漫画大學 その2
横山は自分の掛けている黒縁眼鏡を指さして言った。
「ほら。僕の掛けている眼鏡もコミックグラスなんですよ」
「ど、ど、どうして治美が未来から来たってわかったんですか!?」
横山は「Nestle」と書かれたインスタント珈琲の缶を指さして雅人に尋ねた。
「雅人くん。これ、何て読みます?」
「ネッスル…」
雅人がそう答えると治美が首を傾げた。
「ネスレじゃないの?」
横山は微笑みながら少し得意げに雅人達に説明してくれた。
「この社名を『ネスレ』と読むのは平成生まれの日本人だけです。『ネッスル』と言うのは英語読みでこの時代の社名なんですよ。僕と治美さんが生きていた時代では、『ネッスル』から『ネスレ』という本来のフランス・ドイツ語読みの社名に変わっています。僕の大学の先輩がネスレに勤めていたので聞いたことがありました」
「『Nestle』を『ネスレ』って読んだから、治美が未来人だと気づいたのですか!?」
「さっき『長澤文具店』のことを『ナガサワ文具センター』って呼んでいましたしね」
雅人は治美の方を向いて睨みつけた。
「だからあれ程、言動には気をつけろと………」
「それだけじゃありません。治美さんの掛けている眼鏡のブリッジに小さく商品名が書かれています」
治美は驚いて眼鏡をはずしてレンズとレンズを繋いでいる山の部分を目を細めて凝視した。
「本当だ!『Comic Glasses』って小さな文字が浮かんでくる!気が付かなかったわ!」
「ホログラムですよ。こんな技術はまだこの時代には存在しません」
雅人の全身からすっかり力が抜けてしまった。
それから横山は雅人たちの前に腰かけ、自分で作ったネスカフェを飲みながら我が身に降りかかった出来事をぽつりぽつりと語りだした。
「僕の名前は横山浩一。平成十年、1998年6月18日生まれ。実年齢は22歳です。未来世界では僕は普通の大学生で、神戸市長田区のアパートで独り暮らしをしていました。
「タイムスリップしたのは令和元年、2019年12月9日のことです。前の晩、僕はコミックグラスで漫画を読みながらそのまま眠ってしまいました。朝になって気が付くと僕は雑草まみれの更地に横たわっていたのです。後になってわかったことですが、そこは未来世界で僕のアパートが建っていたのと同じ場所でした」
「あのう…令和って何です?」
「平成の次の元号です」
「へぇー。それはわたしも知らなかったわ」
「僕はすぐに自分が過去の世界にタイムスリップしたのだと理解しました。ともかく、この過去の神戸の街で生きてゆくには仕事が必要だ。幸い僕は語学が得意だったので、街で見かけた外国人に片っ端から声を掛け、自分を売り込みました。運よくエリザお嬢さんの御父上に出会い、こちらに住み込みで雇っていただけました。それが今から二年前のことです」
「タイムスリップしてすぐに仕事を探したのですか!?すごい適応力ですね!でも、独逸語を喋れるだけでよく雇ってもらえましたね」
「ドイツ語だけではなく、読み書きだけなら20カ国語ぐらい使えますからね」
「えっ!それはすごい!」
「いや、大したことないですよ。僕のコミックグラスには翻訳アプリが付いているんです。このコミックグラスで見たら、どんな文章も自動的に翻訳してくれるんですよ」
「えっ!?そんな便利なアプリ、わたしのには入ってないわ」
「ははは!僕のコミックグラスの方が新しいからでしょうね」
「いいなあ。どこで買ったんですか?」
「自分で買ったわけではありません。いきなりメーカーから宅急便で送られて来たのです。新製品のモニターに選ばれたから使用してレビューしてくれという手紙を添えて。僕はインスタで色々と新製品の紹介とかしていたから、タダで良い物もらえたと喜んでいたんですよ」
「横山さんも治美と同様にコミックグラスを手に入れてタイムスリップしたということですか?こんな偶然あります?も、もしかしたら、コミックグラスには時間を跳躍する機能が付いているんじゃないですか?H・G・ウェルズの『タイム・マシン』みたいな機能が!?」
「まさかあ!」
横山が苦笑した。
「ははは、いくら未来世界でもタイムマシーンは存在しませんよ。コミックグラスはただのパソコン………電子計算機にすぎません」
横山が治美と同じ未来人だと分かって雅人は一人興奮しているのだが、肝心の未来人の方は淡々としたものだった。
「横山さん!横山さんのコミックグラスでも手塚先生の漫画を読めるんでしょ。だったらわたしの仕事を手伝ってくれませんか?」
治美は少し甘えた声で横山にお願いをした。
「僕が漫画を描くんですか?それは考えつかなかったなあ。君たちはよくコミックグラスを使って漫画家になろうなんて無謀なこと思いつきましたね」
「えへへへ!それほどでも…」
「いや。褒められてないぞ、治美」
「残念ながら僕には治美さんのお手伝いはできません」
「えーっ!?どうして?」
「僕のコミックグラスには手塚治虫の漫画は入っていません」
「なーんだ、ガッカリ!」
「超完全版横山光輝全作品集が入っていますけど…」
横山がぽつりと呟いた。
「横山光輝!?この人も有名な漫画家なのか!?」
雅人は期待に満ちた眼差しで治美の方を見た。
「そうですね。手塚先生ほどではないですが超有名ですよ。日本漫画界の巨匠のひとりです。わたしは魔法使いサリーちゃんぐらいしか知りませんが」
治美は雅人が拍子抜けするぐらい落ち着いた口調でそう言った。
相変わらず、彼女は手塚治虫以外の漫画家にはあまり興味がないようだ。
「僕は名字が同じ横山なので横山光輝には親近感があって、子供の頃にはよく読んでいましたよ。『バビル2世』とか『ジャイアントロボ』とか。『伊賀の影丸』とか『仮面の忍者赤影』ってのもありましたね。それに僕の住んでた長田区には横山光輝の描いた巨大なロボット『鉄人28号』のモニュメントが建っていました。長田区は横山光輝の生地なので『三国志』とかの武将の絵もあちらこちらにありましたよ」
「そんなに凄い漫画家さんなんですね。だったら横山さんは横山光輝のペンネームで漫画を描いてくれませんか?治美と共にこの日本を漫画大国にする手伝いをして下さい!」
「僕がそんなことをしたら本物の横山光輝が困るだろ?君たちも手塚治虫の名前で漫画を描いてもそれは盗作じゃないか。本物が出てきたらどうするつもりだい?」
「横山さんはまだ気づいていないのですね。俺の生まれてこの世界は、横山さんと治美の生まれた世界とはかなり歴史がズレているんです。この世界には有名な漫画家がみんないないんです」
「ふーん、そうなのか?確かにまわりに漫画を見ないね。僕はあまり漫画のことは詳しくないから、漫画雑誌が登場するのはまだずっと将来のことなんだと思っていたよ」
「治美はコミックグラスを使って手塚治虫の作品をこの世界に発表していくつもりです。横山さんも横山光輝として漫画を描いていただけませんか!」
「僕は漫画家になる気はないよ。同じタイムリーパーとして治美さんが漫画を描くのは応援するがね」
「そうですか…。残念ですが無理強いはできませんね」
雅人はかなり落胆したが、当初の予定通り治美と二人で漫画を描くしかないと気を取り直した。
「治美。コミックグラスで漫画の描き方を調べてくれ」




