初恋の人と再会したら、妹の取り巻きになっていました
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物心ついた頃から、私は妹よりも劣った存在だった。いや、劣ったというのは語弊があるかもしれない。私と妹は双子の姉妹であったが、妹は美しく愛らしく、私はといえばその足元の小石のようなものだった。つまり、比較対象にもなりえない存在だったのだ。当然のことながら両親は妹を愛し、私のことはほとんど気にもかけなかった。
それは当然のことではあるものの、幼い私には容易に納得できることではなかった。だからその日も、双子で誕生日が同じにもかかわらず「妹の」誕生日パーティーで妹だけが綺麗なドレスを着てみんなから祝われていることに、自分は部屋で大人しくしているよう言いつけられていることに、子供らしく傷ついていた。寂しくて悲しい場所にこれ以上いたくなくて、私は衝動的にこっそり家を抜け出した。誰にも気づかれることはなかった。当然だ。誰も私のことなど気にかけない。
そしてその先で、私は彼に出会ったのだった。
「どうしたの?」
家を飛び出して当てもなくさまよっているときに見かけた、小さなベンチだけが置かれた雑草だらけの寂しい広場。そのベンチに座りうつむいている少年に声をかけたのは心配だったからか、それとも無言で地面の一点をただ見つめている姿に自分と似たものを感じたからだろうか。
彼はゆっくりと顔を上げ、こっちを向いた。
「え……?」
「さっきからずっとここに座ってるから。どうかしたのかなって」
右隣に腰を下ろすと、彼は戸惑った様子を見せながらもやがて家に居たくないのだと答えたので、私もだと言った。
それからしばらくは二人とも無言で、ただ地面を見つめたり雲を眺めたりしていた。しかし小さな猫が広場を横切った時は二人とも目を輝かせた。「かわいいね」と、二人で顔を見合わせて小さく笑う。それがきっかけになったのかはわからないが、彼は自分のことをぽつぽつと話し始めた。
「俺さ、怪我をさせてしまったんだ。義理の母親に、魔法で」
彼は父親が外で作った子供で、母親が亡くなったため父親に引き取られたのだという。浮気の結果として生まれた子供であるため家での扱いは悪く、その時も義理の母親の機嫌を損ね叩かれそうになっていたらしい。
「自分でもよくわからないんだ。その時はただ強い風が吹いた気がして……室内なのに変だなって、そう思った瞬間、義理の母親が目の前に倒れてた」
「それで……その、義理のお母さんは大丈夫だったの?」
「怪我自体は大したことなかったらしい。すぐに治療を受けられたこともあって大事には至らなかった。でもそれは言ってみれば単なる偶然で、もっとひどいことになっていた可能性もあるだろ。それ以来みんな俺に恐ろしいものでも見るような目を向けるようになって、以前にもまして関わることを避けるようになった。実際俺自身も、怖くて仕方ないんだ。あの時魔法は俺の意思で発動したわけじゃない。また無意識のうちに発動してしまったら、その時は本当に人を殺してしまう可能性だってあると思うと」
そんなことがあったんだ。最初に見かけた時から妙に思い詰めたような顔をしていると思っていたけれど、私の勘は当たっていたらしい。
彼は淡々とした口調で話していたが、彼の握り締めた手が小さく震えていた。それに気が付いた私はなんだかたまらなくなって、思わず彼の拳に自分の左手を重ねた。
彼は弾かれたようにこちらを向いた。明るい緑の瞳と視線が重なる。
「あのね、大丈夫だよ。あなたは人を殺したりしない」
それから、私は彼に魔力制御の発達について説明した。感情の高ぶりで意思にかかわらず魔法が発動してしまうことは幼少期には珍しくないこと。大抵は魔力の制御を徐々に身につけていくものだが、魔力を持つものが親族にいない場合だと適切な対応を取れないことがあり、それもまた珍しいことではないこと。なので彼のように幼児期以降でも魔力制御が身についていない例はそれなりに多いこと。他人を傷つけてしまったことは彼の責任ではなく魔法学校に行けばすぐに魔力のコントロールもできるようになること。
「ね? あなたは危なくなんかないよ」
安心して欲しくて、にこりと笑ってみせる。すると、彼は顔を赤らめ、なんだか魂が抜けたようなぼうっとした表情になってしまった。どうしたんだろう、一人で長々と話しすぎて呆れられてしまっただろうか。
「不安がなくなったわけじゃないけど、そうか、少し気が楽になった。ありがとう。それにしても、ずいぶん詳しいんだな」
「うちは魔力保持者が多い家系だしね。それに私、最近はすることがなくて本ばっかり読んでるから覚えちゃった」
「そうなのか」
「うん。今日も妹はパーティーがあったけど、私は……」
そこまで言って、この話をするなら私の家について話すことと同じだと気がついた。
「そうだ、私の話も聞いてくれる?」
私は自分と妹のことを話した。両親は美しい双子の妹に対しては惜しみなく愛情を注ぐが私には全く関心を示さないこと。そうした反応は両親だけではなく他の人も同じようなもので、私を気にかける人は誰もいないこと。
妹は美しく私は醜いのだから当然のことだとわかってはいるのにどうしても悲しいのだと話した時、そんなつもりは微塵もなかったのに、なぜか涙がボロボロ出てきてしまった。
「ぐす、きれいな妹がみんなに好かれるのは当たり前なのに、わかってるのに。私は醜いからみんなから好かれる訳ないって知ってるのに、でも妹だけが誕生日を祝ってもらっていたり、遊んでもらったりしているのを見ると、どうしても辛くなっちゃうの……うう」
「いやそんな、それはおかしいよ。当然じゃないよ。それに君は醜くないよ」
「気を使わせてごめんなさい……否定してもらいたかったとかじゃなくて、でもなんだか悲しくなってきちゃって、ごめんなさい」
これでは否定して欲しくてわざと自虐をしているめんどくさい人間のようではないか。相手の迷惑も考えず泣き始めてしまった時点ですでに自分に嫌気がさしていたが、ますます自己嫌悪が募った。
ああもう本当に嫌だ。ますます涙が出そうになった時、彼が言った。
「気を使ってる訳じゃない」
さっき私から重ねた手を、今度は彼からしっかり握ってきた。涙で濡れた顔をゆっくりとあげると、彼がじっとこっちを見ているのがわかった。少し顔が赤くなっている気がして、不思議に思った。
「君はきれいだ」
顔に急に熱が灯った。なんだか恥ずかしくてたまらなくなってさっと俯く。
「え、えっと」
「言っておくけど、気を使っているわけじゃない。外見もそうだし、初対面の俺の不安を解消するために君は手を握ってくれたし、必死に話をしてくれた。君は好かれるに値する人間だと俺は思う」
ますます顔が熱くなり、私はこくこくと頷くことしかできなかった。
その時まで私を認めてくれる人なんて誰もいなかった。それをこんなにまっすぐな言葉をぶつけられて、平常心で居られるはずがあろうか。しかも、「きれいだ」なんて。
後から思えば、私はこの時恋に落ちたのだと思う。
それからもポツポツと家族とか、読んだ本とか、猫のこととかについて言葉を交わしていたが、やがて日が落ちてきたことに気づいて私は立ち上がった。
「そろそろ帰らないと。パーティーももう終わっちゃっただろうし」
「……そうか」
「ねえ、また会える?」
「いや、実は魔力があるのがわかったことで、これから魔法学校に通わなくちゃならなくなったんだ。14歳だし入学の年齢には達しているから」
えっ14歳?と、私は内心驚いた。身長も同じくらいだし、まさか私より2歳も上だとは思わなかった。
「……じゃあ、会えないんだね。だけど私も二年後には入学する予定だから、そこでまた会えるかも。ここからだと多分、北部の学校でしょう?」
「うん。そうか、じゃあまた会えるんだな」
彼はポケットに手を入れると、何かを取り出した。そして取り出したものを私に差し出す。見ると、鍵モチーフのネックレスだった。石が埋め込まれていて、キラキラと輝いている。
「これやるよ」
「え!もらえないよそんな」
「これ実の母親の形見なんだ、気に入ってたみたいでいつもつけてた」
ますますもらえない!
困惑する私の手に、彼は強引にネックレスを握らせてきた。
じっと見つめられるとそれ以上拒否もしづらくなって、わかったと頷いた。
「また会おうね」
それが、私の初恋の思い出。
そのあとネックレスは見つからないように部屋にこっそり隠しておいたのだけれど、なぜか見つかってしまったようでいつの間にか妹が持っていた。もちろん返してほしいと言ったが、妹は両親に「友達からもらったのにエミリーが取り上げようとしてくる」と泣きついたため、私が怒られることになった。何度も返すよう頼むと、しまいには母親に殴られた。
妹は、たぶん嫌がらせのつもりなのだろう、よくそのネックレスをつけては私に見せてきた。もちろんそれはとても効果の高い嫌がらせだった。
そして13歳の春、私は魔法学校に入学した。
一学年で10クラスもあるので妹とはもちろんクラスが離れたが、私を取り巻く状況は家で過ごしていた時とそんなに変わりはしなかった。もともと妹が入学前から友人たちに私の悪評を広めていたせいで入学当初から一部の人からは嫌な目で見られていた。持ち前の美しさと人の心をつかむ魅力をもって瞬く間に学校中の人気者になった妹が私のことを自分に意地悪ばかりしてくる性格の悪い姉だと喧伝するものだから、入学から一ヶ月もすれば私はすっかり学校中の嫌われ者になっていた。
まあ、それは予想していたことなので特に問題はないのだ。
それよりも私の今気にかかっている問題は、入学から三ヶ月が経った今もあの日の彼に再会できていないことである。なぜあの日名前を聞いておかなかったのかと悔やまれるが、それは今考えても仕方がないことだ。あの日から二年弱経っておそらく三年生になっているはずの彼。校舎を歩く時にはずっと探しているのだが、まだ見つけられていない。
彼も、私のことを探してくれているのだろうか?
「三年生の教室に行くのも、視線が痛いしね……」
ため息をつきながら廊下を歩いていると、妹を取り囲む人々の群れが行く先に見えてますます気分が落ち込む。回り道をしようと思って踵を返そうとした時、前を歩いていた男子生徒がハンカチを落としたのが見えた。
慌てて呼び止める。
「すみません、ハンカチ落としましたよ」
「ああ、ありがとう」
こちらを振り返った彼の顔を見た瞬間、はっとした。柔らかなブラウンの髪、輝く緑色の瞳。間違いない、「彼」だ。
やっと会えた!
私は喜びを抑えきれず、ハンカチを渡しながら彼に話しかけた。
「あの! 私、一年生のエミリーと言います」
私のこと、覚えてますか。そう続けようとした瞬間、彼の顔がしかめられて言葉が出なくなった。
どうしてそんな目で見るの。
「君が、メアリーの姉か」
「え?そうですが……」
思わず普通に答えてしまったが、彼はなぜ私をこのような憎々しげな目を向けてくるのだろうか。私のことを覚えてくれてはいないのか。
「君はメアリーをいじめているらしいな」と、そう言われてようやく合点がいった。彼もまた学校中に広まっている私の悪評を信じ込んだ一人であるらしい。
私の心は深く沈んだ。一度妹の言葉を信じ私を嫌った人間で、その後誤解を解いてくれた人は一人もいないのだから。
でも、彼なら。あの日私にまっすぐな言葉を向けてくれた、彼なら。そう信じたくて、私は否定の言葉を発した。
「違います。私、妹をいじめてなんて」
「白々しい。やはりメアリーの言っていた通りだな」
即座に厳しい言葉が返される。
「そんな……」
「言っておくが、俺の前でメアリーに変な真似をすれば容赦はしないぞ。覚えておけ」
最後にきつく私を睨みつけ、彼は向こうに歩いて行ってしまった。
私は呆然として、しばらくその場に立ちすくんでいた。
初めて私を見てくれた彼も、結局私のことを嫌って離れて行ってしまった。やっぱり私は……そうなのだ。そうでしかありえないのだ。久しく感じていなかった絶望感。
授業が終わり寮の部屋に戻ってから、少しだけ泣いた。
それからしばらくして、私は彼を三ヶ月も見つけられなかった理由に気がついた。ダニエルという名前だったらしい彼は妹を囲む集団──取り巻きともいう──の一員で、その中心人物となっていたのだ。私は妹を見かけるとなるべく避け、絡まれてもエスカレートを恐れて妹以外とは目も合わせないようにしていたため、気付けなかったらしい。
やはり、私が望むものは全て妹のもとに行くのだな、と思った。美しい妹と醜い姉ではどちらに好意を抱くかなんて、わかりきった話ではあるけれど。
「おいエミリー。君はまたメアリーにくだらない嫌がらせをしたらしいな。聞いたぞ、歩いているとき足を引っ掛けようとしたんだって?なんて卑劣な」
ダニエルは私をメアリーの姉と認識したあの日以来、頻繁に私に妹への仕打ちについて注意をしてくるようになった。
いつも人に囲まれているメアリーに、私がどうやって足を引っ掛けられるというのだろうか。
「そんなこと、していません」
「君はメアリーが嘘をついたとでも言いたいのか」
その通りだ、と言いたいところだが、そのように答えてはまた余計な反感を買うだけだ。
「何か、勘違いでもしたのではないですか」
「白々しい言い逃れを」
「用がそれだけなら、失礼します」
また別の日には、
「おいエミリー。君はメアリーの制服を切り刻んだらしいな。君のせいでメアリーは私服で授業を受けなければならなくなっているんだぞ。もう言い逃れは許されない。メアリーに謝るんだ」
そう言い放って私の腕を掴み、どこかへ引きずっていこうとした。
「離してください。私ではありません」
「言い逃れは許されないと言っただろう。今回は証拠がある」
「証拠?」
私が首をかしげると、ダニエルはポケットから髪飾りを出して私に見せた。それを見た瞬間、心臓がどくりと大きく波打つのがわかった。
「これが現場の近くに落ちていたらしい。君のもので間違いはないな?」
そう、それは確かに私のもの「だった」。家に両親の客人が来た際に姉妹で違うデザインのものをもらったのだ。すぐに妹が自分のものにしてしまったため私のものであった期間はほんの少しだが、それを証言できる人はいない。両親でもこれは私のものだと言うだろう。
「それは確かに私のものでしたが……ずいぶん前に、なくしていたのです」
「苦しい言い逃れだ」
私は妹のクラスにまで連れて行かれ、妹や妹の取り巻きたちの前に立たされた。
多方向から、敵意の視線が突き刺さる。
妹が目を潤ませながら、口を開いた。
「エミリー、私の制服を切ったの、あなたって本当? 私、すごく悲しかったんだよ……」
それを皮切りに、口々から罵倒が飛んだ。
「最低!」
「気に入らないからって人の私物を壊すとか、おかしいと思わないの?」
「人を理不尽に傷つけておいて、心は痛まないのか」
「自分が醜いからって、妹に八つ当たりしても顔は変わらないぞ」
ダニエルも私に言った。
「メアリーに謝るんだ」
こうなれば仕方がない。こうした状況で意地でも謝らないという選択をすればますますひどいことになるというのは何度も経験済みだ。
ただ、彼も私を糾弾する側の人間になってしまったという事実は悲しかった。
「制服を切り刻んだりしてごめんなさい。反省しています。もう二度としません」
そう謝ると、「本当に反省しているのか」というような声も飛んだが、妹はにこりと笑った。そう、この美しい笑顔で妹は周りの人間をことごとく魅了するのだ。
「謝ってくれてありがとう。許してあげる」
「いいのかメアリー、この女は今までもずっと」
「いいの、エミリーは反省しているんだから」
なんて心が広い!と口々に妹を賞賛する周りの人々。全く、とんだ茶番だ。
実は妹の考えていることは昔からよくわからない。こうしてあえて私を貶めようとするのは何故なのだろう。自分の評価を高め立ち位置を盤石化するために私を利用しているのだろうか。ある人間をいじめるという遊びだろうか。単に私のことが嫌いなのだろうか。全部かもしれない。
妹たちが盛り上がっている間に私は教室を出たが、ダニエルだけは私を睨みつけているのを感じていた。
またまた別の日には、
「おいエミリー。君はさっき男子生徒に色目を使っていたな。魔法学校の生徒としての自覚を持ち、そうした慎みのない真似は控えろ」
などと難癖をつけてきたりもした。もはやメアリーには関係がない事柄だ。
もちろん「色目を使った」などという事実はないため、きちんと否定しておく。
「そんなことはしていません」
「いいや、俺は確かに見た。さっき男子生徒の体にベタベタと触っていただろう」
「……? ああ、多分それは彼の服にカナブンが付いていたので取っていたんです」
この調子である。思うに、最近の彼は妹と話すことよりも私を注意することの方に時間を割いている節がある。私を気に入らない人間は学校中にいるが、このような振る舞いをするのは彼だけだ。
再会した当初よりもますます完璧に私は彼に嫌われて行っている気がする。気がするというか、間違いない。入学前に会ったことがあると話せば思い出してくれないかな、とかたまに考えるのだが、話せるような雰囲気になったことがない。
寮に帰ってベッドに寝転がりながら、私はダニエルのことを考えていた。
どう考えても嫌われてしまっているし、以前あったことも覚えていないようだし、すっかり妹の言葉を盲目的に信じ込んでしまっているが、それでもどうしても私は彼のことを好きなままだ。声を聞くと、姿を見るとドキドキするし、罵倒されると悲しくなる。これが恋というものなのだろう、多分。
私のこと、思い出してくれないかな。好きになってくれなくてもいいから、嫌いではなくなってくれないかな。
なんてどうしようもないことを考えながら、いつも眠りにつく。
「おいエミリー。君は成績優秀だと聞いたが、課題をこなす能力よりも先に磨かなくてはならないところがあるんじゃないか?」
今日は嫌味パターンのようだ。彼に日々絡まれ続けた私は、絡まれ方を類型化し分類することができるようになっていた。なんだか私、とてもかわいそう。
「なんのことでしょう。言いたいことがあるのならはっきり言ったらいかがですか」
「わかっているだろう、君のその性格だ! もっとモラルを重んじ、他人を尊重し、清く正しく生きるべきだと言っているんだ」
「そんなことを言われても、私は私なりに清く正しく生きているつもりでいますから」
「またそんなことを」
彼は腹に据えかねたと言わんばかりにふんと鼻を鳴らし、吐き捨てるように言った。
「君は本当にどうしようもないな。見た目も醜ければ性格も醜い」
────醜い。
その言葉を聞いた瞬間、私が自分の心の奥に大事にしまっていたものに、ヒビが入るのを確かに感じた。
恥ずかしくないのか、とかよくも平然と、とか彼はそれからも色々話していたけれど、全く頭には入ってこなかった。
妹は美しく、私は醜い。当然だ。自明だ。誰だって分かることだ。
彼は確かに昔私のことをきれいだと言ってくれたけれど、それは妹を見たことがなかったからにすぎない。妹を見ればわかるはずだ。その言葉を向けるべき正しい相手が。自分が信じるべき相手が。
彼はもう二年前の彼ではない。それだけのことだ。
いつの間にか、さっきからずっと聞こえていた彼の声が聞こえなくなっていた。彼は無言になってこちらを凝視していた。どうしたんだろう。不思議に思ったが、自分の頬を水滴が伝う感触にはっとする。
彼に背を向け、早足でその場を立ち去った。
私が後生大事に持っていた思い出は、誰にも決して話さない。これまではいつか機会が巡ってきた時にあの日の話をして、もしも思い出してくれたなら少しは……私の言葉を聞く隙間を開けてくれるんじゃないかなんて、都合のいいことを考えたりもしていたけれど。馬鹿な幻想だ。大切に抱えていたのは私だけで、彼にとってはきっと取るに足らない出来事。
誰にも話さなければ、誰にも傷つけられることはない。あの日の思い出は私だけのものだ。私の言葉を聞いてくれた、まっすぐに見つめてくれた、あの記憶を支えに私は生きていける。
「おいエミリー」
「……」
無言で踵を返す。なんとなくうまく対応できる気がしなくて、あれ以来はいつものごとくダニエルに絡まれても反応を返さないようにしていた。こちらの心情を察してほしい……というのは無茶な要求にしても、とりあえず、少し放っておいてほしかった。
なるべく早く彼から遠ざかるよう足をうごかした。
「ふう……」
一人になりたくて、校舎の脇にあるベンチに腰を下ろす。
人通りの少ない場所なので誰も来ないだろうとしばらく気を抜いてぼーっとしていたが、誰かの足音が近づいてきてふとそちらに顔を向ける。
「相変わらず寂しいね、こんなところに一人で。友達もいないの? かわいそうに」
近づいてきた少女はこてん、と小首を傾げてみせる。首元には見覚えのある鍵モチーフのペンダントが輝いていた。
「メアリー……」
「こうして二人で話すのは久しぶりだね。入学前以来かな?」
「何の用……」
そう問うと、妹は肩をすくめた。
「せっかく私が話しかけてあげたっていうのに、相変わらず愛想がない。まあいいや、今日はね、話があって。実は私、最近気になる人がいるんだぁ。もしかしたら恋人ができるかも」
……なぜそんなことをわざわざ私に?
いぶかしく思う私の心情を察したように彼女は続けた。
「姉妹だから一応知らせておこうかなって。それに、エミリーはいつも一人だから心配してたんだよね。妹に恋人ができるかもって聞けば、これを機に自分も恋愛をしようという気になるかもしれないでしょ?」
意味がわからない。私たちは恋愛の報告をしあうような仲の良い姉妹じゃないし、彼女が私の心配をしたことなど生まれてから一度もあるとは思えない。
意図がつかめず、曖昧に相槌を打った。
「ああ、うん」
「つまらない反応。それだからみんなに嫌われちゃうんだよ? とりあえず、話はそれだけ。じゃあね」
それだけ言うと、私に背を向けて彼女は去っていった。結局何がしたかったのかと疑問に思いながらその後ろ姿を眺める。
すると彼女は急にくるりとこちらを振り返り、私に告げた。
「そうだ、言い忘れてた。私の気になる人ね、ダニエルっていうの」
エミリーも知ってる人でしょ?と、天使の笑顔で。
それ以来、妹とダニエルが仲よさげに寄り添っている姿を校内で頻繁に見かけるようになった。彼が私に話しかけてくることは減り、話しかけてきたとしても私はまともに返事をすることなく立ち去る。
彼が幸せなのだからとても良いことだと思う。多分おそらく。
いつものように校内を一人で歩いていると、ダニエルが誰かと一緒に歩いているのを見かけた。相手が妹であればいつものことなので特段気をとめることでもないのだが、今回は男子生徒だった。見覚えがあるなと思い少し記憶を探り、妹の取り巻きの一人だと思い出した。神経質そうな雰囲気の黒髪の男だ。
彼らが向かっている方向には特に何もなかったはず。それにどちらも言葉を発することなく完全に無言だということもあり、何となく不穏な雰囲気を感じてしまい何となく後をついて行ってしまった。私は何をやっているんだろう?完全に怪しい人だ。
二人はやはりどこに立ち寄る訳でもなく校舎の隙間を奥に進んでいき、校舎裏で立ち止まった。
私は校舎の陰からその様子を覗く。
「話があるって言ったが、俺の話に心当たりはあるか」
「……メアリーのことか?」
「そうだ。わかってるんじゃないか」
それまで押し殺すように静かな口調で話していた男は、突然怒鳴るように大声を出した。
「彼女が迷惑がっているのがわからないのか! ベタベタとひっついて……強引に彼女につきまとったところで彼女がお前のものになるわけじゃないぞ!」
「お、落ち着いてくれ。別に俺はメアリーにつきまとってはいない。最近一緒に行動することが多いのは彼女が」
「彼女がお前のことを好きだとでも言いたいのか? はっはっはっは! なんといううぬぼれだ、そんなことがあるわけないだろう!」
私の位置からは彼の血走った目や、つばを飛ばしながら怒鳴り散らす口が正面から見えた。正気には見えない。ダニエルは後ろ姿しか見えないが、狼狽している様子は窺えた。
「待て、俺はそんなことは言っていない。とりあえず落ち着いてくれ」
「なんだ、冷静な振りをすることで精神的有利を気取るつもりか? 言っておくがお前のそのような態度は自分の内心をあえて隠すことで不利になるまいとする卑怯さや当面の問題回避にしか関心を向けない無思考性を露呈しているにすぎないぞ」
「……なんだと」
そこで、あくまで冷静に相手を諌めていた彼の声のトーンが変わった。
見ている私は焦る。そこで挑発に乗るのは明らかに悪手だろう。
「お前などに俺の何がわかる。言っておくが、お前の今やっていることは自分の願望を相手の意思に勝手にすり替える行為だ。俺を卑怯だと糾弾しておいて自分の行為の卑怯さには目を向けないのか」
「彼女を苦しめるお前などに説教される筋合いはない! 素直に彼女から離れれば許してやろうと思っていたが、やはりクズは粛清しなければならないな!」
男はそう叫ぶと、ブツブツ何かを呟き始めた。
何か明らかに危ない雰囲気だ。やはり挑発に安易に乗るべきではなかったのだ。
それにしても一体何をしているのだろう? 男のほうをじっと見つめていると、突然男の手のひらの上に浮遊する氷の刃が現れた。
攻撃魔法だ……!
「お前のようなクズは消え失せろ!」
男はそう叫ぶと、手のひらの刃をダニエルに向かって投げつけた。勢いよく彼に向かって飛んでいく。ダニエルは間一髪で避けたが、男は両手で次々と刃を投げつける。ダニエルはそれを避けながらジリジリと後退する。
この氷の刃のような強力な魔法は詠唱が必要にしても、軽い反撃くらいならできるのではないのか。なぜ避ける一方なのだ、と考えて、気づいた。
入学前に彼に会ったあの日、彼は自分の魔法で他者を傷つけることを怖がっていた。もしかしたら、未だに魔法を他者に向けることができないのではないか。もしそうなら、このままでは。
その時、彼の肩を刃がかすめ、バランスを崩した彼は地面にうつ伏せに倒れこんだ。
まずい、これでは。
「ちょこまかと逃げ回りやがって。だがこれで終わりだ。彼女に付きまとう害虫は消えろ!」
男が目をぎらつかせて叫ぶ。
男の手には一際大きい刃が輝いていた。それがダニエルに向かって投げられた時、世界が一瞬時を止めたかのように感じた。その瞬間。私は何も考えず彼を背中でかばうようにその場から飛び出していた。
次に感じたのは、衝撃と背中の焼きつくような痛み。一瞬意識が飛びそうになる。
背後の誰かが走り去る音で、あの男がこの場を去ったことがわかった。安堵で体の力が抜け、目を閉じた。
ダニエルが私の体の下から抜け出し、私の体を抱き起こしたのを朦朧とする意識の中で感じた。
「エミリー……?」
強烈な背中の痛みで何も考えられない。
ダニエルの叫び声が霞む意識の中で聞こえた。
「エミリー! 君がなぜ俺のことをかばう。何が目的だ! 俺は、俺は君が俺に恩を売ろうと決して思い通りにはならない!」
彼の体温を感じる。思考がどんどん薄れていくのがわかる。
「何が目的だ、エミリー、目を開けて答えろ! エミリー!」
彼の必死な声を聞きながら、私はうっすらと目を開けた。
もう頭はまるではたらかないけれど、私が彼をかばう理由は考えるまでもなく一つだった。力を振り絞り、口を開く。
「あなたは……私の、初恋の人だから」
囁くような声で発された言葉が彼に届いたのかはわからなかった。私はそのまま意識を失った。
目が覚めると見えたのがいつもの部屋の天井ではなかったので焦った。慌てて体を起こそうとすると背中に痛みが走り、思わずうめき声を漏らす。
「うう……」
「おい動くな! まだ完全には治ってないんだ」
私が寝ているベッドの横に座っていたダニエルが言った。
「怪我の処置は既に済んで、治癒魔法もかけられた。だが今はまだ完治はしていないため安静にしていなければならないそうだ。それと……完治しても、もしかしたら傷は残るかもしれないらしい」
「そうですか」
彼は妙に気遣わしげだったが、私自身は傷が残ることは気にならなかった。誰に見せるわけでもないし特に問題があるとは思えない。
「そういえば、あなたは大丈夫だったんでしょうか?」
「俺? ……ああ、俺は切り傷ができたくらいで。というか、それよりも少し聞きたいことがあるんだがいいか」
真顔でそう問われ、私は頷いた。
「俺と君は、以前に……つまり君が俺のハンカチを拾ってくれたあの日以前に、会ったことがあるのだろうか」
私は少し考えてから答えた。
「あなたは覚えていないと思います。思い出す必要もありません」
「必要とかそういう話ではないだろう」
「私、恩を売るつもりもあなたに何か要求するつもりもありません。だからあなたがこれ以上私に関わる必要もありません。この話はここで終わりでいいんじゃないでしょうか」
私の言葉を聞いて彼は焦ったように言った。
「待て、そんな! いや、そんな話が信じられるわけがないだろう。君が俺に何か要求するつもりがないと主張しそれを俺に信じて欲しいならば、君が知っていることを話すべきだ。俺には事実を聞く権利がある!」
「私は話すつもりがないと言っているんです。あの時は頭がはたらかなくて口が滑っただけで……。ともかく、信じられないというならそれで構いません。別に私があなたの弱みを握っているとかでもないのですから、私が何を言っても無視すればいいだけの話でしょう。もし私が怪我をしたことで罪悪感があるなら、それは不必要です。私のことは気にしないでください」
彼は顔をしかめてしばらくは言葉を探していたように見えたが、やがて溜息を吐いた。
「安静にしろよ」
それからしばらくは学校から授業に出ることを許されず、一週間は寮の自室で休むことを命じられた。「安静に」とはいうものの、治癒魔法の効果もあり痛みは二、三日でかなりマシになったのでただ退屈なだけだった。
特にすることもないのでおそらく今頃授業で扱っているであろう内容の自習をして時間を潰すことにした。そうすればクラスに戻った時授業についていけなくて困ることもないだろう。
黙々と演習問題を解いていると、部屋のドアがノックされる音が聞こえた。
「エミリー、いるんでしょ? お見舞いに来たよ」
「……メアリー?」
警戒しながらドアに近づいた。
「どうしてここに?」
「え、やだなぁ、お見舞いに来たって言ったでしょ」
「どうしてあなたが私のお見舞いに来るの」
「どうしてって、姉妹なんだから怪我をしたら心配するに決まってるでしょ? とりあえず開けてよ」
怪しんだものの、ここで拒否したところで妹が大人しく引き下がるとは思えない。
そう言われて恐る恐るドアを開け、外を見た瞬間私は一瞬固まった。
「驚いた? ダニエルと一緒にお見舞いに来たんだよ!」
妹が勝手に部屋の中に入っていくのを私は苦い気持ちで見つめた。ドアを安易に開けるんじゃなかった……。
「ええと、悪いな。急に押しかけて」
珍しくバツの悪そうな顔で私に謝るダニエル。
どうもこの感じだと、彼は妹に強引に連れてこられたのかもしれない。だとしたら彼のせいではない。
「いえ、いいです。部屋に入られるのでしたらどうぞ」
そう言って促すとおずおずと中に入っていった。
私も続いて部屋に戻ると、妹がすでにソファーに座っていた。ダニエルを手招きで呼んで隣に座らせる。
私はベッドに腰掛けた。
「それで、怪我は大丈夫だったの?」
「まあ、医務室で治療してもらったから痛みもほとんどないよ」
妹に聞かれたことに答えると、彼女はふーん、と呟きながら頷いた。
「それならよかった。ダニエルをかばって怪我をしたっていうから心配してたんだよ。ね、ダニエル」
妹はダニエルの腕に自分の腕を絡ませぎゅっと引き寄せる。
彼はなぜか無反応で、妹はそれに不満げな顔をして指で彼の頬を突いた。
「ちょっと、聞いてる?」
「えっ。ああ、悪い」
「もう、しょうがないなあ」
妹は私ににこりと笑いかけた。
「そうだ、私からもお礼を言わないとね。怪我をしてまで彼をかばってくれたこと、本当に感謝してるの。ありがとう」
「……別に、お礼を言われることじゃないよ」
「ううん、だってダニエルは私の大切な人だから。大切な人を助けてくれた人に感謝するのは当たり前でしょ?」
妹はそう言って、「あっ」と何かに気がついたように口を押さえた。
「怪我人の部屋にあんまり長居するのもよくないよね。ごめんね気がつかなくて。じゃあ私たちそろそろ帰ろうか、ねえダニエル」
やっと出ていくのか、と内心安堵した。見舞いというのは当然口実で、おそらくは私への牽制のために来たのだろう。眼の前でいちゃつく姿を見せられるのは気分のいいものではなかったので早く出て行ってもらいたい。
妹はダニエルの手を引いて部屋を出て行こうとした。さっきからずっと上の空な彼は特に抵抗することもなく妹に連れられていく。だが、「じゃあね」と笑って妹が扉を開けようとするその瞬間、
「待ってくれ」
彼は妹を引き止めた。
首をかしげる妹。私も何かあったのだろうかと不思議に思う。
「何か忘れ物ですか?」
「いや、少し聞きたいことがあって。ずっと考えていたことがあるんだ」
彼はそう言って、妹のほうを向いた。
「俺が二年前会った女の子は、本当にメアリー、君だったんだろうか」
妹が目を見開く。
私も彼が妹に投げかけた質問の意味が分からず、頭が疑問で埋め尽くされた。
どういうこと? 私は二年前ダニエルに会ったことがあるけれど、妹もほぼ同時期に彼に会っていたのだろうか。私があったということは近くに住んでいたのだろうし、ありえないことではないかもしれない。
いや、でも今聞いた内容からして本当は会ってなかったかもしれないということ?
「え、当たり前だよ。だってその時このネックレスをもらったんじゃない」
ネックレスをもらった……?
妹が示したネックレスは、はっきりとは見えなかったが私が二年前もらって妹に奪われたものに似ているような気がした。
私の視線に気づいた妹は慌てたようにダニエルの腕を引いた。
「この話、部屋の外でしない? エミリーは関係ないし、怪我人の部屋で騒ぐのは迷惑だよ」
「いや、もしかしたら彼女にも関係がある話かもしれないからここで話したい」と、そう言って彼は一瞬だけ私の方にちらりと目線を向けた。
そして彼は自分の中にあったという違和感を話し始めた。
「二年前に君に会ってそのネックレスを渡した。確かにそう思っていたんだが……よく考えると、あの時会った彼女は自分に妹がいると言っていた気がするんだ。最初は単なる記憶違いだと思っていたが。それに親とうまくいっていないと聞いた記憶もあるが、君はかなり両親と仲がいい。気のせいだと思おうとしたが、他にも色々と違和感があった。そう考えると見た目も違っていたような気がして。俺は人の顔を覚えるのがあまり得意ではないんだが、あの日会った女の子の瞳は君よりももっと深い青だった気がするんだ。ちょうどそう、エミリーのような……」
彼がそこまで話した時、妹はため息をついた。
「なんだ、聞きたいことがあるとかいって質問の形をとってるけどもう確信してるんじゃん。そういうのって感じ悪いよ。……まあ答えとしてはあなたの予想通り、あなたが二年前に会ったらしい子は私じゃない。これで満足?」
「な! じゃあなぜ嘘をついたんだ」
「だってよりによってエミリーに間違えられて腹が立ったんだもん。エミリーじゃないって知ってがっかりされるなんて冗談じゃない。そもそもあなたが勝手に勘違いしたのが悪いんでしょう」
彼女らの会話を聞いて私はますます混乱してきた。一体どういうことなのか当事者の一人であるはずなのにさっぱり理解できていない。
つまりダニエルは二年前に私と会った時のことを忘れてはいなくて、でもその相手を妹と勘違いしていたということなんだろうか。今までずっと? でもなぜ?
「間違えたのは悪かったかもしれないが……だが、俺が昔あったことがあるかと聞いた時に、肯定したのは君だろう」
妹は呆れたように肩をすくめた。
「馬鹿馬鹿しい。はっきり言うけど、そんなので騙される方がおかしいんだよ。だって私の発言を裏付ける証拠らしい証拠なんてネックレスくらいでしょう? 現にあなただって私との会話から矛盾を感じてたわけだし、エミリーに話を聞くくらいすぐできたんだから本来すぐ気づけたはずでしょう。それをしないで私の言葉をはなから信じ込んでエミリーを攻撃していたのは単にあなたが愚かなだけ。私のせいにしないでよね」
言い終えると、妹はネックレスを外してこちらに投げた。急なことで少し慌てながらもつかむことができた。つまらなそうな顔で部屋のドアを開く妹。
「返す。もう帰るから。じゃあね」
そうしてドアが閉められ、部屋に取り残されたダニエルと私。
何か話すべきなのかと思ったが何を言えばいいのか分からず黙っていた。彼も何も話さないため、完全な沈黙が続く。
いい加減に気まずくて逃げ出したくなってきた時、ようやく彼が口を開いた。
「つまり、二年前に俺と会ったあの女の子は君だと、それで間違い無いんだろうか」
「まあ、そうですね」
「俺が散々注意していた君の悪行は全てメアリーの嘘……なんだろうか」
「まあ、そうですね」
「だとしたら……」
ふと彼の声が震えていることに気づいた。彼の顔は蒼白で、今にも倒れそうに見えた。
心配で近くにより、声をかけようとする。
「だ、大丈夫ですか」
「だとしたら俺は、なんていうことを君にしてしまったんだろう」
絶望そのものといった表情の彼。その顔を見ているとなんとしても彼を苛むものを取り除かなくてはならないような焦燥にかられる。私は彼の手をそっと握った。
「落ち着いてください、大丈夫ですか」
彼の手を引いて、さっき座っていたソファに再び座らせた。
彼が口を開いた。
「俺は……君の話も聞かず一方的に君を責め、攻撃した。やってもない罪で謝罪を強要した。君を侮辱した。許されない最低なことをしてしまった」
「そんな、そこまで謝られるようなことはされていません! それにもし妹のさっき言ったことを気にしているのなら、その必要はありません。あんなのは詭弁です、あなたは妹の話を信じただけにすぎません。醜い私よりも美しく魅力的な妹の話を信じるのは当然で、あなたは何も悪くありません」
「待ってくれ」
彼が顔を急に上げて私を見た。
「それは違う。俺がメアリーの言葉をそのまま鵜呑みにしてしまったのは、ずっと会いたかった君にようやく会えたと思って舞い上がってしまったからで、疑うという発想を持てなくなってしまったからだ。もちろんそれは君の話を全く聞かず一方的に決めつけて責め立てた言い訳にはならないが。だが、決して君の妹が美しいとか、ましてや君が醜いからなどではない」
正直、あまり信じられなかった。今まで妹を見た人間がことごとく妹の魅力にやられてしまい、時には盲目的に従うようになる様子を私は見てきているのだ。きっと彼は事実ではないことで他人を糾弾したことに罪悪感を覚え、少しでも私を傷つけないようにと考えているのだろう。だって、彼も私のことを醜いと言っていたではないか。だがそれは当然のことであり、罪悪感を覚えるような事柄ではないのだ。
私が彼の言い分を信じていないことはもしかしたら表情で伝わってしまったかもしれない。
彼は一度何かをこらえるように強く目を閉じ、言葉を続けた。
「俺は以前、君のことを外見も内面も醜いと罵倒した。それで君のことを泣かせてしまった。言い訳のしようもなく最低な行為だったと思う。だがこれだけは信じてほしい、あれは本心ではなかった」
「そんな風に気を使ってもらわなくても」
「違うんだ、聞いてくれ。俺はメアリーの話をすべて鵜呑みにしていたときからずっと、本当は君のことを醜いと感じたことなどなかった。でも君のことを妹のことを執拗にいじめる最低の人間だと信じこんでいたから、そういう風に……つまり、君をきれいだと感じることは、許されないと思っていた。君を醜いと感じることが正しいと思っていた」
私が醜いのは単なる事実なのだから、私のことを気遣う必要なんてないのに。でもそう言ってもきっと彼は聞いてくれないだろう。そう思って口をつぐむ。
「俺を信用できないのは当然だと思う。その上で、俺が君にしたことは許されないし、できる限りで償っていく。それは君に受け入れてほしい」
そう言って、彼はさっきから重なったままだった私の手を強く握った。そしてすぐに手を離して立ち上がる。
彼は部屋のドアを開け、出て行く直前にまっすぐに私を見据えて告げた。
「ずっと、会いたかった」
私は彼が帰ってしまった後も、なんだか色々と頭が混乱してしまってしばらく何も手につかなかった。
それから、私がクラスに復帰するまでの間ダニエルは毎日部屋にお見舞いに来た。
といっても私の怪我はほとんど治っているので申し訳ないような気がしたが、彼は毎回お菓子を持ってきてくれたので二人で食べながらこれまでのことを少しずつ話した。
彼の言葉の節々から私への罪悪感が伝わってきて逆に申し訳なくなったりしつつ、彼が私と二年前会った時のことを忘れてはなく、再会する日を心待ちにしていたのだと聞いた時は素直に嬉しかった。
私もずっと会いたかったと伝えた時は、彼はこちらをじっと凝視してきたけれど、その目の奥に暗いものが見えた気がして少し怖かった。怒っているわけではないと言われたけれど、よくわからない。
そして怪我から一週間が経って授業に参加できるようになった日には彼が寮の前まで迎えに来て校舎まで同行してくれ、昼休みにはなんと教室まで迎えに来てくれた。
「もしよければ、昼を一緒に食べないか」
周りの好奇の目線が気になり、とりあえず了承して教室を出た。
食堂で昼食を買い、人気のない場所のベンチに二人で座る。
「あの……誘ってくれたのは嬉しいんですけど、私と一緒にいるとあなたまで悪く言われてしまいますから」
だからこれからは私に関わらないほうがいい。そう伝えたが、帰ってきたのは一言だけだった。
「そんな心配はない」
どういうこと? と私は考え、あることに気がついた。
一週間の療養の後、帰ってきてから、常につきまとっていたはずの悪意に満ちた目線や聞えよがしの悪口がまるでないのだ。
ちらりと彼の顔を見ると、彼は悲しげな表情を浮かべた。
「それとも、君に数え切れないほどの暴言を吐き、ひどいことをした俺の顔など君はもう見たくないだろうか」
そう聞かれた私は反射的に答えていた。
「そんなわけありません!」
「そうか、よかった」
安堵したように微笑む彼。その瞳の中に以前にも見た暗い影がちらついたような気がしてじっと見つめると、彼はうっとりしたような表情でこちらを見つめ返した。
その瞬間、私はたった今気づかないうちに重大な決断を下したかのような、決して引き返せない道に足を踏み入れたかのような、そんな感覚に陥った。
だが、先ほどまでの言動を思い返しても思い当たる節はない。きっと気のせいだろう。
私は彼が重ねてきた手を、鼓動を高鳴らせながらそっと握り返した。
モヤモヤするって声が多かったのでダニエル視点でその後の話を投稿しました。といっても、あまりすっきりはしないと思います(申し訳ない)。