無人の町
元の世界、教室にて。
雫が破水した。
破水は出産へと至る兆候の一つだ。俺は鈴菜たちを含め四人の出産に立ち会ったことがあるから、そのことをよく知っていた。
少し急すぎる気がするけどな。陣痛の方が先だったような……。
「雫、陣痛は?」
「…………」
雫が首を横に振って否定する。
「……異世界転移の影響か、それともそういう体質だったのか。前期破水を起こしている可能性がある。もう臨月であることを考えるなら、すぐに陣痛の始まる可能性が高いよ」
鈴菜の言葉に、俺は状況を理解した。
雫の出産が始まる。
だけど俺たちは異世界転移で向こうの世界に行っていた。そこで妊娠して、子供を産んで、暮らしていくつもりだった。
ここで産むつもりはなかった。ましてや親も教師も友達も、雫の妊娠なんて知らないんだ。俺たちは手紙だけ置いて……帰るつもりだったんだから。
「……産婦人科に連れて行こう」
俺はそう言った。
異世界に行ってた、なんて夢のような出来事を信じてもらえるわけがない。今ここにある現実は、雫が出産しそうで、その父親が俺であるという事実だ。
行方不明の雫が妊娠して、その親が俺なんだ。社会的に好奇の目で見られるのは火を見るより明らか。身分を明かせば穏やかな暮らしは望めない。
……けど。
「雫と、生まれてくる子供の命には代えられない。俺が罵声を浴びて無事に出産できるならそれでもいい。すぐに病院に連れていくべきだ!」
「私も匠の意見に同意だ。もう時間がない」
つぐみも同意してくれた。
「この近くに産婦人科は無かったと記憶している。タクシーか、あるいは救急車を呼ぶのがベストか。誰かに電話を借りるのが一番だろう。優しい人なら事情を説明すれば車を出してくれるかもしれない。エリナとりんごはここに残して、私たち六人が外に出るべきだ」
移動の際、姿を消すための道具がある。俺たち六人はこいつを持っているから、むやみやたらに人目につく心配はない。
りんごは臨月近く。
エリナは妊娠三十週。
二人を残すのは妥当な判断だと思う。
俺たちは連絡手段を探して奔走した。
偶然、近くを歩いている教師とか、学校近くの民家とか、コンビニの店員や客とか。誰でもいい。電話で連絡さえ取れれば、それで。
誰かに助けを求める。
意を決して俺が表明したその提案。ハードルは高かったが、いざ決断するととても簡単なことだ。どこかの誰かに声をかけるだけでいいのだ。
……などと、楽観的に思っていた。
現実は、俺たちが思っていたよりもずっと深刻だった。
まず廊下を走って職員室に向かった。電話を借りるためだった。しかし職員室には誰もおらず、それどころか電気も点かず電話もつながらなかった。
次に俺たちは外に出た。
外には、誰もいなかった。
この学校は住宅街の周辺に建てられているが、近くには繁華街へと繋がる大きめの道路やコンビニなどがある。人や車の往来が途切れるのは深夜だけだ。
しかしそこには誰もいなかった。
車も、人も、店員も……誰も。
俺たちはその後、手分けして人を探すことにした。
そして――
「一体……何が起こってるんだ?」
約四十分間、近くを走り回った俺たちは再び教室に集まっていた。
それほど時間はたっていないのに、皆が疲労を感じて顔面が蒼白だった。
俺は四十分間走り回った。コンビニと美容院。軽く足を踏み入れてみたが、そこには誰もいなかった。電気もついていない。腐ったバナナや虫の徘徊する床。まるで人類滅亡の映画を見ているかのようだった。
「……俺たちは、本当に元の世界に戻ってきたのか? よく似た鏡の世界に閉じ込められてるんじゃないのか?」
そう、思わずにはいられなかった。
俺たちの異世界帰還は失敗したのか?
「わ、私の家。この校舎から近いんですけど……」
「行ってみたのか、璃々?」
「は……はい」
顔見知りに助けてもらえるなら確実だ。璃々の判断は間違っていないと思う。
「やっぱり、誰もいませんでした」
家に誰もいない?
「水槽の金魚も死んでて。ペットのグミ……あ、犬なんですけど、リードだけが残ってて……」
「…………」
この分だと、他の家もそうなんだろうな。
「でも私のスマートフォンが家にありました。電池式の充電器でずっと充電してたので、今なら電話を掛けられると思います」
璃々はそう言ってバッグからスマホを取り出した。
充電率は7%。かなり苦しいが電話程度ならなんとかなるレベルだ。
「でかした璃々。スマホは心強いぞ」
「感謝してるなら昔のミーナさんに戻ってください」
「…………」
ミーナって誰だよ? 何言ってるのこの子?
ナニモオボエテナイ……。
璃々はスマホを触って電話をかけようとしている。しかし思うように繋がらないようだ。
「……契約が切れているのかもしれないな。私たちがここから異世界に行って、かなりの時間がたっている」
「そうですねお姉さま。あ、別のクラスの友達にLINE入れてみますね。コンビニのWI―FIで接続してきます」
「あー、それ無理よ」
と、一紗が否定する。
「コンビニに行ってみたけど、電気が通ってなかったわ。自動ドアも 化粧品とか文房具は残ってたけど……」
それは俺も見た。璃々は真っ先に家に行って、コンビニとかは見てなかったんだろうな。
「ひょっとすると、何か大きな災害が起こってこの地区の住人が避難しているのかもしれない」
つぐみがそう結論付ける。
グーグルやヤフーにアクセスできればすぐに調べられるかもしれないが、今の俺たちにはそれすらも不可能だった。
電気もない、携帯もない、電話もテレビも役立たず。
何かできるかもしれないが、俺の頭では何も思い浮かばないし、仮にアイデアがあったとしても時間がかかることだと思う。
「…………」
沈黙が、俺たちを支配した。
雫の出産は、もう迫っている。
「……いい場所を探している時間はない。それに、人の家に勝手に入り込むのもどうかと思う。……ここで出産するしか、ないんじゃないか?」
みんなを代表して、俺がそう言わざるを得なかった。