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歴史とDNA

ハプログループのまとめ

作者: とびうお君

 以前書いた事と明らかな矛盾が有るので整理をしたい。はっきりとした矛盾は陸稲によって大陸づたいに来た民族の話しで、多分居ません。陸稲はおそらく海からのルートだと思われます。陸稲の遺伝子が東南アジアにルーツを持ち長江はその変異系である可能性が高いからです。稲は確実に長江ルーツだといえません。


 ややこしいのですが、沈んだスンダランドに今は無き野生種が居た可能性があるからです。この点は起源地の決定の欠点ともいえます。ただ事実を元に思考するとそれは推測でしか無いのは確かですが、杞憂ではないです。これは以前書きましたね。佐藤氏は過去は沖縄ルートだったが、新しい発見で長江ルートに鞍替えしてしまったと。


 陸づたいの陸稲ルートを否定したのは、最後は半島から海を渡りますが、これぐらいの海洋技術は当時の縄文人持っています。それ以上となると事実が明確なものが無いだけです。満州における陸稲栽培がどうも時代水稲が伝播した歴史より新しいんですよね。これは矛盾でしょ。


 水稲が後に来て陸稲が後に来た?これもややこしいのですが、水稲は原始稲作と革新的稲作に大きく分かれるのです。過去温暖湿潤だった華北に水稲が北上した可能性があります。ここから畑作稲作が満州に伝播としたと単純に考えてしまったのですが、華北の稲、水稲だったかもしれない?って可能性が出てきて、そもそも満州の陸稲文化稲の遺伝的に歴史が浅いとなると苦しいといわざる得ない。


 畑作と原始稲作を組み合わせて華北でやっていた可能性があります。


 革新的稲作、これ重要なんですよね。これは長江のものと違うんですよ。明らかに黄河文明の畑作文化を受け継いだもので、そのルーツは山東省にあります。実は縄文時代に原始水稲が栽培されていた可能性があって、それがプラントオパールが陸稲だったために縄文人が独自に開発となったのですが、実際は半島に2度別の稲作が伝播した可能性があり、その影響では無いか?と。


 何故その時米自体は伝わらなかったのか?これはちょっと分かりません。原始的粗放稲作の技術だけ伝わって、陸稲で代用した可能性があります。半島から陸稲が伝わった証拠が全く無いんですよね。むしろ韓国の学者もこれに否定的。


 新しい発見が畑作だと思っていた稲作がすべて水稲だった可能性があり、これが原始粗放稲作の伝播です。これによって過去水田が半島で見つからない理由が大体説明されています。この革新的稲作と粗放稲作の時期にタイムラグがあり。それがいろいろと問題になってるようです。


 陸稲の担い手がO1B2だったか?は正直分からないです。例えば海の民のmtハプロB系は、何度も来ていて、そのルーツは最古の日本人である可能性もあります。沖縄からのルートは氷河期でも陸伝いじゃないです。そうなると短い距離の渡航なら可能だったB系が北上したルートの通り道だった可能性があります。


 ただB系はその後遠洋航海の技術を発展させてラピタ人になります。この時氷河期以降陸地が遠ざかった海ルートで来た可能性が一番高い系統はB系であると私は考えています。B系は何度も日本に来ている可能性がある。それはサトイモが明らかに外部から持ち込まれたものだからです。その文化は南方系の海の民です。B系の下位系統まで調べないとこの区別は出来ません。それが出来るか?も不明です。可能性としてです。


 これと同じ事がmtハプロD系でも起こっています。弥生人の対はNだは確信を持っています。ですが、縄文人にもD系がどうやらいたようだとなります。Nは縄文期にもおそらく流入しています。ですが、もともとの対のハプロはC2だった可能性があります。だからそっちの可能性もあるわけです。


 さらに問題は、D系は下位系統まで考えると、そもそもC系が北上する時に残してきた母系が混血して独自の発展をした可能性もあります。これはもうC系が相方のルーツだといえないわけです。だってそうでしょう。それならすべての系統はアフリカにルーツを持つってつまらない話しになるからです。


 父系O系などはKと言うハプロ大本になっています。このKが東南アジアに到着したときに土着の父系C系、または父系D系と混血して父系が消えて母系だけ残った可能性は高いです。そこまで古い時期ならもうそれはK系統の相方になってしまうと思います。


 私が考えてるのはシベリアで父系Nと父系Cの2集団が混血して母系が入れ替わったって話です。移動性の民族にはこの手の母系と父系の交換は度々起こります。どうももっと古い可能性もあるとなると、北方系とはいえないのでは?となります。


 もちろん弥生人の母系は元は父系Nがついである北方系でほぼ確信を持ってますが、D系すべてがNが相方の北方系は誤った考えです。何故後からこれが分かったか?と言うと、mtハプロD系が巨大すぎるんです。人口が多すぎて、D系を1つの特定地域のルーツを持つ集団として扱うのは無理がある。


 後矛盾じゃ無いですが、殷のハプロがC2Cである可能性が高くなった事ですが、これね、殷は西から来たと思ってる人が多いです。それと言うのもチャリオットを巧みに使ったのが歴史的に残ってるからです。チャリオットはコーカソイドの文化です。C2Cは扶余との関係が言われています。殷=東夷というのは中々的確な見方だと思います。扶余と殷は同族じゃないかとの説もあるのです。


 ここで西と東で矛盾が生じますが、馬を得てからの遊牧民は東西に広がった帝国を築く事が多かったです。ですが、馬を得る前から文化的な広がりが遊牧民は東西に長い。これは遺跡から文化的な繋がりが東西に長いのが分かっています。直接チャリオットが東まで伝わったのは分かりませんが、類推としてそれはありうると思っています。


 後の時代との違いはモンゴル高原が舞台じゃなくて、内モンゴルが遊牧民の舞台だった。歴史的に中国の文献にモンゴル高原の歴史が一切残ってないのが問題なのですけど。とにかく分かってることは内モンゴルでの活動だけと言う事です。モンゴル人からは不満があるでしょうが、ある意味内モンゴルを領土にした中国には正当性が無い事も無いぐらい両者が深く関わる歴史が古いです。


 周=西、殷=東のような単純なものじゃなくて、両者とも東にルーツを持つ東西に長い北部文化圏の遊牧民系だと言えると思います。周は西のきょうぞくと遊牧民として繋がりを持ち、これで西方ルーツになってしまっただけで、元は東よりの東西に長い遊牧民系の民族の出身だと私は見ています。


 匈奴とルーツが似てるのですが、後の突厥との違いは同じQ系でも全くこの両者は違います。突厥に多いQ系はそもそもシベリアに行って無い、Q系なのです。コーカソイドだったとも言えます。混血が激しいですが後裔の今のウイグルを見れば分かるかと。(匈奴も突厥も元はN系が言語母体だった可能性はありますが、Nはいつもそうやって父系転換が起こるので確かな事は言えないです)


 明確に証拠があって西からの文化を受け取ったのはD系が多いキョウ族だと思います。それ以外は東西に広がりを持った文化圏だったとの類推です。キョウ族には2つの証拠があって、ただしこれはキョウ族に多いO2系の父系もふくんだ話です。青銅器文化が明らかに中国発で無い事。次に一番早く羊を東アジアで飼育したのがチベット人で、その末裔であるきょう族も同様に考えると、羊の遺伝的ルーツが中東に有るため、明らかに西から何者か?がやってきたのはほぼ事実だと考えてよいと。


 周はキョウ族とつながりが深かったため、周が西方の出身である必要は無いわけです。血族的つながりではなく、血族的には東夷に位置する遊牧民だった殷が文化的に西に広がる遊牧系の西方文化を受容したと見ています。


 まとめて、黄帝はおそらくチベット系のO2系。おそらくD系じゃないです。これだけ大きな影響を残したなら何かしらD系の特別に発展した一族が居ても良いぐらいです。チベット人も漢民族もO2系の最大ハプロは同じ(M134) なのです。これはM134が西で発展したからだと見ています。


 アイヌ人と天皇家が同じD系だというのと似てると思います。文化的に同じ系統が民族として別れてしまっただけです。夏王朝は、O1A系でO1B1なども民としては多かったと見ています。そもそも私ががらっと陸稲じゃなくて水稲だと方針転換したのは、夏王朝の北上が事実だと見たからです。


 ちなみに山東省の水稲文化に南方の発展した文化は薄いようです。ただ玉器など衰退した形では残っているとも言われて、完全否定されてるわけじゃないです。文化的に何か異質なものになってしまった可能性は高いです。それと言うのも、私が確信に至ったのは、青銅器の元となる銅を取るためのカッパーロードがさらに北上した原因だと見てるからです。


 ここが夏王朝と殷王朝には連続性がある点です。ハプロの分布を見ると過去銅の産出が盛んだった地域へO1系が不自然にのびています。それを私は漁労だと勘違いしたのですが、実際漁労文化は北上した形跡があります。ですが、多分そうじゃなくて、銅を求めた夏王朝の広がりじゃないか?と見ています。やがてこの地域の新規の土着の系統であるC2Cがこの文化の担い手になる。


 それが殷王朝だと見ています。周のQ系もこの辺りの系統です。突厥時代まで下るとQ1系からQ2系の中央アジア土着の非シベリア組に変わります。秦漢からはさほど珍しい系統じゃないのでここまでと。


 遼河文明について触れますが、北方の遊牧文化のベースになってる部分もあるし、そもそも東夷系の遊牧民はモンゴル高原の遊牧民にたいして異質だといわれています。殷が北方系の遊牧文化を持っていても、そのベースはやはり東夷遊牧民だった可能性は高いです。匈奴が明確に異質なのは、その後のスキタイの騎馬文化の後継者であり、かつ血統的にも混血だった可能性があります。


 遊牧民を後の騎馬民族の文化からイメージするのはかなり不味いと思っています。

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