教室への帰還
う……うう……硬い。
初めに感じたのは、硬く冷たい床の感触だった。
ベッドとは程遠いその不快な肌触りに、俺の脳は一気に覚醒していく。
目を開けると、そこに見えたのは二本の白い棒だった。
なんだ……これ?
ああ……これ、蛍光灯だ。今発光してないけど。電気が通って光を発して。そんな現代日本で当たり前のことすら忘れてしまうような世界に、俺たちは二年間もいたんだよな。
ここは、俺の教室だ。
俺はクラスの女子とともに異世界召喚されて、向こうの世界で暮らしていた。向こうとこちらの世界は時間の流れが違い、向こうの二年はこちらの二か月に相当する。
だからここにある教室は、俺が異世界に行って二か月たっているだけ。まだ、俺たちの教室なんだ。
ホント……懐かしいな。
「……ははは」
俺は思わず笑ってしまった。
戻ってきたんだ。
「おい見ろよ一紗、俺の机! 俺の椅子があるぞ!」
「え、やだ。あたしの机まである。あれ? 教科書もあたしのだ」
「……この机、誰も使ってないみたいだな。俺たちいなくなってたのに、まだ席を残したままだったのか?」
俺たちがいなくなって、二か月程度時間が経過しているはずだ。行方不明なら机を撤去されていてもおかしくないのに、なぜ片づけられていないんだ?
「おそらく……私たちの両親が働きかけたのだろうな」
答えたのは、つぐみだった。
このメンバーの中でも頭が回る方の彼女は、周囲を鋭い目線で監視しながら、今の状況を考察していたらしい。
「机をなくし、名簿から名前を消せばその子の存在自体がなかったことになる。私たちが生きていると信じている……いや信じたい『遺族』はそれに強く反対するはずだ。生徒を『失踪』させた学園側も、世間体を気にしてあまり強いことはできない。親の気持ちと学園の打算、その結果というわけだ」
……国民の受けを気にする民主主義の大統領らしい考察だな。
でもまあ、言いたいことは分かる。
俺だって自分の子供が死んでましたなんて認めたくない。机でも服でもベッドでも、いつか帰ってきた時のままにしておくはずだ。
子供の死を認めないために。
「しかし……どうして誰もいないんだろう?」
鈴菜が顎に手を当てて考えるしぐさをした。
外を見る限り、夜でもなければ朝でもない。確かに平日なら、授業を受ける生徒がいてもおかしくない……のだが。
「休日だからじゃないのか?」
「バレー部とかバドミントン部とかは休日も練習してますよ?」
璃々が付け加える。
「生徒会の用事で休日ここに来ることが多かったが、それなりに人はいたはずだ」
そういえばつぐみは生徒会長だったな。
一応、転移した後に知り合いがいたことを想定して、対策を用意してたんだけどな。誰もいないんだったら無駄足だったな。
「みんな細かい事気にしすぎだって。実は今日は正月かもしれないだろ? だったら行動しやすいよな。早くみんなの手紙を届けに行こうぜ! なあ、乃蒼だってそう思うよな?」
俺は乃蒼に同意を求めた。
「…………」
乃蒼は、俺の言葉を聞いていなかったようだ。ぼんやりとしゃがみこみながら、すーっと指を床に這わせている。
「ど、どーしたんだよ乃蒼? ダイイングメッセージを書く練習か?」
「埃……」
ほこり?
「ご、ごめんなさい。掃除、されてないなって思っただけ」
メイドとして働いていた乃蒼は、こういったことが気になってしまうのかもしれない。
「妙だね」
考え込んでいた鈴菜は、乃蒼の言葉に思うところがあったらしい。
「掃除は毎日してるはずだ。窓や棚の隅ならともかく、こんな教室の真ん中に埃が溜まっているなんて……少し不自然だよ」
「俺たちが集団失踪して、不気味だからこの教室使わなくなっただけじゃないのか?」
「ならそこに机の中にある教科書類はどう説明するつもりだい?」
「え?」
確かに、調べてみると机の中に教科書が置いてあるところもあった。こういった本を持って帰らないで机に置いておくことは珍しくないが……、さすがに使わない教室に置いておく理由はないと思う。
「もし教室が使われなくなったのなら、文房具体操着教科書ノート、すべて持って帰るはずだ。僕たちがここに来るまでこの教室が使われていたというならそれで済む話だが、それにしても積もった埃があまりにも……」
「とにかくここで悩んだでても仕方ないだろ? 何か気になることがあるなら、外を歩いてる誰かに話を聞けばすむだけだ」
「……そうだね。僕も少し神経質になり過ぎていたようだ」
鈴菜は考えすぎなんだよ。俺たちせっかく元の世界に帰ってきたんだぞ? もっと楽しんでいかなきゃ。
「じゃあ、取りあえずみんなの家に行くって話だよな?」
「匠、例の道具を使っておこう。ここから僕たちの姿が見られるのは……まずい」
「おっと、そうだったな」
俺たちは一斉にフード付きのローブを被った。
こいつは不思議な力で対象の姿を隠すことができる、魔法のアイテムだ。
姿隠しの道具を五人分そろえることは、そう難しいことではなかった。昔とは違って、今や魔族や天使たちの協力も取り付けることができるようになったんだからな。こいつを使って、秘密裏に家族に手紙を残しておく。そんな計画だった。
「よっし、まずは俺の家からでいいか? 一紗の家も隣だから、二人一気に片づけてしまおうぜ」
「あんたホントは自分の親御さんに会いたいだけでしょ? あたしの名前使って言い訳にしないでよね」
「口が悪いなぁ一紗は。お前だって会いたいんだろ?」
「ま、否定はしないわ」
俺は教室のドアに手をかけ、すぐに目的地へと向かおうとして――
「……っと」
突然、正面の誰かとぶつかった。
まずい。
フードが外れた。
これじゃあ、俺の姿が隠せない。っというか誰もいないと思ってたのに、やっぱり誰かいたってことなんだよな?
まずいな、俺の顔見知りだったらひと悶着あるかもしれない。
「匠……」
「え……」
部活中の生徒、見回りの警備員、あるいは残っていた先生。
そんな風に訪問者にあたりを付けていた俺にとって、目の前の人物はあまりに予想外だった。
背は低く、俺の目に入ってきたのは彼女の綺麗な銀髪だった。そして俺の足辺りに当たる、出っ張ったお腹の感触。
妊娠している。彼女の名前は……。
「……おま……え、雫? 雫なのか?」
臨月を迎えた俺の嫁、羽鳥雫が教室の中に入ってきたのだった。




