醜い優しい姫の夜と侍女
花瓶に生けられた花を、コーディアルはまた見てしまった。淡紅色の、小さな花が集まったこの植物は、三年前に亡くなった母親が大好きだったもの。ソファ脇の机で、手紙を書きながら、考える。押し花にして、手紙に添えたら、フィズ皇子の家族は喜ぶかもしれない。アクイラやオルゴに聞いたが、彼等の故郷では見かけない花らしい。
「コーディアル様、今夜の浮腫みは手強いです。しっかり、じっくりと退治しますので、時間を下さい」
向かいに椅子を置いて、コーディアルの右足を膝に乗せる侍女ハンナ。コーディアルは首を横に振った。
「もう十分よハンナ。いつもありがとう。貴女の手が疲れてしまうわ。それにしても、花束を受け取るハンナとフィズ様は、おとぎ話のお姫様と王子様のようで素敵だったわね。しかし、フィズ様は大変疲れている様子でした……」
早起き、遅寝。フィズ皇子はいつ休んでいるのだろう? 早朝、庭で体を鍛えている。その後は、様々だ。従者の掃除洗濯を手伝う。孤児院などに配るパンを焼く。医者カインから学ぶ。調薬に必要な物を採取しに森に行く。畑を耕し、城裏の水路と畑作りに精を出し、狩りにも行っていたりする。兎に角、朝から晩まで、勤しんでいる。らしい。フィズ皇子とは数日に一度しか、顔を合わせない。昼間、炊き出しに行く前のフィズ皇子と会ったのも確か四日振り。
フィズ皇子がどれ程この領地に心身共に尽くしているかは、街に出れば分かる。大変、慕われている。従者からも良い話ばかり聞いている。
「コーディアル様。その花、フィズ様はコーディアル様へ、そうおっしゃいました。全く疲れないので、続けますね」
そう言って、ハンナはコーディアルの足をがっしりと掴んで離さない。毎晩、毎晩、申し訳ないと思う。ハンナのすらっとした、美しい腕が筋骨隆々としてしまったら、どうしよう。
「コーディアル様? 何か感想は無いのですか?」
眉間に皺を寄せたハンナに、コーディアルは慌ててペンを机に置いた。
「ありますとも。やはり、大変ですよねハンナ。そろそろ寝ましょう? 毎朝、寝台から降りる時に足が痛くないのはハンナのお陰です。感謝しても、感謝しても足りないと思っています」
手を止めたハンナは、ペシリとコーディアルの脛を叩いた。
「違いますコーディアル様! フィズ様からの贈り物についてです! これは私の仕事で生き甲斐なので、感謝などいりません。この職務を奪ったら、朝食に毒を仕込みますからね」
ハンナの頬をラスが抓った。手にティーセットが乗ったお盆を持っている。片手で器用なこと。それにしても、いつ、入室したのだろう? ラスはいつもさり気ない。
「全くハンナは粗暴ね。しかしコーディアル様、一理あります。賃金をいただいて働いているので、職を失くすと飢え死にします。ハンナには家族がいませんからね」
「そうです。コーディアル様。ゴミのように捨てられてもう十年。この城が私の家です。追い出さないで下さい」
「まさか! そんなことはしません! それに貴女はもう家があり家族がいるではないですか。養子縁組をしてもう何年も経っているのに、いつまでも城から離れずに……」
コーディアルは思わず大きな声を出してしまった。それなりに心を砕いてハンナと接してきたつもりだったが、つもりだったのだろう。追い出される、そう怯えているなんて、そういう主だと思われているなんて想像もしていなかった。ハンナは頬を膨らませて、首を横に振る。
「いいえ、コーディアル様。それにしても、ローズ姫は今にこの城そのものを奪います。夏の避暑地にしたいの♡ なんて甘ったるい猫撫で声を出して。次こそローズ姫を城に入れないで下さい」
コーディアルはびっくりした。どうして突然姉の話なのだ。それにしても、ハンナはローズを本当に嫌っている。ローズはハンナに何かしたことはない。生理的に嫌いなのかもしれない。
「ローズ様ならフィズ様ごと強奪するでしょうね。折角、フィズ様が祖国から送ってもらったという素敵な箪笥のように。次にローズ様がいらっしゃったら、あの中のコーディアル様のドレスや今までの物も、何もかも全部返してもらいましょう」
憤慨したようなラス。お盆をローテーブルに置くと、手早く紅茶をティーポットからティーカップに注ぐ。カップは三つ。たまにの贅沢。月に一度、ハンナやラスと一緒に紅茶を飲んで話す。コーディアルの密かな楽しみ。このような見た目のコーディアルに仕えたいという娘は少ない。その中でも、ハンナとラスは大変働き者。美しく、優しい、素敵な女性。彼女達はコーディアルの見本だ。
母はハンナを上流貴族へ養子縁組させた。ラスも中流貴族の次女。二人共、そろそろ縁談話があるだろう。コーディアルも側近達に、なるべく良い相手を探すようにと頼んでいる。二人が去るその日まで、あと何回夜のお茶会が出来るだろうか。
「フィズ様ごと強奪? あの箪笥にドレスは貸しただけです。ドレスなんてどうせ着ないのだから、姉上に使って貰った方が嬉しいわ。姉上は何でも似合うもの。フィズ様は、故郷に残している女性を裏切るようなことはしないでしょう」
ハンナとラスが顔を見合わせて、大きなため息を吐いた。
「故郷に女性?」
ハンナが悲しそうに、コーディアルを見つめた。ハンナはフィズ皇子を好んでいると睨んでいる。今日、花束を受け取った時のハンナのはにかみ笑い。紅潮した頬。あれは、大変可愛らしかった。美人が更に美麗。なので、口が滑ったと後悔した。しかし、もう遅い。
「アクイラ様に聞いたのです。フィズ様、想い人がおられるのです。フィズ様を手伝う女性達の誰にも手を付けてないというので、きっと祖国でしょう。あの、ハンナ、その……。フィズ様ともう少し親しくなるのはどう? ハンナが本気になれば、フィズ様もきっと心惹かれるわ」
ぶすくれたハンナは、再びコーディアルの足を揉み始めた。手を止める前より何だか痛い。怒っているのだろう。
「妙な誤解はやめてくださいコーディアル様。そりゃあフィズ様は大変素敵ですが、私には身の丈に合った想い人がおります。フィズ様の奥様であられるコーディアル様がそんな事を言うべきではありません」
「怒るなら、アクイラ様に怒るべきねハンナ。コーディアル様、フィズ様を何だと思われているのですか?」
ラスがコーディアルにティーカップを渡してくれた。ハンナの想い人? そんな相手はいないと 否定していたのに、嘘だったらしい。少し前までは第二側近アデルの息子ルイかと思っていたが、彼には別の恋人がいる。誰のことだろう?
「何だと? 天からの遣いなのかと思っています。しかし、フィズ様の姉上様方と文のやり取りが出来ているのでフィズ様は確かに人のようです。この間、本を手に持ったまま、廊下で立ったまま寝てました。大丈夫なのでしょうか? 奥様ではなく、私は庇護されている者です。婚姻は形式上だけのもの。誰もが知っていますよ」
早く立派な領主となりこの領地を貧困と飢饉から民を守らねば、フィズ皇子はいつまでたっても帰国出来ない。想い人——きっと互いに想いあっている相手——とも会えない。
時折帰国すれば良いのに、フィズ皇子は一日もこの領地を離れない。先週、狩りだと言って三日間留守にした時、もしやと思ったのだが大きな鹿を手にして、泥だらけで帰ってきた。太腿に怪我までしていた。背が低い木の枝に引っかかったというが、あの傷はまだ治っていないだろう。昼間、疲れた様子に見えたのは、痛みのせいだったのかもしれない。気がついて、強く休むように言うべきだった。フィズ皇子は、迷惑というように、顔をしかめたり、背けたりする。余程、働きたいらしい。しかし、倒れたら誰もが心配する。フィズ皇子が連れてきた従者、アクイラとオルゴともっと相談するべきだろう。
「コーディアル様。フィズ様のような、天の遣いのような方が惚れるのはどういう娘だと思います?」
コーディアルの右足を床におろして、左足を持ち上げたハンナが、ポソリと呟いた。ラスがハンナを椅子からどかして座る。ラスはコーディアルの左足を揉み始めた。いつもこう。右足はハンナ。左足はラスが労ってくれる。ハンナはコーディアルの隣に座り、紅茶を飲んだ。顔を覗き込まれる。アクイラ様から聞いたのでしょう? そう言わんばかりの期待の目。
「もうっ、そんなに熱心に目で訴えないでハンナ。ええ、アクイラ様から聞きました。フィズ様は月で、その方は太陽だそうです。彼女がいるからこそフィズ様は輝くのだそうです。あのフィズ様を、というとその方こそ天使なのでしょうかね? 親しくしているのだから、直接聞いてみて下さい。私へより、ハンナへの方が多くを語ってくれると思いますよ」
ハンナはソファに深く沈み、ラスを見た。ラスはコーディアルの浮腫んだ足を凝視している。
「そうしますコーディアル様。必ずやこのハンナが調べてきます」
「私にも教えてねハンナ。きっと、コーディアル様も喜んでくださるわ」
興味津々かと思えば、二人共気もそぞろ。フィズ皇子に想い合う恋人がいるのが、ショックなのだろう。城中の侍女達は仕事に集中しているのか分かり難いが、領地の娘の大半はフィズ皇子を好いているように見える。
コーディアルは浮腫んでパンパンの左手薬指から、結婚指輪を抜こうとした。今夜も抜けない。今日こそ、と頑張ってみる。
「まあ、やっと抜けたわ」
白銀に煌めく、この地の守護神である蛇を模した指輪。何でも、フィズ皇子からの結納品の一つらしい。世話になるので、とあれこれもらった品の一つ。困ったら、欲しいものがあれば、何でも売って、使いなさい。フィズ皇子はそう言ってくれたが、そんなことはしない。姉ローズに貸しているものも多いが、全部返す予定。
蛇の目は見たこともない、水色の宝石。調べたけれど、名前は判明しない。それだけ貴重な宝石なのだろう。結婚式で指輪交換をした後、これだけは早く返さないとと思っていた。この夏空を閉じ込めたような、透き通った宝石は、フィズ皇子の伴侶に贈る予定だったものだろう。探すのも、購入するのも、苦労したと、フィズ皇子の従者オルゴから聞いている。浮腫んだ指と格闘していたら、もう三ヶ月も過ぎてしまった。
「ラス、ありがとう。指輪が抜けたのでフィズ様に返してきます。それから、一度領地を離れてのんびりしてくださいと話をしてきます」
コーディアルはラスの膝の上から足を下ろして、立ち上がった。
「コーディアル様、やめた方がよろしいかと」
「そ、そうです。フィズ様が卒倒……ではなく淑女、そうです淑女は夜中に男性を訪れたりしません。いえ、妻ですからしてください。どうぞ、どうぞ」
ラスに指摘されて、確かに、そう思ったのに、反対したハンナと共に、ラスはコーディアルの腕を掴んだ。ハンナとラスがコーディアルの腕をがっちりと組む。
「ここまで支えられなくても歩けますよ」
「いいえ、コーディアル様。では参りましょう」
「これで良いのですコーディアル様」
二人の心配通り、足元は覚束なかった。自分でしっかり歩いているつもりでも、何だかハンナとラスに引きずられているような感じ。廊下を進み、曲がり、また廊下を進み、曲がる。フィズ皇子の寝室は、コーディアルの寝室と丁度正反対の位置にある。初めは醜いコーディアルをあまり見たくないのだろうと思ったが、窓の外の眺めが気に入りらしい。城裏の地平線、聳える山脈、小さな林に、奥の方に見える海。故郷では決して見られない絶景だと、そう言っていた。
ハンナがフィズ皇子の寝室をノックして、声を掛ける。のんびりとした声がして、フィズ皇子が扉を開けた。着替え途中だったのか、上半身裸。あまりにも鍛え上げられている体に、コーディアルは一瞬顔を背けるのを忘れてしまった。逞しいとは思っていたが、こんなにも鍛えているのか。
「コ、コーディアル様」
パタン、と扉が閉められた。何故かハンナとラスがコーディアルから離れた。
「では、コーディアル様。私は眠いので帰ります」
「私も疲れました。おやすみなさいませ」
脱兎、というように走り出したハンナとラス。
「お、おやすみなさい! そんなに疲れて眠かったのに付き合わせてごめんさない」
二人の背中に声を掛けたが、返事は無い。
「コーディアル様。そのような、あられもない格好で深夜に廊下に出るなど淑女としての自覚が足りません」
扉越しに、フィズ皇子に叱られた。二つ年上のフィズ皇子は、たまにこうしてあれこれ教えてくれる。田舎領地で育ち、母や従者にも甘やかされて育ったので、有り難い。容姿を見られるのが嫌なので避けているが、領主なのでそのうち社交場に顔を出さないといけないだろう。今のうちにうんと沢山学ぶべきだ。
「みっともない格好で申し訳ありません。急ぎで、と思ったのですが身なりを整えて明日にします」
「部屋まで送ります」
再び扉が開かれた。フィズ皇子はもう上着を着ている。
「まあ、フィズ様。風邪をひかれました? 顔が真っ赤です。熱があるかもしれません。働き詰めでしたからね」
「風邪? まさか。そんなもの、人生で一度しか経験したことがありません。暑いからです。その、コーディアル様が……」
コーディアルをボンヤリとしばらく見つめ、フィズ皇子は俯いた。
「コーディアル様とは違って、まだこの土地の気温に慣れていないのです」
「そうだったのですか。冬も故郷より寒いと申しておりましたしね。不便があれば、何でも用立てますので遠慮せずにお申し付け下さい」
慣れない環境で大変なのは、想像に容易い。こうして、寝るのも邪魔してしまった。コーディアルは指輪をフィズ皇子へと差し出した。
「返しにきました。遅くなり、大変失礼致しました。どうか、然るべき相手に」
バッと顔を上げたフィズ皇子は、猫のような目を大きく見開いた。それにしても、優しさが滲んだ温かい目。この視線を独占する女性は、世界で一番の果報者かもしれない。おとぎ話は、フィズ皇子のような方やその奥様から生まれるのかもしれない。羨望と賞賛が、新たな希望になる。フィズ皇子と妻を誰もが見習うだろう。
フィズ皇子は瞬きすらしない。余程疲れているのだろう。コーディアルはフィズの手を取って、指輪を乗せた。会釈をして、背を向ける。会話すら辛いとは、何てこと。明日の朝にでも、アクイラとオルゴにフィズ皇子を休ませるか帰国させるべきだと告げないとならない。
気配がして振り返る。フィズ皇子が真っ青な顔で立っていた。無言でコーディアルの左手を取り、何故か指輪をコーディアルの薬指にはめる。即座に背を向けたフィズ皇子は自室に入って扉を閉めた。
指輪はまた外れなくなってしまった。
翌朝、城裏の畑で会ったフィズ皇子は「夕食後、机に突っ伏して寝てしまい朝でした」と苦笑いした。コーディアルと会ったことを、全く覚えていない様子だった。アクイラとオルゴに相談すると、嫌でなければ好きにさせてやって下さい、と頼まれた。指輪も停戦協定の証なのでそのままで、と進言された。その考え方は無かった。危うく大間違いを犯すところだった。
二人曰くフィズ皇子は働きたくて仕方がない病、らしい。コーディアルも見習わねばと強く思った。ここはコーディアルの領地。フィズ皇子に負けてはいられない。