きりひと讃歌 その2
治美が電話の掛け方がわからずに手を焼いているところを見て、雅人はニヤリと笑った。
「昭和のこと、十分理解してるんじゃなかったのかい?」
雅人が意地の悪いことを言うと、治美はジロッと上目づかいで彼を睨んできた。
「僕がかけてあげますよ。毎日新聞社の誰を呼び出すのですか?」
見かねた横山が受話器を上げて、ダイヤルに指を掛けた。
「ありがとうございます!学芸部にいる杉本豊子さんを呼び出してください」
「学芸部の杉本豊子さんですね」
横山は治美からメモを受け取ると、メモを見ながら電話機のダイヤルを回し始めた。
「へぇー。そうやってダイヤルを回すのかあ……。そう言えば昔の映画で見た覚えがあります」
治美はジーコ、ジーコと音を立てて回転盤が回るのを不思議そうに見ている。
「その杉本豊子って人が治美の知り合いなのか?」
「まっさかあ!一方的にわたしが名前を知ってるってだけで、知り合いじゃないですよ。将来、超有名な小説家になる人なんです!」
「えっ!?知り合いじゃないなら、電話をして何を言うつもりだ?」
「出ましたよ!」
横山が治美に受話器を差し出した。
「もしもし?」
電話口から小さく女性の声が聞こえてきた。
治美は横山から緊張した面持ちで受話器を受け取ると、ひとつ咳払いをしてから喋り始めた。
「もしもし!わたし、手塚治虫と言います!は、はい、わたしは女です。もちろん、ペンネームです。年齢は17……、いえ、19歳です!いえ!いえ!小説じゃありません。マンガです。これから杉本さん宛てにわたしのデビュー作になる4コママンガを送りますから、学生新聞部の人に紹介してください。……あっ!切らないでください!」
「杉本さんは新聞記者をしながら小説書いてるでしょ?………なんで知ってるかって?実はわたし、未来世界から来たんです!……あっ!切らないで!切らないで!」
(こいつ、自分が未来世界から来たなんて喋っちまったぞ!もうダメだあ!!)
雅人は絶望のあまり顔を掌で覆い、その場でガクッとひざまずいた。
「杉本豊子さん、あなたは大阪船場の老舗昆布屋さんの『いとはん』でしたね?」
「いとはん」とは大阪商人が使っていた「船場言葉」のひとつで、「愛しい人」からきた言葉で長女に使われていた。
ちなみに次女は「なかいとはん」、末娘は「小さいいとはん」が縮んで「こいとはん」と呼ぶ。
「杉本さんは山崎豊子のペンネームで1957年に『暖簾』で作家デビューします。その翌年、『花のれん』で第39回直木賞を受賞し、新聞社を辞めて作家に専念します」
雅人は驚いて横山に小声で尋ねた。
「そうなんですか?」
「僕も山崎豊子という小説家の名前は知ってますよ。何度も作品がドラマや映画になった人ですから。でもこの頃、毎日新聞社にいたなんて知りませんでした」
「へぇ!治美は漫画しか知らないと思ったが、意外と文学少女だったんだな」
治美は冷や汗を流し、しどろもどろになりながらも一生懸命に話している。
雅人と横山は彼女の隣に立ち、手に汗を握りながら話を聞いていた。
「山崎豊子という小説家は、『不毛地帯』、『二つの祖国』、『大地の子』の戦争三部作で社会派作家の地位を不動のものとします。それから『白い巨塔』、『華麗なる一族』、『沈まぬ太陽』、『運命のひと』と次々と映像化され、あなたは知らない人はいない日本を代表する大作家になるんです!」
どうやら杉本豊子、いや、山崎豊子は治美の話に興味を抱いたようだ。
もう、電話を切られる心配はなくなった。
「えっ!どんな小説を書くのかって……?わたしは読んだことないから内容は知りません!……あっ!あっ!切らないで!!」
(読んだことないのかよ!)
雅人は治美の言葉にハラハラドキドキ、鼓動が高鳴りめまいがしてきた。
「み、未来世界では山崎豊子さんは有名な小説家になります。わたし、手塚治虫は有名なマンガ家になります。後に、あなたが書く『白い巨塔』という外科医を主人公とした作品に触発されて、わたしも『きりひと讃歌』という青年マンガを描きます。
「『きりひと讃歌』というマンガの内容なら説明できます。モンモウ病という獣のような顔になる奇病を調査していた大学病院の青年医師小山内桐人は、自分もモンモウ病になってしまいます。桐人は人買いに拉致され、見世物として売られ、世界を放浪しながら病気の原因を追究するのです。医学界における権力闘争を描いた社会派のマンガで
、『白い巨塔』と通じるところがあります。
「天才は天才を知る!って言うでしょ。同じクリエーターの山崎さんなら、きっとわたしの4コママンガの良さを分かってくれると信じています。どうか、どうか協力してください!」
治美は受話器を持ったまま、深々とお辞儀をした。
電話が終わり、満足げに汗を拭いながら治美は受話器を横山に返した。
「お疲れ様、治美さん。山崎豊子さんは治美さんの原稿を紹介してくれそうですか?」
「はっきりとした返事はもらえませんでした。でも、手ごたえはありました!」
治美の無謀な行いにすっかり腹を立てた雅人が大声で叫んだ。
「治美!お前は自分が未来人だということを喋ってしまったんだぞ!どうするつもりだ!?」
「大丈夫ですよ!そんなの誰も信じませんよ。山崎さんだって、漫画を売り込むためのただの演出だと考えますよ」
「だけどお前の予言はすべて的中するんだろ?そうなった時に、手塚治虫は本当に未来人だったとバレちまうんだぞ」
「もしも将来、山崎さんがわたしが未来人だと信じても、そんな馬鹿げた話、他人にはいいふらしたりしませんよ。自分が馬鹿にされるだけですもん」
「雅人くん。治美さんの言うとおりですよ。タイムリーパーがいるなんて、昭和の日本で信じる人間なんていませんよ」
「二人とも昭和の人間を甘く見すぎてやしないか!?あんたたちが未来人で、未来の出来事を少なからず知ってるとバレたら、きっと悪用し儲けようとするヤツが現れる。秘密を独り占めするために、二人とも悪党に拉致監禁されるぞ!」
「そんなの考えすぎですよ、雅人さん!ホント、苦労性なんだから…」
「外部の大人たちと交渉する時はもっと慎重に行動しろと言いたいんだ!いくら未来の高性能の機械を持っていても、別の世界に来たばかりの女の子がそう簡単にやっていけるわけないだろう!」
「どんな手を使ってでも、まず原稿を読んでもらわないことにはどうにもならないでしょ!よんでさえもらえたら、あの原稿は必ず採用されます!」
「何を馬鹿なことを………!」
「あっ!バカって言った!バカって言った!!この分からず屋のクソジジィ!!」
そう悪態をつくと、治美はパタパタとサンダルを鳴らして二階に立ち去っていた。
「ク、クソジジィだと!?あいつ、陰ではそんな風に思ってたな!」
「仕方ありませんよ。治美さんのいた時代では、雅人くんは八十歳の老人ですから…………」
横山が非難めいた顔つきで雅人を見つめた。
雅人はハアーと深く溜息をついた。
「済んだことはしょうがない。明日、郵便局に行って原稿を杉田豊子さん宛てに出してきます。治美にそう伝えておいて下さい」
そう言って、雅人はとぼとぼと重い足取りで帰って行った。




