優しい醜い姫と化物と恋の音
寝室から続くベランダに出て、ぼんやりと星空を眺めた。今夜の星は、一際綺麗に見える。コーディアルはショールを腕の中に抱えて、止まらない胸のドキドキを抑えようとした。しかし、ちっとも鳴り止まない。
年に一度の収穫祭。コーディアルはフィズ皇子にまるで宝物のように扱われた。コーディアルとフィズ皇子はあまりに不釣り合いなので、ヒソヒソと後ろ指さされたり、笑われるのでは無いかと怯えていたが、そういった事は無かった。コーディアルとフィズ皇子に注がれる視線の大半は驚愕。従者達からは喜ばしいというような温かい視線。
「レージング様、フィズ様は無邪気でございましたね。楽しそうで、こちらも本当に楽しかったです。なのに、挨拶は御立派。堂々としていらして、若い領主で不安だという民の心配も吹き飛んだように見えました。しかし、フィズ様。あれもこれも買いましょうとは散財癖があるのでしょうか? しかも、私の物ばかりです。フィズ様は何が欲しいのでしょう?」
レージングがコーディアルの足に体を寄せる。ふさふさの毛並みが温かい。コーディアルは小さなため息を吐いた。こんな素敵な日が、コーディアルに訪れるとは思っていなかった。あれこれ聞かれたが、欲しいものなんて何にも思いつかない。コーディアルを宝物のように扱ってくれた、今日のフィズ皇子の手だけで十分。
「聞きそびれましたので、手紙で聞きましょうレージング様。今日、知れたのですがフィズ様は魚が好きだそうです。保存食を作っておきたいですし、近々海に行きましょう」
屋台で売っていた魚の串焼きを、美味しくて仕方ないというように頬張っていたフィズ皇子を思い出した。というより、フィズ皇子の事ばかり頭の中から離れない。
ふいに、レージングがコーディアルのスカートの裾を足の爪で引っ張った。
「どうされました?」
レージングを見ると、小さく吠えられる。それからレージングは室内に戻った。コーディアルを見て、来いというように頭部を動かす。
「何でございます?」
コーディアルも部屋に戻った。レージングの尻尾が机の上のランプを示す。それから扉を開いた。コーディアルはランプを手にして、レージングについていった。
「どうしました? どちらへ? レージング様」
コーディアルがついてくるか確認しながら、レージングは廊下を進む。階段を降り、更に廊下を進み、ついには城の裏庭へ。裏庭から城裏の畑へと移動する。畑にて、レージングはコーディアルの真横に並んだ。レージングは尾でコーディアルを押しながら歩く。
「森に何か?」
夜の森をランプの薄明かりで歩くのは中々怖い。しかし、レージングがこんな事をするということは何か大切な事があるのだろう。少し足の関節が痛いが、コーディアルは足を止めたりレージングに帰ろうとは言わなかった。
途中、レージングが小さく吠えた。それから足を止める。頭部を揺らして、向こうに行けというように促された。
「分かりましたレージング様。何かあるのでしょう? レージング様はいつもいつも私を大切にしてくださいます。貴方様を信じられないと、何も信じられません」
コーディアルはそろそろと足を進めた。レージングはついてこない。足元を見ると、土や落ち葉に何かを引きずったような跡がついている。コーディアルの両腕くらいの幅。
何だろう。胸の奥がザワザワする。何かに呼ばれている気がしてならない。コーディアルの足が自然と速度を上げる。遠くに何かの塊が見えた。岩のように見える。コーディアルは駆け足で近寄った。走らないとならない。そういう衝動に駆られている。
「まあ……」
岩ではなく、鉛色の巨大な蛇だった。毛羽立ったような鱗。鳥の嘴のようなものがある頭部。コーディアルをジッと見据える鮮血のような瞳。蛇の体の前にコーディアルの顔より少し大きい蜂もいた。一匹は倒れていて、その周りに三匹程の蜂が震えるように寄り添っていた。体は硬そうな鉛色の殻で、緑色の産毛が生えていて、蜜蜂に似ている。しかし、大きな目が三つ。蛇とは違って、震える三匹の蜂たちの目は黄色くて点滅している。倒れている一匹は今にも命の光が消えそうな暗い瞳。
この蛇は国が崇める蛇神の化身ではないか? 教会の絵画に描かれる蛇神にそっくり。コーディアルは神がいるとは、あまり信じていない。しかし蛇神そのものではなくても、神話の元になった生物。氷の大地を二匹の蛇神が今の土地に変えたという創世記には少し真実があるのかもしれない。
この倒れている蜂を助けなさいということか? それで、レージングにコーディアルを呼ばせた?
「その蜂さん、怪我をされているのですか?」
コーディアルはなるべく蜂達と視線を合わせようと、しゃがんだ。勿論、返事はない。蜂達は更に身を寄せ合ったように見える。多分、コーディアルは怖がられている。
どうしたら良いのか悩んでいると、蛇は体を起こし、蜂達を残して去ってしまった。可哀想なくらい震えている蜂達。
「コーディアル様!」
振り返ると、右手に剣を握るフィズ皇子が走ってきていた。
「化物め! コーディアル様に手を出す事は許さん!」
あっという間にコーディアルの前に立ったフィズ皇子。
「お待ち下さいフィズおう……」
「コーディアル様お逃げください! レージング! コーディアル様は怪我をしている! レージング! 先程の巨大蛇は恐らく西の森に住むと言う……」
違うと言う前に、フィズ皇子の怒声が急に止まった。
「化物? 蜂か? 蜂にしてはデカイな」
立ち膝になるとフィズ皇子は剣の切っ先を地面へと下げた。コーディアルはランプを持っていない手でフィズ皇子の外套を掴んだ。
「フィズ、フィズ様……。私、何もされておりません。怪我などしておりません」
体の向きを変えたフィズ皇子に全身確認された。
「こんな夜更けに森になど、どうされたのですか? レージングが呼びに来て、貴女様のスカートの一部を咥えていたので肝が冷えました……」
抱き締められて、背中を撫でられる。コーディアルは硬直した。それにフィズ皇子の余りにも辛そうな声に息が詰まる。手からランプが滑り落ちた。落下音の後に明かりが消え、一帯が暗くなる。
フィズ皇子がコーディアルからそっと離れた。フィズ皇子は立ち上がり、蜂達へと近寄っていく。
途端に「ギギギギギギ」という鳴き声を発し始めた蜂達。身を寄せる三匹の蜂はフィズ皇子に向かって威嚇するように何枚もある羽を震わせ、鳴き、黄色い三つ目を点滅させている。フィズ皇子へ向かって攻撃するように脚を動かす蜂達。
「大丈夫だ、その真ん中の手当をする。そんなに守ろうとして、まだ生きているのだろう? しかし賢そうな目で仲間想いなものたちよ。何処から来た? この地域にはこのような生物が暮らしていたのか。酷く怯えて……。蛇にやられたのか?」
フィズ皇子は何の迷いもないというように進み、剣を土に刺し、更に歩く。コーディアルはフィズ皇子の予想外の台詞と行動に唖然とした。それから、蜂達が急に大人しくなったことと、三つ目が青色に変化したことにも驚く。フィズ皇子はひょいっと、ずっと力無く動かなかった灰色の目をした蜂を抱き上げた。片腕に蜂を抱えて、コーディアルへと向き合ったフィズ皇子。手を差し出され、コーディアルは躊躇いなくフィズ皇子の手を取った。
「暗くて分からないので城に戻りましょう。しかし、あの化物蛇を追い払うとはコーディアル様は何をされたのです? お前達、コーディアル様に感謝せよ。おいっ! 重いからマントにしがみつくな。せめて頭に……三匹も乗らないか」
「いえ、何もしておりません。レージング様とあの蛇様がこの子達への助けを求めたようで……多分ですけれど……」
フィズ皇子から返事はない。コーディアルの手が離された。フィズ皇子は両腕で蜂蟲を抱き、眉間に皺を寄せて、険しい表情で歩いていく。次第に早歩きになり、フィズ皇子は「申し訳ございません」と走り出した。
コーディアルは慌ててフィズ皇子を追いかけた。向かい側からレージングが駆けてきて、コーディアルの隣に並ぶ。
「レージング様、これはどういうことです?」
コーディアルには走り続ける体力は無い。走れなくなり、コーディアルは徐々に徒歩になった。フィズ皇子はみるみる遠ざかっていく。
「すまないレージング! コーディアル様を頼む!」
フィズ皇子の叫びは掠れ声だった。コーディアルは走るのと歩くのを繰り返して、城に戻った。レージングはずっと寄り添ってくれていた。裏庭まで着くと、レージングがコーディアルを案内するように先に歩き出す。
井戸の所の近くに、フィズ皇子が座り込んでいる。丸まった背中。蜂三匹はフィズ皇子の体にくっついている。
「コーディアル様! 近寄らないで、そのまま城内へ!」
レージングの尾がコーディアルの体を掴む。まさかと思ったら、レージングはコーディアルの体を尾で持ち上げた。こんな力があるなんて知らなかった。寝室まで運ばれたコーディアルは、レージングに見張られて朝まで部屋から出られなかった。
全く眠れない一夜。コーディアルはレージングの前に座り続けた。
カーテンを閉めていないので、夜明けが分かる。朝日が窓に差し込むようになって、少しした時にレージングは立ち上がった。コーディアルを部屋の外に出すことを許したのだろうと、コーディアルも立ち上がる。案の定、レージングは器用に前足で扉を開いて廊下を歩き出した。多分、井戸へ向かうのだろう。
レージングは単なる狼とは違うと思っていたが、不思議でならない。昨夜、どうしてコーディアルを森へと導いたのか? フィズ皇子ではなくコーディアル。一晩、考えていたのはフィズ皇子と蜂達がどうなったかの方で、今頃疑問が浮かんでくる。
城から裏庭へと出たら朝靄が多く、肌寒かった。フィズ皇子は昨夜と同じように井戸の所に座っていた。三匹の蜂も同様。フィズ皇子にジッとくっついている。
「西の果てにある死の森の化物。巨大昆虫だという噂を耳にしたことがある。まあ、難儀な誤解だな。しかし、大丈夫だ。私がお前達は優しいと伝えよう。このような手酷いことをしないようにとな」
レージングが吠えた。フィズ皇子が振り返る。ゆっくりと、頭だけをこちらへ向けた。
「コーディアル、血であろう液体が止まらなくてな……何もしてやれなかった……」
目に涙を浮かべた笑顔。
朝焼けが、フィズ皇子の全身を照らした。靄が晴れ、濡れた頬がキラキラと光る。
フィズ皇子の腕は、火傷のように真っ赤に腫れ上がっていた。腕の中には布でグルグル巻きになっている真っ黒な瞳の蜂。布はフィズ皇子の寝巻きの白いシャツで、まだらな緑色に染まっている。
不意に三匹の蜂が飛行し、空高く舞い上がった。蜂達の三つ目は春に芽吹く若草色。
空を見上げたフィズ皇子の頬に涙が一筋流れた時、コーディアルには、ストン——と落下音が聞こえた気がした。




