勘違い皇子は熱を出す
押しても押しても扉が開かないので、フィズは覚悟を決めて背を伸ばした。ゆっくりと体の向きを変える。流れる星々と、淡い黄金に輝く月がソファに腰掛けるコーディアルを照らしている。さらりと夜風に靡く、月色の髪に一瞬目を奪われそうになった。
「コーディアル様……。す、すみません。皆に声を掛けたのですが断られまして……」
ゴクリ、と唾を飲む。側近という側近、侍女という侍女、料理人に医者に、城のあらゆる勤め人に断られた。自分達は自分達で支度してある。その一点張り。ぼんやりとしているコーディアルの表情が、嫌だというように歪んだら倒れる自信がある。フィズはコーディアルが腰掛けているソファに近寄る勇気もなく、立ち尽くした。体を捻って、こちらへ振り向いているコーディアルが眉根を寄せた。
「い、いえ……。フィズ様……。私、何がなにやら分かりません。レージング様が膝で休まれているので動けませんので、どうかこちらへどうぞ。あの……暖を……」
嫌悪感は無さそうでホッとした。しかし、どうだろう? こんなにも美しい景色。誰も来ないのなら、いっそ一人で流星群を眺める方が楽しいかもしれない。コーディアルの心休まる幸福な時間を奪う訳にはいかない。
「コーディアル様。どうか寛いで下さい。このフィズは、そこらから脱出します。私と二人で星を眺めるなど気が乗らないでしょう」
同じ台詞は二度目。自分で口にして、自分で落ち込む。婿入りという強攻策でこの城に住まうようになって約一年。並んで星を見る事すら出来ない仲とは、情けない。
悲しそうなコーディアルに胸が軋む。そんな顔をさせたかった訳ではない。準備中は自信満々だったのに、これでは正反対ではないか。
「あの、いいえ。私、色々と分からなくてお聞きしたいことがございます。嫌でなければ、どうかこちらへお願いします」
「嫌でなければ? まさか。何故そのような事を?」
それこそ分からない発言。フィズが目を見開くと、コーディアルも目を大きく開いた。夏空色は夜闇に染まっているが、流れる星を映して輝き、昼間とはまた別の美麗さがある。どこで奏でているのか、演奏が聴こえてくる。従者達は、庭から流星を観察すると準備していたらしいのでその一環だろう。全然知らなかった。
「何故? あの、フィズ様。お疲れのところにわざわざこのような……。私こそが何故と尋ねたいです。それから、帰国せよと言われていると聞きました。断っているとはどういうことです? あの、その私も共にとは……」
レージングの吠えが聞こえた。尻尾がフィズを来いというように招く。フィズは足を踏み出した。
「アクイラとオルゴですね。絶対に話すなと命じていたのに……。父上や兄上には何やら国政について考えがあるようですが、優先はこの領地です。なので、断りました」
ソファの後ろまでくると、コーディアルの膝の上に上半身を乗せるレージングと目が合った。友の惚れている女性に堂々と触れるとは何て男だ。それも膝枕など、何て羨まし——ではなく何て不埒な狼。フンッと鼻を鳴らすと、レージングは立ち上がった。トンッと跳ねてフィズの頭を蹴り、床に着地。ベシリとフィズの背中を叩いて去っていく。
アクイラとオルゴと同じ意見なのだろう。意気地なし。根性なし。小心者。思い出したらムカムカしてきた。そんなことはない。
「コーディアル様」
「フィズ様」
同時に口を開いたので、フィズの言葉は行方不明になった。
「どうぞ」
「何でございましょう?」
譲り合って沈黙。迷ったが、フィズは大きく息を吸った。しかし、コーディアルに決意を挫かれた。先に彼女が声を出した。
「優先はこの地、とは我が領地はそんなに酷いでしょうか? フィズ様がそれはもう、うんと勤しんでくださり、見違えるようになりました。私も、以前より随分と成長したと思っております。お国が恋しいですよね?」
「いえ、ちっとも恋しくなどありません。酷い? ええそうです。コーディアル様の誹謗中傷やら、謂れのない悪い噂。怠惰な者は多いですし……まあ、不満はうんとありますが改革するので問題ありません。誰も彼も働かせます。故郷など、特に恋しくありませんがコーディアル様が共になら、帰るのも検討します」
コーディアルが心底悲しいというようになった。悪口なんて言うべきではないが、つい溢れていた。不満はうんとある、そんな事を言うべきではなかった。思わず口にしてしまったが、共に国になどと、言わなければ良かった。口にしてしまったので、もう戻れない。フィズはコーディアルの隣に腰掛けた。えらく心臓が煩い。コーディアルの顔を見れない。
「いえ、あの、申し訳ございませんコーディアル様。貴女様がこの地を離れるなど、胸を引き裂くような非道な仕打ちは致しません。ですから帰りません」
「フィズ様、それです。一生帰らない。私の隣に並ぶ。先程、そう聞いたのですがどういう事なのでしょう?」
チラリと確認すると、コーディアルは悲しそう。嫌われてはいないと聞いていたのに、それは嘘だったらしい。城勤めの者達は、そこそこフィズを慕ってくれているので、実に優しい嘘だ。フィズの頬が自然とひきつる。
「い、嫌です。断固拒否。私は絶対にこの地位から退きません。我等の婚姻は休戦協定の象徴ということをお忘れですか? 極悪非道となじられようと……いえ……すみません。早く帰れ、去れとは、そこまで……。せめて教えてくださいコーディアル様。私の何がそんなに嫌なのですか?」
コーディアルが茫然とした表情になった。何に驚いているのだろうか?
「去れ? そんな事、そんな事、一度だって思ったことはございません。嫌? フィズ様は私の見本です……」
これも優しい嘘なのだろう。コーディアルと親しい侍女達と同じ。フィズを傷つけないようにという配慮。フィズはコーディアルから顔を背けた。
「良いのですコーディアル様。分かりました。そこまで言われれば帰ります。父上や兄上達には上手く伝えます。ご安心ください」
何となく、靴先を見つめる。見上げたら、流星群。願えば叶うという伝承があるというが、それならコーディアルの幸福を祈りたい。与えるばかりのコーディアルこそ、幸せになるべきだ。権力かざして、隣を確保していた自分を恥じた。それこそ、噂の南の国の御曹司とコーディアルの仲を取り持つべき。想像しただけで、吐きそう。倒れたい。頭が痛くなってきた。
「そこまで? あの、フィズ様。フィズ様? 顔色がとても悪いです。大丈夫でしょうか?」
大丈夫な訳がない。ボワボワするし、寒気もする。気持ちが悪い。大体、宗教の頂点たる聖人君子とは何だ。南の国の御曹司とやらはどれだけ偉大なのだ。フィズは弟子入りするべきかもしれない。しかし、コーディアルと御曹司が仲睦まじく暮らすのを眺めながら働くとは、最悪。働き者のコーディアルの手を握り、散歩をするのを見るのか? まさか、人前でキスなどする文化だったらどうする。
「フィズ様? まあ……熱があるようで……」
ひんやりとした感触がした。額にコーディアルの掌が当たっている。熱? 熱ならこのせいだ。コーディアルにいきなり触られれば、熱も出る。フィズはコーディアルの手首を握った。やはり、視界がボヤボヤする。耳鳴りもしている。御曹司なんかとコーディアルがイチャイチャ、ベタベタするのを想像したせいだ。胸糞悪い。
コーディアルが何かを言っている。しかし、聞こえない。彼女の向こうには光の雨。キラキラ、キラキラとコーディアルの蜂蜜のように甘そうな匂いがする髪を輝かせる。
——残り物を民へ配ろうと考えているコーディアル様を見習いたいのです。
急に蘇る、一年前の記憶。素敵な瞳をした、病が辛そうな女性。話をしてみたくて探し回った。主役なのに、広間にいない。やっと見つけたと思ったら、侍女がそう口にしていた。
——本来、お見せするようなものではないですので不快な思いをさせて、申し訳ございません。うつりませんのでご安心ください
女性なので、見た目が悪くなる病は堪えるだろう。節々が痛そうで、体を動かすのも辛そうに見えた。誰よりも心苦しいのはコーディアルだろうに、彼女はまず相手を慮った。
だから、だから、フィズも同じようにするべきだ。こんなに具合が悪くなろうと、コーディアルの幸せを願うべき。いや、作るべき。晩餐会でも開いて、南の国の御曹司を招待し、コーディアルと踊ってもらう。きっと、二人はすぐに打ち解けるだろう。南の国は大国。フィズよりもうんとコーディアルを支援可能。
「……様。フィズ様。やはり熱が……」
小さく、寄る辺のない、いつもいつも誰かの為に働いているコーディアルの手がフィズの頬に触れた。手首を握っていたはずなのに、いつ離したのか。捕まえておかないと、この手はすぐに赤切れする。今も冷たい。折角、浮腫が軽減されても、酷くなる。羽ペン、鍬、パン生地、箒、包丁、針、洗濯物、ぞうきん、あれやこれや何でも奪った。なのに、コーディアルは新しいことを見つけている。止めても止めても聞かない。
甲斐性無しだからだ。南の国は金持ちなので、やはり御曹司が必要だ。どんな顔で、何歳なのかも知らないが、人なのに「至宝」とは素晴らしい男なのだろう。見る目があるから、コーディアルを気にしている。
「フィズ様……お待ちください……」
嫉妬くらいで、倒れそうとは情けないとフィズは立ち上がろうとした。力が入らない。グラグラとして、腰を抜かした。何だかおかしい。
コーディアルがフィズの顔を覗き込む。視界がゆらゆら、ぼやけているのでハッキリしないが、かなり近い。
帰るなら、これが最後。
フィズはコーディアルの手をそっと取った。
「せめて、一度……踊ってくださいますか? コーディアルさ……ま……」
何かに頭をぶつけ、フィズの意識は消えた。