リボンの騎士 その2
阪急宝塚駅を降りて宝塚大劇場へ向かって歩いていくと、道路の中央が盛り上がった歩道ある。
かつて武庫川の堤防だったその歩道の両脇には満開の桜並木が続き、薄桃色の桜のトンネルになっていた。
歩道の入り口に「花乃みち」と刻まれた高さ4メートル程のコンクリート造りの石灯籠が建っている。
石灯籠を見つけると治美は嬉しそうに言った。
「この石灯籠、こんな昔からここにあったのね!自分のいた時代にあった物を見つけるとホッとしますね」
ふと、治美は満開の桜の花で覆い尽くされた空を見上げ、ゆっくりと和歌を詠み始めた。
「天津風 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ
をとめの姿 しばしとどめむ」
「な、何や、いきなり!?」
「天津乙女と雲野かよ子姉妹の芸名は、この小倉百人一首からとったそうですよ」
「そんなことまでメガネの中に記録されてるんだ!?へぇー、どういう意味なんだい?」
「天空を吹き渡る風よ、天上の通り路を塞いでおくれ。
天女の美しい舞い姿を、もうしばらく地上に引き留めたいから」
「――美しい歌だな」
雅人は桜吹雪の中、空を見上げて佇む治美の姿を見つめながらつぶやいた。
「なーに、鼻の下伸ばしとんや!」
いきなり、雅人はエリザに肘鉄を食らわされた。
歩道の右側には武庫川の河川敷が広がり、左側には古い木造の商店が建ち並んでいる。
そこに「乙女餅」を作っている「きねや」という和菓子屋があった。
以前から知っていたらしく、エリザが慣れた様子で店内に入って行った。
店内には宝塚歌劇の劇団員の写真が数多く飾られている。
陳列棚にきな粉をまぶした小さな直方体の餅菓子、乙女餅が並んでいた。
「いらっしゃいませ」
着物姿の上品そうなおかみさんがお辞儀をした。
「おばちゃん。乙女餅を10個ちょうだい!」
「ありがとうございます」
「お、おい、エリザ!」
「知らん人の家に行くのに手ぶらはないやろ。ええからまかしといて!」
エリザはおかみさんに気安く話しかけた。
「おばちゃん。この乙女餅って天津乙女さんにちなんで名付けたんやてな」
「そうですよ。何か宝塚歌劇にちなんだ銘菓をと考えて、3年前にうちで作ったんです。それ以来、おかげさまで大好評で…」
「だったら、おばちゃん、天津乙女さんのこと、よう知ってるやろ?天津乙女さんのお屋敷の隣に住んでる人のこと知っとる?」
「お隣さん……?」
おかみさんの菓子を包む手が止まった。
「ああ、手塚はんのことですか?あそこのご主人にもご贔屓にさせてもろうてます」
エリザはドヤッとばかりに得意満面で雅人たちの方を振り返った。
「手塚さんは住友伸銅鋼管(現、新日鐵住金)にお勤めで、アマチュアの写真家もしとるハイカラなお人ですよ」
きねやのおかみさんがそう言うと、治美は嬉しそうに言った。
「間違いありません!その手塚さんです!」
我慢しきれず、治美が身を乗り出した。
「手塚治って息子さんがいらっしゃるはずなんですが、ご存じですか?」
「上の坊ちゃんか。よう知っとるよ。絵がお上手で、勉強もよう出来た坊ちゃんでしたわ。芝居も好きでな、小学校の時なんか、学芸会で使いたいからって歌劇に衣装を借りに来たりしたそうです」
「そんなの、貸してくれるわけないやろ?」とエリザが口をはさんだ。
「それがですね、天津乙女さんの口添えで、丹下左膳のお衣装を貸して貰ったそうですよ」
「へえぇ……!」
「越路吹雪さん、糸井しだれさん、園井恵子さん………。あのあたりは『歌劇長屋』と呼ばれるほどジェンヌさんがようけ住んではったからなあ。」
「越路吹雪は知ってるよ。シャンソンを歌ってる人だ。――他の人は知らないなあ」
つい、雅人が余計な口出しをすると、おかみさんは悲しそうに言った。
「園井さんは慰問先の広島で原爆に……。糸井さんは嫁ぎ先の津市で空襲に遭うて……。2人とも亡くなりましたからなあ」
「えっ?亡くなられたんですか!?」
治美は、有名なタカラジェンヌでさえ戦争で生命を奪われたことに、強い衝撃を受けたようだ。
嫌な予感がして治美がおかみさんに尋ねた。
「そ、それで手塚治さん、今も宝塚におられますか?」
「――亡くなりました……」
「えっ?」
「――昭和20年6月7日の大阪大空襲でしたわ。
上の坊ちゃんは中津にあった石綿工場に学徒勤労動員で働いてましたんや。
そこへB29爆撃機が押し寄せて、焼夷弾をまき散らしたんです。
あたり一面、火の海になり、上の坊ちゃんも焼け死んでしまいましたわ」
治美の顔が見る見る青ざめて行った。
「ほんに酷いことやったわ。あと2カ月で終戦やったのになあ……」
治美はよろよろと後ずさりし、震える声でつぶやいた。
「――――手塚治虫が…………死んだ…………!?」
治美はいきなり和菓子屋を飛び出し駆けだした。
「おい!待てよ!」
雅人は慌てて治美の後を追いかけた。
「ちょ……!?どこ行くんよ!?」
エリザも雅人たちの後を追いかけようとしたがおかみさんに呼び止められた。
「ちょっと、お客さん。お代をまだいただいておりません!」
「あっ!はいはい…」
エリザは店の外を気にしながら。仕方なく財布を取り出した。