背中の痛み
御影のスキル――〈時間操作〉。
すべての時を司るこのスキルは、世界の時間すらも操ることができる。
すなわち、タイムトラベルだ。
御影は世界の時間を過去に戻し、己の意識だけをその時に戻すつもりらしい。過去のある時点で今の記憶を保持しているわけだから、間違いなく最強だ。
未来から来た御影に、俺が勝てるわけない。加藤だって、魔王だって勝てないかもしれない。
世界は御影の思うままになる。
これは……魔王なんかよりも本当に恐ろしいことだと思った。
「〈時間操作〉、最終奥義っ!」
御影がそう叫んだ。
時間移動を完成させようとしているのだ。
止めたい……が、俺の体はついに動かなかった。さっきのケガのせいで、手がしびれてうまく動かない。
あと……一歩だったのに。
こんなところで……。
「クロノ・リープっ!」
御影が、技を完成させた。
瞬間、世界が黒色に染まった。
「え……」
俺は、確かにホテルの一室にいたはずだった。
しかし今、俺が立っている場所こそホテルの床であるものの、周囲にあったベッド、壁、電灯やドアはすべて消失してしまった。延々と暗い何かが広がっている、そんな奇妙な場所だった。
いや……待て。黒い空間の先に……光る星のようなものが……複数、キラキラと……。
この景色は。
もしかして、宇宙?
「ふひひひひひひひひっ」
不意に、笑い声が聞こえた。
御影だ。
俺の近くにいた御影は、この景色の変化から逃れることができたらしい。
「きみのちっぽけな盾が、スキルを妨害してるみたいだね。往生際が悪いよ。さっさと諦めてくれないかな」
「…………は?」
「ひょっとして分かってないのかな? 時間が巻き戻されたから、地球が移動して宇宙空間に放り出されたんだよ」
……。
地球は太陽を中心に回っている。だから仮に世界の時間を巻き戻せば、〈アイギス〉でスキルを無効化した俺たちだけが宇宙に放り出される。
にわかには信じられないが、少し考えれば自明の理だった。
「あはははは、安心してよ。過去に戻って君を殺したりはしないからさ。君はハーレム王からただのモテない男に戻るだけだよ」
「誰がお前の言うことなんか聞くか。お前こそ諦めてスキルを止めろっ!」
「言ったでしょ。うまく調整できないって。もう……手遅れだよ。このままってわけにもいかないでしょ? 何も感じてないわけじゃないよね?」
「…………」
そうだ。
確かにこの盾は御影のスキルを防いでくれている。しかしこの盾の効果範囲は、せいぜい一メートルか二メートル前後。世界全体を塗り替えた御影の力には遠く及ばない。
確かに、俺の周りだけは防げている状況だ。だがよく考えてほしい。一歩外にでれば宇宙空間なのだ。空気、気温、放射線、重力。ありとあらゆる意味で地上と法則の異なるこの場所だ。
先ほどから肌が冷たく、ちりちりしていることは決して勘違いなどではない。空気も薄くなっているように感じる。〈アイギス〉の向こう空間に、周囲の環境が干渉しているのだ。おそらく……このままでは遅かれ早かれ俺たちは死んでしまう。
「お父さん……」
そばにいたリンカが震えている。
……ああ、そうか。
これはもう、勝てない。
認めたくないけど、認めざるを得ない。御影はスキルを完成させたのだ。俺はその巨大な濁流に飲み込まれたただの人間。今にも流されそうな木の枝に必死にしがみついて、御影の不幸を願っているだけの無力な存在だ。
俺に残された選択肢は二つ。
このまま、死ぬまでスキルに抗い続けるか。
それとも、御影の過去改変を受け入れるかどうか……。
結論は、決まっていた。
このままでは俺も、そして何よりリンカも死んでしまう。俺が死ねば〈アイギス〉は解除され、御影の時間操作は完成する。つまりここでどれだけ抵抗しても、結果は変わらないのだ。
このまま……いたずらに恐怖と苦しみを長引かせる必要は……なかった。
俺は、負けたのだ。
「いいか、御影! よく聞け!」
確かに、俺は負けた。
だが、言わなければならない。
「悪は必ず滅びる! お前がどれだけ強力なスキルを持っていても、知識を持ったまま過去に戻ったとしても、お前は必ず失敗する! 悪人にふさわしいみじめな末路だ!」
「ああ……だったら安心だね」
「何っ!」
「だって僕は、異世界転移物語の主人公なんだからね。悪いことなんてしてないからっ!」
「……この、屑野郎が」
俺は……負けた。このまま過去に戻れば、ここで御影と戦った記憶すらなくなってしまうだろう。
だが……俺は信じている。
御影は、報いを受けるべき男だ。
たとえ俺がいなくても、この男には裁きが下る。それだけの悪事をしでかしてきたんだ。
俺は、ゆっくりと〈アイギス〉を手放した。
「お父さん……」
「リンカ」
二人で抱き合い、最後を迎える。
どうか、この技が失敗しますように。
御影の存在が、消えてなくなりますように……。
**********
…………。
…………。
…………。
……えっと。
そうだ、僕は……。
スキルの最終奥義を発動して、過去に戻ろうとしてたんだった?
下条君に追い詰められて、でもなんとかスキルを完成させたはずだよね?
あれから……どうなったんだ?
う……。
痛い。
なんだ、これ。
背中が……痛い。
「……らぁっ!」
痛い。
痛い。
痛い。
背中からの激しい衝撃に、僕は背骨が折れてしまいそうな感覚だった。何が起きているのか、全く分からない。目だって、ちゃんと開けてるはずなのに、目の前は暗いままで……。
「……らっ! おらっ!」
……あれ?
僕、今、うずくまってるのかな? 顔を床につけて、縮こまってる? 光がさしてこないのは……そのせい?
それに、さっきから変な声が。
「おらっ、おらっ、おらあああああああああっ!」
顔を上げると、光に目が眩みそうだった。
そこは宇宙でもなければホテルの一室でもない。潤沢な窓から光の差す廊下だった。僕にとってなじみの深い、そう……学園の廊下だった。
「おらああああああああっ!」
加藤君が怒りの形相で僕の背中を蹴っていた。これまでずっと感じていた鈍い痛みは……これのせいだったんだ。
「痛ぇか? 新ちゃん。お前が悪いんだぜ。ぼそぼそ気持ち悪い独り言ばっかり言ってるからな。ったく、こんだけ指導してるのに、いつになったらまともになってくれんだ? なあおいっ! 返事ぐらいしろやああああああああああああ!」
痛みとともに、思い出す。
懐かしい。
まだ異世界に行く前、僕はこうして加藤君にいじめられていたんだ。気持ち悪いとか気に入らないとか、意味不明な理由で暴力を振るわれていた。あの頃の僕は抵抗する力もなく、ただその災厄に震えているしかなかった。
そして周囲の光景は、僕の知っている世界の姿とは明らかに異なっていた。魔族が侵攻して以降、関東地方には人がいなくなり、人々は避難をするしかなかった。でも今、窓の外の校庭からは運動部の掛け声が聞こえたり、吹奏楽部の演奏が響いてきている。
それはまるで、魔族が侵攻する以前のようで。
加藤君の様子。
そして周囲の状況。
僕は理解した。あの時、下条匠の妨害があったけど、確かに……最終奥義は完成したのだ。
つまり、僕は戻ってきたんだ!
まだ魔族がこの世界に来る前、そして僕が異世界に行く前の……過去の時間へと!
僕はやり直せるんだ!
未来の知識をもったまま、新しい未来を歩めるんだ!
ここから御影君のやり直し編が始まります。




