新寶島 その3
食堂の長テーブルに座った安村たちは、1枚ずつ原稿を読んでは隣に座っている者に原稿を渡して読み始めた。
「こんな漫画、初めて見た!」
「なんと言う立体感とスピード感だ!」
「やっぱり手塚先生は天才だ!」
安村たちは口々に称賛の声を上げた。
治美は自信に満ちた顔でそんなアシスタントたちを見つめている。
安村、藤木、赤城と原稿用紙は回し読みされ、最後に食堂の入口に立ってその一部始終をみていた雅人の手に渡された。
雅人がこの「新寶島」を読むのは始めてだった。
彼は完成して一気読みするためにあえて今まで目にしないようにしていたのだった。
「新寶島」には今までのポンチ絵とバカにされてきた漫画にはない躍動感であふれていた。
原稿は基本1ページを3段に分けて描かれていた。
最初のページには「冒険の海へ」という小見出し。
下2段をぶち抜いて主人公のピート少年が宝探しのためにオープンスポーツカーで港に向かって走っていくところだ。
「波止場」と書かれた道しるべの横をスポーツカーが右から左へと走ってゆく。
疾走するスポーツカーを華麗に運転するハンチング帽をかぶったピート少年。
たっぷり2ページ、ただ車が走っているだけだ。
治美はこの作品から戦後のストーリー漫画は始まった、伝説の金字塔だといつも熱く語っていた。
確かに今まで読んだことのない革新的な漫画だった。
(しかし、まだ毎日小学生新聞の4コマ漫画も連載中なのに、いつの間にこんなに原稿を描いていたのだろう?)
雅人が読み進めるうちにすぐにその答えが分かった。
最初の方こそ丁寧に細かく描いていたが、20ページも読み進めるとただのラフな線画になっている。
人物も最初に登場した時だけは丁寧になぞって描いていたが、次のコマになるとただの丸と棒線だけの棒人間になっている。
「なんだ、こりゃ!?手抜きの未完成品じゃないか!手塚先生!これじゃあみんなペン入れができないぞ」
「いえいえ雅人さん!これはネームという物ですよ」
「NAME?名前がどうした?」
「マンガ原稿の下書きの下書きのラフ画をそう呼ぶんですよ。これも手塚先生が考えたのかしら?」
治美自身が思わず「手塚先生」と口ばしると、安村たちが怪訝そうな顔をした。
安村たちにとって「手塚先生」とは治美のことだから、彼女が自分自身のことを「手塚先生」と呼んでいるのを奇異に感じたのだろう。
「ネームってキャプションのことですよね、手塚先生」
安村がそう得意げに言った。
「雑誌の図版の説明文のことをキャプションとかネームって言いますよ」
「そうそう!そうなのよ。わたし、絵と吹き出しの文字を書いたものだからネームって呼ぶことにしたのよ。よく、ご存じだったわね、安村さん」
「へぇー、そうなのか」と言う心の声がありありと治美の顔に浮かび上がったが、治美は堂々と落ち着いた態度で安村に言った。
憧れの手塚先生に褒めてもらって安村はあふれる喜びを押し隠すことができない。
治美と安村達とは二歳しか年が違わなかったが、治美は精一杯背伸びをして、けっしてボロが出ないように立派な先生を演じていた。
「みなさんは現在、わたしの4コマ漫画の下書きをトレースしてペン入れをしてくれていますね。今回はみなさんの勉強のために、わたしの描いたネームから自分で下書き、線画まで描いて、ベタ、トーン、オノマトベと仕上げをして原稿を完成させて下さい」
治美はドサッとテーブルの上に、真新しいケント紙の束を置いた。
「このケント紙に、わたしのネームをトレースして原稿を描いて下さい」
治美はわら半紙に鉛筆で描いたネームを一枚トレース台の上に置き、その上に真っ白なケント紙を重ねておいた。
治美はトレース台の裸電球のスイッチを入れるとケント紙に治美の描いたラフ画が浮かび上がった。
「212枚の新寶島を3人で分けるから一人70枚ずつね。1日4枚描けば20日もあれば完成ね」
「手塚先生!僕は手伝わなくてよろしいのでしょうか?」
横山が右手を挙げて質問をした。
「横山さんは今までどおり、ご自分のデビュー作を描いていて下さい。9月には『新寶島』が発売され、ベストセラーになります。10月から毎月2冊ずつ新刊を発行して、手塚治虫は関西の出版業界の売れっ子になります。そしたらわたしが推薦して横山さんをプロデビューしてもらいます」
「手塚先生!もうそんな先のことを考えておられるのですか!?」
「すごい自信だ!ご自分の才能を信じ切っているんだ!」
安村たちの目には、治美の背後にまばゆいオーラーが輝いて見えた。
安村たちはそれぞれやる気に満ちた表情で、どの原稿を誰が描くのかワイワイと相談し始めた。
雅人が治美の横に立ち、小声で話しかけた。
「おい、ちょっと待てよ。治美は自分でペン入れはしないつもりか?」
「はい、そうです」
あっけらかんと治美が答えた。
「どうして?」
「第一に全部自分でペン入れをして皆さんに漫画の描き方を覚えてほしいのです。第二にわたしは別の作品のネームを書くのに忙しいからペン入れする時間がありません。第三に皆さんの方がペン描きに慣れていて早くて上手だからです!」
「三つ目の理由は情けないぞ、手塚先生!」
治美は安村たちの方を向いて話しかけた。
「みなさん!とにかく大量の原稿を世間に発表するため、わたしはネームを作ることに専念するつもりです。必要ならばこの先、もっとアシスタントも増やしていくつもりです」
安村が不安げな様子で治美に尋ねた。
「でも手塚先生おひとりでそんなに大量のお話しを書けるのですか?」
「大丈夫よ!アイデアだけはバーゲンセールしてもいいくらいあるんだ!」
「さ、さすが、手塚先生!」
安村たちは治美の言葉に感動し涙を流さんばかりに瞳を輝かせた。
後で治美に聞いたが、これは本物の手塚治虫がテレビの取材時に言った名言をバクっただけだそうだ。
この頃から治美は、手塚作品を模写して発表するだけではなく、自分自身を「マンガの神様」として演じるようにになった。




