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満腹逃亡線 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と内容に関する、記録の一篇。


あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。

 おお、こーちゃん。今日もいい食べっぷりだねえ。おじさんの分も食べるかい?

 いやいや遠慮するなって。育ち盛りなんだから何人分でも食べられる時に食べとけ。おじさんも、出されたものを残さず食べたいのはやまやまだが、少し食生活を改めようと思ってね。

 いやはや、若い頃の調子で飲み食いしているとすぐに体重が増えてしまい、なかなか落ちない。その他の数値もあまり良いものとはならない。変わらない生活習慣でも、年取ると「普通」レベルから「不摂生」レベルへ落ちてしまう。本当、若さって大事だよ。こーちゃんもできる時に、できることやっときな。

 ああ、でも本当に満腹の時は無理しなくていいぞ。腹八分目は健康の秘訣というけど、腹十分目は心の充足。飯食ってぽんぽんにお腹を膨らませたまま、床で存分にごろ寝をするというのは、屈指の幸せだろう。だが、満腹っていうのは一歩間違えると、厄介な事態を引き起こすことになりかねないんだ。

 ひとつ、おじさんが昔に体験した、不思議な話をしようか。

 

 どうして食事は、腹八分目におさめるのが良しとされるのか? 小さい頃、おじさんは親たちにそう尋ねたことがある。

 両親は健康を保つためだと話してくれた。こと集中力においては、満腹より腹八分目の時の方が、頭の回りがよくなる。頭の回転が速ければ、いち早く多くのことを察知して対処することができる。それで余計な面倒を抱え込まずに済むのだと。

 正直、若さがたぎっている当時のおじさんにとっては、健康云々を説かれても実感が湧かない。転ばぬ先の杖を考える大人の発想と、転んだ先のことは転んでから考える子供の考え。容易に溶け合わず、いまひとつ納得がいかなかった。

 そこでおじさんは祖母にも同じことを尋ねてみたところ、こんな答えが返ってきたんだ。


 我々の感じる満腹は、身体を守る反応のひとつなのだという。満腹は脳の中にある満腹中枢が、「もう食べられねえ」とアピールすることで起こる。それによって人は、食べ過ぎを抑えることができるんだ。

 しかしこの満腹の基準。本当の身体の限界よりも、だいぶ低く設定されている。「もう食べれねえ」の裏に、まだまだ余裕が残されているんだ。

 どうしてこのようなことをするのか。それは先に親が触れた健康を保つ手段でもあるが、もうひとつ。身体が逃げ出さないようにするためだという。


「袋小路に追い詰められた奴が、周りの壁をひっかいたり、地面に近い部分に穴を探したりする場面、創作で見たりするだろ? 難を逃れたいって本能が、普段は選ばないものを、逃げ道に選ぼうとする。もしくは自分で作ろうとする。ひとえに、余裕がないからだ。

 あたしたちの身体も同じ。余裕を持たせないと何をしでかすか分からないのさ。火事場の馬鹿力とかは、それがたまたまプラスに働いた事例。大々的に広まっているけど、それは人間にとって益があるから、というだけの話さ。

 世の中、マイナスに働いてしまった例はもみ消されていくのが常。身体も自分を追い込まないよう、早め早めのブレーキをかけているんだ。脳がわざわざ示してくれる赤信号。無理に進もうとすればどうなるか……というわけさ」

 

 親たちの言葉より、まだいくらか納得のできる話だった。身体の危険信号だからやめろ、ということだ。

 それでもまだおじさんは、心のどこかでこのことを軽んじていたよ。何度か車が来ていない時に、赤信号を無視して横断した経験があったからね。そうしてはねられずに済んでいたものだから、満腹信号に関しても「はねられなきゃ」問題ないと感じていたのさ。

 

 やがて私も酒を飲める歳になった。幸か不幸か、私はザル体質。酔うためには、かなりきつめの酒を何杯も飲まなきゃいけなかった。大学では新入生歓迎会が開かれる時期になっていたんだが、この頃の私は彼女と大喧嘩して、別れた直後。ほとんどヤケになって、歓迎会ではお酒をかっくらい、勢いに任せて料理もかきこんだ。

 四次会にまでもつれ込むと、残っているのはほとんどでき上っている面子ばかり。自分の面倒を見るのが精いっぱいで、どうにか帰路につくも、千鳥足が止まらなかった。

 その日はやけに食が進んだ。普段の数倍は食べただろう。一歩動くたびに喉の奥で、最後の店のしめで飲んだラーメンのスープが、しぶきをあげそうな錯覚に襲われる。

 並の満腹ならば至福の動作である、横になるのは却下。身体を下ろした振動で「ちょろり」と何かが染み出しかねない。おかげで電車の中でも、つり革に掴まりながら膝を折っての前かがみ。完全に脱力状態で、車両の揺れに対し、リバースしないよう努めるのがやっと。乗客が少なかったのが幸いだ。

 

 最寄り駅の改札を出ると、私の家まで10分弱。しかし途中に下り坂と下り階段が待ち受けていた。脇にある民家の塀や公園の柵を頼りに、坂を下りていくおじさん。途中、げっぷと一緒に中身が出かけて、何度も寄りかかるように足を止めた。

 公園に生える木々の葉が揺れている。風が吹いているのだろうが、そんなことみじんも感じないほどに、身体が火照っていた。逆流への渇望は止まず、何度か鼻の奥に、にんにくの香りを帯びたアルコールが上ってきてにおい、じんと痛んだ。

 坂道が終わる。いくらか楽になる足元だったけど、少し歩けば階段が待っている。転げ落ちるのはもちろん、一歩降りるたびに、胃の中身が飛び出しかねない難所。中央に渡されている手すりに頼るべく、おじさんはよろよろと近づいていく。

 

 その時、何気なく顔を上げたんだ。階段手前の街灯がスポットライトのように照る以外は、ほぼ暗闇の狭い道。その先に広がる空の真ん中に、横に伸びる青い線が一本入っていたんだ。

 線は立ち並ぶアパートの影たちに隠されることなく、おじさんの視線に映っている。つまりこの線は、アパート群よりもずっとおじさんの近くを通っているわけだ。「おかしな線だなあ」と思いつつ、今のおじさんは自分の心配が第一。手すりを掴むと、身体を必要以上に揺らさないよう、そっと一歩を踏み出した。

 

 その足が、階段を踏むことはない。崖っぷちへ歩み出たかのような浮遊感と、段があるものという思い込みが重なって、おじさんは一気に体勢を崩す。踏み出した右足を中心に、吸い込まれるように落ちていってしまった。

 それに前後して、目の前の青い線はにわかに太さを増す。大きく口を開いた線は、一気におじさんの視界を青一色に染めた。足も他の身体の部分も、相変わらず地面に着くことなく、落下を続けている。

 色はいささかも変化を見せず、どれほどの速さで落ちているか分からない。ただ、今や両手両足を広げ、大の字に近い形でいるおじさんは、服が大いに上に引っ張られているのを感じる。顔も腹も手足も同じだ。肉をちぎらんばかりの風が、おじさんの身体に叩きつけられている。

「めりっ」と音を立てて、何かがはがれた。落下に逆らい、上空へ取り残されたのは分かったが、何が取れたかは判断がつかない。それらは時間を追うごとに、所々へ広がっていく。

 手の甲、二の腕、ふくらはぎ、両脇腹に左右の頬。いずれも耳障りな音と共に、元からついていたものが引きはがされていった。それに対する痛みはなかったが、風の勢いは止まず、身体の自由は利かないまま。

 何とか上向かせることができるのは、目線だけ。それがようやく捉えるのは、自分の身体から離れていく、わずかに赤黒い塊の影。その正体を掴もうと躍起になるおじさんだったけど、ほどなく青一色の視界に変化が訪れる。

 

 一瞬の境目と共に、青の視界は黄色に変じた。今度は一色ではなく、頻繁に黒い筋が入り、乱れながら各々の空間を区切っている。それはくっついたままで激しくうねる、太いスパゲティのように思えた。

 いささかも目に留まらないその速さに、ようやくおじさんは、尋常ならざる落ち方をしていると悟る。そして視界にはやがて、一本一本の黄色い筋の区切りのみならず、山椒の実を思わせる粒が、ちらほらと浮かび始めた。

 落ちていくにつれ、粒は数を増していき、ついに麺に成り代わっておじさんの目の前を埋め尽くす。いくらやたらこを思わせる密集ぶり。更にここへきて落下速度もまた落ちているらしく、これまでよりはっきりと粒同士が見分けられるようになってきた。ついにその動きは完全に止まり、おじさんの視点は固定される。

 次の瞬間、実たちは一斉に、内側から皮を剥いた。いや、開いたんだ。なぜならそこから出てきたのは瞳。粒の一つ一つは、いずれもまぶたを閉じた眼球だったんだよ。すき間なくひしめくそれの視線は、同時におじさんの全身を射抜く――。

 

 どん、という音と衝撃。おじさんは身体中をしたたかに打ち付けていた。

 身体の自由が利く。顔を上げると、ここは降りようとしていた階段の下に広がるアスファルトだったんだ。

 転げ落ちたにしては、服はさほど汚れていない。先ほどまで苦しんでいた満腹感は消えており、代わりに残るのは全身をつねられたかのごとき痛み。そして立ち上がったおじさんを待っていたのは、勝手にずり下がるズボン。

 ぽんぽんに膨れ、ベルトを緩めざるを得なかったお腹は、すっかり引っ込んでいた。だが困ったことに、一番きつい穴に通しても、ベルトがしっかりズボンを押さえてくれない。それどころか上に来ている服も、入学したての時の制服のように、ぶかぶかした感覚を隠せなかった。

 おじさんの身体は、すっかりやせ細ってしまっていたんだ。手足なんか、もう枯れ枝のようでさ。しばらくは、2リットルペットボトル1本を持ち上げるのすら、難儀するほどになっちゃったよ。

 どうやらあの場所こそ、祖母が語った、余裕ないものがたどり着く逃げ場所だったんだろう。その時、腹に詰め込んだものが逃げるのと一緒に、おじさんの身体についた肉たちも逃げていってしまったのだろうな。

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