小鳥妄想日記
首都圏、山梨県にて。
太平洋沿岸部で活躍する下条匠たちとは全く離れた、内陸地。しかし遠く離れたこの地域にも、異世界からやってきた匠の妻がいた。
霊峰富士に近い、樹海の中。
燃えるように真っ赤に染まったストレートでセミロングの赤毛と、赤い瞳。しかしその炎を彷彿とされる外見とは裏腹に、姿は静寂な湖畔に漂う水のように……淀みなく無駄な動きがない。
彼女の名前は草壁小鳥である。
匠や、そして咲たちと同じように元の世界へと投げ出されてしまった小鳥。しかも咲のように安全地帯ではなく、匠たちのように故郷でもない。森の中という境遇だ。
野生動物を警戒していた小鳥だったが、彼女に襲い掛かって来たのは魔物だった。普通の人間なら、それだけでもう命は危うかっただろう。
しかし彼女には戦闘能力がある。それもかつて勇者と呼ばれて戦っていた……魔族・魔物との闘いの経験である。
かつて、彼女は闇に囚われていた。
呪われた魔剣ベーゼによって心を支配されていた彼女は、匠によってその戒めから解放された。
その時の名残で、彼女は闇の力を扱うことができる。
これは人間が使う魔法とは違い、闇系統の様々な能力を有する。
小鳥はここがどこであるかよくわからない。だが時々落ちている紙屑や空き缶を見る限り、明らかに異世界のものとは異なる。
異世界から元の世界に、戻ってしまったのだ。
おそらくは匠の異世界帰還に巻き込まれて、と小鳥は結論付けた。早く匠たちと合流しなければならない。
「あ~あぁ、早く匠君に会いたいなぁ。結婚して、他の子たちが増えて、お話する時間が減ったよね? ずーとずっと匠君とお話したいって目で訴えてるんだけど、伝わらないのかな? でもでもぉ、こっちの世界に戻ったなら、いっぱいデートスポットあるよね? 水族館、動物園、ビーチに山に駅前に、あっそうだ、ディスニーランドにもいけるんだ!」
小鳥はおもむろに懐からノートとペンを取り出した。
――九月三十日。
今日は匠君とディズニーランドに行った。
楽しみにしてた初TDL。でもアトラクションはものすごく混んでて、私たちはずーっとずーっと待ってた。
でも、ちょっと疲れてぼーっとしてたの。列に並んでるのにね。そしたらね、匠君が私の手を引いてくれたの。
「ごめんねぇ、匠君。私、こんな人がいるなんて知らなかったのぉ。行きたいだなんて言って、迷惑だったよね?」
「こうして並んだことも、俺と小鳥の大切な思い出。心の宝石箱を飾る美しいダイヤモンドだよ」
「でもでもぉ、私たちずーっとずーっと立ってるだけだよ? 匠君、疲れちゃったんじゃないかなぁって」
「そんなことないよ、俺の小鳥。ここで小鳥と結婚式を挙げられたらな……って考えてたんだ。それだけで、どんな待ち時間もハッピーになるんだ」
「え? 私たちの結婚式?」
…………。
…………。
…………。
「…………見える、見えるよ匠君。私たちを祝福してくれるミッ〇ーとミ〇ーの姿が。二人の二度目のウェディングだよね。お腹子供がいるけどいいよね? みんなありがとう! 私たちを祝福してくださぁーい!」
小鳥はノートに自分の妄想を書き殴った。
ちなみに異世界に来てからこれでもう二冊目のノートだった。
「あああああああああっ! 匠君とディズニーランド行きたい! 行きたい行きたい行きたいいいいいいいいいいいいいいいい!」
「グオオオオオオオオンっ!」
不意に、望まぬ来訪者が現れた。
小鳥は剣を構える。
現れたのはブルーベア、と呼ばれる魔物の一種である。
異世界では山岳部に出現する魔物である。氷の毛皮は鉄のように固く、冒険者が数人がかりで仕留める強敵だ。
ブルーベアは手を地面に突き、四足で突進してきた。人間では到底至ることのできない速度。
そして冷気をまとわせたその爪は、獲物を凍傷に追いやり行動不能にする。
小鳥は魔剣を構えたが、その力を発動はさせなかった。
彼女にはそれをする必要がないのだ。
暗い靄のような物質が、小鳥の肩から溢れてきた。かつて呪われていた代償に手に入れた、魔剣ベーゼの残り香である。
「――煉獄葬送」
瞬間、黒い死神が出現した。
宙に浮く黒衣の骸骨。ブルーベアの背後から現れたそいつは、命を刈り取るように敵の頭部へとその鎌を這わせた。
一瞬で、ブルーベアの首が飛んだ。
強度など関係ない。かつて魔剣ベーゼが生み出した力は、それほどまでに強く……あらゆる魔剣・聖剣を凌駕する規格外の力だったのだから。
今らなら、低級な魔族程度であれば楽々倒すことができる。高位の魔族でもまともに戦うことができるはずだ。
「次はぁ~、『もし匠君と私が先輩と後輩だったら』。始まりますっ!」
今日も小鳥の旅は続く。
匠に出会える、その時まで。
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関東、茨城県にて。
この地にも、匠の妻が一人……召喚されていた。
修道服にベールをまとった金髪の少女。
細田亞里亞である。
聖女、教皇と異世界でもてはやされていた彼女ではあるが、この世界に戻ってしまえばただの弱者。
人の少ない町に困惑しながらも、目立つ建物を転々とした。その過程で見つけたのが、この避難民の溢れる文化ホールであった。
そこで、亞里亞は事情を知った。
ここが日本であること。
魔族が関東に侵攻してきたこと。
多くの人々が犠牲となったこと。
異世界の事情を知る亞里亞にとって驚愕する出来事だった。
(ああ……わたくしの神。匠様。どうか救いを……)
すぐにでも匠と合流しなければならない。しかし戦闘能力もなくお金もない彼女にとって、その選択肢は不可能に近い。
今はまだ、匠が迎えに来てくれることを信じて……他の避難民と一緒に暮らしていくしかないのだ。
「くそっ!」
隣にいた男性が、怒りに任せて壁を叩いた。
「あんなの、勝てるわけがないっ! 魔族とか、魔物とか……そんなのありかよっ!」
無理もない話だ。
この世界の人々にとって、魔族や魔物などありえない存在なのだ。毎日朝起きて、ご飯を食べて学校や職場に行って、家に帰って寝る。そんな当たり前の日常に一喜一憂しながら過ごしていた。
それが、こんなにも脆く儚いものだったなんて。
避難民の状況は悪い。
助けは来ず、食料を取りに行くのも命がげ。いつ死んでもおかしくないという恐怖が、心をすり減らしていた。
「金持ちや政治家はよぉ、さっさと西に逃げて。俺たちだけここに残されて。こんなのってあるか! 毎日毎日、まじめに働いてたのに、どうしてこんな」
「私だって、彼と会うためにここに来たのに。二日、二日だけずれてたらこんなところにはいなかった」
「あああああああああああああ、俺の娘は? 息子は? どこにいるんだ? 頼む……誰か……」
「電気もガスもない。こんな場所でいつまで過ごせばいい? 誰かゲームをくれっ! ゲームがやりたいんだ!」
とめどない負の感情が溢れている。
すでに小規模ないざこざは起きているが、このままではやがて大規模な争いに発展する可能性がある。
亞里亞は異世界で反乱が起ころうとしている村を訪問したこともあった。そういった場の雰囲気には敏感であった。
このままでは、良くない。
「皆さまっ!」
亞里亞は声を上げた。
「……ご不安、もっともですわ。ですが希望を捨ててはなりません。助けは必ず来るのです。そう、かつて救われた……わたくしのように。あれは……」
聖女亞里亞は歌うように話を始めた。
それは、異世界の英雄譚。
勇者匠が人々を助け、亞里亞を救った物語。
もちろん、これは真実の話だなどと念押ししたりはしない。空想の物語……という体裁をとった亞里亞の体験談だった。
たとえ偽りの物語だと思われてしまっても。
何の役にも戦いただの語りであったとしても。
闇に沈んだ人々の心を、呼び覚ますことができるならと。
娯楽に飢えていたのだろうか、あるいは亞里亞の声がそうさせたのだろうか? 人々は驚くほどに彼女の言葉に耳を傾けた。
亞里亞の澄んだ声が、人々の心にゆっくりと浸透していった。




