マァチャンの日記帳 その1
雅人と治美は相談して、手始めに手塚治虫のデビュー作、「マァチャンの日記帳」を描くことにした。
「それで『マァチャンの日記帳』ってどんな漫画なんだ?」
「マァチャンって男の子が主人公の、ほのぼのとした普通の日常を描いた4コママンガですよ」
「4コマ漫画か。だったらオチさえ面白ければ多少絵がヘタでもいけるな。最初の作品にはちょうどいい」
「そう言えば昔の4コママンガって、ちゃんと起承転結があって最後にオチがあるんですよね」
「4コマ漫画ってそういうもんだろ……?」
「わたしの知ってる未来世界の4コママンガは、とりあえず美少女が一杯でてきてキャッキャッウフフしているだけで特にオチも笑いもないですよ」
「へぇ……?きっと4コマ漫画が進化し、洗練された結果そうなったんだな。だが、今の時代の4コマ漫画はちゃんと最後に笑いがないと駄目だからな」
「大丈夫ですよ。デビュー作とはいえ天才手塚治虫の4コママンガですよ。面白くないわけがない!」
勝手知ったる他人の家、雅人はエリザの部屋からわら半紙と鉛筆を持ってきて治美に手渡した。
「それじゃあ、そのマァチャンの漫画を描いてみてくれ」
「はーい!」
治美はわら半紙に鉛筆で四つの駒枠を描くと、サラサラと4コマ漫画を描いていった。
「ほう……」
いくら丸写しとはいえ迷うことなくあっという間に描いていく。
治美には持って生まれた絵を描く才能がある。
(やはり治美は俺の血を引いてるんだなあ………)
そう考えると、何とも言えない不思議な感情が胸に湧き起こった。
たちまち野球帽を逆さにかぶり、長ズボンに長袖シャツ、手袋をした可愛らしい男の子の絵を治美は描きあげた。
「ふーん………。この子がマァチャンか。可愛い絵だな」
「ありがとうございます!」
「でも、なんで手袋してるんだい?」
「やっぱり、あれかしら……」
治美は口元を手で隠しながら小声で言った。
「―――ミッキーマウスの影響ですよ」
「なるほどな。手塚治虫はディズニーの影響を受けているんだ。でも、ディズニーとは違った魅力があるな。なんというか可愛いな」
「そうでしょ!手塚先生の絵柄は日本の萌えマンガの元祖なんですよ!日本の萌え文化は手塚先生から始まったのですよ!」
また治美が熱弁をふるいそうになったので、雅人は話を戻した。
「第一話は書初めの話か」
「はい。このマンガが掲載されたのが正月でしたから」
「マァチャンの日記帳」、記念すべき第一話はこんな内容だ。
起:壁に「マァチャンの弱虫」と悪口が落書きされている。
承:まだ字の読めないマァチャンが年長の少年に何と書いてあるか尋ねると、「マァチャン」と書いてあると教えられる。
転:マァチャンはそれを真似て家で書初めをする。
結:「マァチャンの弱虫」と書かれた書初めを見て呆れるお父さん。
「ほのぼのとした楽しい漫画だな。しかし、今は春だ。正月の話は載せてもらえないな」
「ですよね!わかりました。春か夏の話を描いてみますね」
そう言うや否、治美はあっという間に数本の4コマ漫画を描いてみせた。
鉛筆書きとはいえかなりのスピードだ。
雅人は初めて目にする手塚作品をじっくりと読んでみた。
最後のコマのオチを読んで、ニヤリと何度も口元がほころんだ。
「絵も可愛いしなかなかユーモラスだ。面白いな」
「面白いですか?」
「面白いよ?どうして…?」
「―――実はわたし、内容がよくわかんないですよ。セリフがみんな手書きのカタカナで、読みにくいんですよね」
「なるほどな。終戦の翌年の作品だからな。まだ旧仮名遣いなんだよ。当時の子供は最初にカタカナから教わったんだ」
「キュウカナヅカイ……?」
「知らないのか?ちょっと待ってろ」
雅人はわら半紙に「ヰ」と書いて見せた。
「これは『イ』と読む」
「ああ!見たことあります!えーと、『ウヰスキー』の『イ』!」
「じゃあ、これは?」
雅人はわら半紙に「ヱ」と書いて見せた。
「『ヱヴァンゲリヲン』の『え』!」
「なんだ。結構、読めるじゃないか」
「全部、カタカナだと読みにくんですよねぇ……」
治美は一つの文章を書き始めた。
「ミナサンヘ マングワノ セカイニモ ヘイワガキマシタヨ。イママデノ センサウチュウノ アラッポイ マングワナンカデハ ナク ナゴヤカナ オハナシヲ ヒトツ ミナサンニ オオクリシマセウ」
治美は絵を描く時と違って非常に苦労して書き終えた。
「これ、『マァチャンの日記帳』の予告文なんです。わたしにはわけがわかりません。ちょっと読んでみてください」
「えーと……、『皆さんへ。漫画の世界にも平和が来ましたよ。今までの戦争中の荒っぽい漫画なんかではなく、和やかなお話を一つ、皆さんにお送りしましょう』」
「『マングワ』って『マンガ』のことだったの!?」
治美はケラケラと大笑いした。
「じゃ、これは?これは?」
面白がって、治美は次々と漫画のセリフを書き、雅人はそれを読み上げていった。
「ヲヂチヤン」
「おじちゃん」
「カヒダシ」
「買い出し」
「スエーター」
「セーター」
「テフテフ」
「蝶々」
「ニフガクシケンノレンシフダヨ」
「入学試験の練習だよ」
その後、「買い出し」とか「DDT」とか「進駐軍」とか治美には存在自体、理解できない単語も一杯でてきた。
「掲載されたのが昭和21年だから昭和29年の今だと時代が合わない話が多いな。もったいないがそういった話は省くしかないな」
「ふーん。同じ昭和の古い時代だと思っていましたが、昭和21年と昭和29年でもかなり違うんですねぇ」
雅人はズボンのポケットから手帳を取り出し、カレンダーを見た。
「今週の木曜日、29日は天皇誕生日で学校は休みだ。その日なら一日中手伝えるから、それまでにできるだけ4コマ漫画を模写しておいてくれ」
「そう言えばもうすぐゴールデンウイークですよね?あれ、この時代にもゴールデンウイークってあります?」
「二、三年前から大型連休をゴールデンウイークって呼ぶようになったよ。確か映画会社が言い出したんだ」
「だったらゴールデンウイークにたっぷり手伝ってもらえますね」
「ああ。そのつもりだ」
「そうだわ!雅人さん!」
突然、治美が雅人の両手を握りしめた。
雅人は思わずドキッとした。
「な、なんだよ!?」
「肝心なことを聞くのを忘れていました!『少国民新聞』って今でもあるんですか!?」
「『毎日小学生新聞』のことだろ。名前は変わってるが今もあるよ」
「あっ!『毎日小学生新聞』ですか!そっか!そっか!わたしの時代にもありましたよ!そっかあ!古いンですねぇ。……ところで『少国民』ってどういう意味です?」
「戦時中、小学校のことを国民学校と呼んだんだよ。それで小学生は少国民って呼ばれた」
「なるほど!なるほど!つまり『少国民新聞』は小学生新聞ってことですね」
「そうそう……!」




