マァチャンの日記帳 その3
昭和29年4月29日、木曜日、大安吉日。
今日は天皇誕生日で待望の祝日だ。
雅人はエリザの屋敷に朝から出かけると、番頭の横山がほほ笑みながら出迎えてくれた。
「雅人くん。おはようございます!」
横山は珍しく機嫌が良さそうだった。
「治美をお願いします」
「治美さんは昨夜も遅くまで漫画を描いていましたからまだ寝てますよ」
「えっ!?横山さん、治美が漫画を描いていることを知っているのですか?」
「もちろんです。僕も微力ながらお手伝いをさせていただきます」
「意外だなあ!」
「治美さんは素晴らしい才能をお持ちだ。それにとても愛らしい女性です」
横山のにやけた笑顔を見ていて雅人は確信した。
(こいつやっぱりうちの孫娘に惚れてやがるな。気をつけないといかんな。手塚治美に悪い虫がついたら、これが本当の手塚治虫だ)
――などとしょうもないことを考えながら、雅人は横山の後をついて屋敷の二階に上がって行った。
二階の廊下の突き当たり、ほぼ垂直になった狭い階段を上ると屋根裏部屋がある。
治美はその屋根裏部屋にずっと缶詰状態になって4コマ漫画を描いていた。
横山が階段を半分ほど上ると下から屋根裏部屋に声を掛けた。
「治美さん!おはようございます!雅人くんが来てますよ。起きてください!」
しばらくして、ゴソゴソと音がしたかと思うと、寝巻姿の治美がふらつきながら現れた。
「……おはよう……ござーす………」
寝起きの治美の髪はボサボサで、寝巻の胸元がはだけて下着が見えていた。
横山はうつむくとコホンと大きく咳払いをした。
「キャッ!」
自分の姿に気が付いた治美は、慌てて屋根裏部屋に戻っていった。
「雅人くんは食堂でお持ち下さい。治美さんの着替えが終わったら連れて行きますから」
「う、うん!わかった!お願いします」
雅人が食堂の椅子に腰かけて待っていると、やがて白いワンピースに着替えた治美が現れた。
「雅人さん!おはようございます!」
「おはよう!三日ぶりだな。屋根裏部屋にはもう慣れたか?」
「はい!すっかり気分は赤毛のアンです!」
治美は元気よく雅人の前に座った。
「屋根裏と言っても未来世界のわたしの部屋よりもずっと広いですよ。出窓もあるし、ベッドもあるし。ただ、机がないので困りました」
「えっ?机なしでどうやって漫画を描いてるんだ?」
「それがですね、大きなミカン箱があったので、その上に板を置いて机代わりにしました。大昔の漫画家さんの自画像でよくミカン箱を机にしていますが、あれって本当だったんですね」
この頃はまだ木箱の全盛時代で、段ボール箱なんかほとんど使われていなかった。
特にミカンやリンゴとか出荷時期が集中する果物は大きな木箱で運んでいた。
だからどこの家でも木箱が転がっていて、物入れや机として重宝されていたのだ。
(屋根裏部屋でミカン箱を使ってずっと一人で漫画を描いていたのか……)
雅人は薄暗く埃っぽい屋根裏部屋でミカン箱を机にして、一心不乱に漫画を描いている治美の姿を思い浮かべ不憫でならなかった。
「雅人さん。わたしこの三日間、屋根裏に閉じこもってひたすらマンガを描いていました。そしたらなんと……」
治美がわら半紙の束を取り出して見せた。
「ジャーン!『マァチャンの日記帳』、全73本、描き終えました!」
「おおっ!?たった三日でそんなに描いたのか!?すごいじゃないか!」
「エヘヘ!描いてるうちに楽しくなってきて、ついつい何度も完徹しちゃいました!」
漫画原稿の束を抱えて嬉しそうにほほ笑む治美を見ていて、雅人は思った。
(初めて漫画を描いたのに、たった三日で完成させたのか!?こいつ、本当に天才かもしれん!)
雅人は鉛筆を持つと張り切って腕まくりした。
「よし!後は俺にまかせろ!台詞を全て旧仮名遣から現代仮名遣いに変えないとな。それと昭和二十九年の今の時代にそぐわない内容があったら台詞を変えないといけないからな」
「お願いしまーす!」
雅人は吹き出し線を消さないように気を付けながら、旧仮名遣の台詞を一つずつ消しゴムで消しては現代仮名遣いに変えるという地味な作業を始めた。
しばらく隣で彼の作業を見ていた治美が、急に思いついたように白紙のわら半紙を取り出すと、別の4コマ漫画を鉛筆で書き始めた。
「ん?その漫画は何だい?」
「 マァチャンが終わった二年後に連載した『グッちゃんとパイコさん』という4コマです」
「ふーん。主人公はマァチャンに似ているな。でも少し成長したというか、洗練された絵柄になっているな」
「主人公の名前は変わっていますが中身はマァチャンの続編です。これは全部で43回続きました」
「なるほど。『マァチャンの日記帳』が終わったら、主人公の名前だけ変えてそのまま連載を続けられるな。もっと他にないのか?」
「そのまた続編の『ぐっちゃん』という4コマもあって、これは100回分あります」
「全部採用されたとして216本か。凄いじゃないか!半年以上も連載できるな!」
「ほかに『AチャンB子チャン探險記』とか『珍念と京ちゃん』とかの4コママンガもありますが、内容が違いすぎるから使えませんね」
こうしてテーブルに原稿を広げて二人してワイワイと作業をしていると、横山がやってきた。
「お疲れさまです。お茶を入れますよ。何がいいですか?」
横山が治美の顔をみつめながら尋ねた。
(俺が一人で遊びに来た時はお茶なんか出したことないくせに!)
「横山さん、随分とサービスがいいですねぇ。今までそんな優しいこと、言われたことなかったですよ」
「いやだなあ。雅人くん。僕はいつもどおりだよ。今日は家政婦の岡田さんはお休みなんだ。だから僕に何でも頼んでくれたまえ」
「いえ、どうかお構いなく。俺達は勝手にやってますから」
(治美に悪い虫がつかないように俺がしっかりと見守らないとな。これはけっして嫉妬心じゃないぞ。もし未来世界から来た治美に恋人なんかできたら、歴史がガラッと変わってしまう恐れがあるからだ。治美の周りにはけっして俺以外の男を近づけないようにしないと)
――てなことを雅人が考えていると、彼の気持ちも知らずに治美は愛想よく横山にほほ笑みかけた。
「いつもありがとうございます、横山さん!」
この数日で二人はすっかり親しくなってしまったようだ。
「それじゃあ、目覚めのコーヒーを下さいな!」
「ははは。残念だったな。エリザが珈琲が苦手だから、この家には珈琲豆なんて物は置いていないんだ」
「いいえ。治美さんがお好きだと伺いましたので用意していますよ」
「えっ!?」
「あいにく当家にはコーヒーミルはありません。しかし、去年からコーヒーの輸入が再開されたので、ネスカフェというコーヒーを元町の輸入専門店で見つけてきました」
「ネスカフェ?飲みたい!」
「ユーハイムのバウムクーヘンもありますよ。一緒にいかがですか?」
「わーい!」
治美が嬉しそうにはしゃぎながら両手を上げた。
治美はこの一週間ですっかり餌付けされているようだ。
(横山さん、大人しそうな顔をして意外と危険な男かもしれん)




