模写するだけだから頭は使わないよな。それもほとんどがラフ画だし。それに治美は学校にも行かずに一日中家にいるわけだしな」
「その通りなんですが、そこまではっきり言われるとムカつきます!」
「それじゃあネームは毎日、俺が治美から受け取って学校で安村たちに渡してゆく。遅れないようにしてくれよ」
「それがですねぇ、ひとつ雅人さんにお願いがあるんですが…」
治美が猫なで声で言いづらそうに言葉を濁した。
「何だよ、言ってみな」
「わたしがセリフを口頭で読み上げますから、雅人さんがフキダシの中にセリフを書いてくれません?」
「口述筆記か?どうしてだ?」
「わたし、手書き文字ってあんまり書いたことがないので、漢字が苦手なんです!」
雅人は大きなため息をついて目を伏せた。
「確かにお前のネーム、ちょっとしゃれにならないくらい誤字脱字が多いよな」
「その通りなんですが、そこまではっきり言われるとムカつきます!」
「未来世界では、電子計算機が自動的に文字を書いてくれるんだってな」
「そうなんですよ!未来人は自分の手では文字が書けないんですよ!」
「本当かよ?」
雅人がじっと治美の顔を正面から見据えると、思わず彼女は目を逸らした。
「嘘だな。だけど実際お前に字を書かせると遅いし、誤字脱字が多い。結局俺が直す羽目になるから、最初から俺がセリフを書く方がいいな」
「やったー!これで効率爆上がりです!」
「しかしよく考えてみると、完成した漫画の原稿には全く治美が描いた部分がなくなることになるぞ」
「あらら!本当だわ!ストーリーも本物の手塚先生が考えたものだし、これで作者はわたしだなんて詐欺ですね!ケラケラケラ!」
治美は笑いをこらえきれず、体をくねらせて笑い転げた。
そして、突然治美は笑うのを止め、 背筋を伸ばして居住まいを正した。
「笑い事じゃないですよね!わたし、もっとがんばらなきゃ!」
後にマンガの神様と呼ばれる手塚治美は、実は漫画を描くのがとっても苦手だったのだ。




