駆け出した二人
「絵名姉も思い切ったことをするのう。吾が弓場で眠り込んだのも、姉が死んだと皆が騒いでいるのも全て主の仕業に違いない」
才丸が少し大げさな身振り口ぶりで言うと、絵名はふくれて
「仕業とは人聞きの悪い。とにかく今は仔細を言うている暇はないのです。ここを二人で離れましょうぞ」
「ほほう、駆け落ちのための細工であったという訳か」
「他人事のように言うでない。馬は何処に?」
急ぐ絵名をからかうように才丸は
「いつも泣いてばかりの姉が、今日は威勢が良いのう。侍従たちはしばらく戻って来まい」
年下のくせにいつも我を馬鹿にして。絵名は思ったが、それが不思議と嫌な響きにならないのが才丸の特質なのだった。
才丸は軽口をたたきながらも優しく絵名の手を取り、外へと導く。小さな絵名の体を馬の背に乗せると自分も跨り、静かに駆け出した。行き先を問うと絵名は母・早苗が度々訪れていた湯治場のある村の名を答えた。
「彼の地では我もよく母と共に世話になったのです。我のことを知るものも少なくない」
月明かりの中を、若者と鮮やかな衣をなびかせる少女を背に載せて葦毛の馬が、ただ夜道を行く。その光景は追いかける影と相まって、さながら息を吹き込んだ絵を見るようであった。
目的の地に着く頃には既に空が白み始めていた。
絵名を馬から下ろし、才丸が適当な樹を綱木として馬を止めていると、水を汲みに来たのか朝の身づくろいに来たのか、桶を持った一人の少女がこちらへ歩いてくる。その切れ長の目と小麦色の肌に長い手足は見覚えがある、と絵名は感じた。彼女も絵名を見て何か気付いたらしく、二人は少しの間、顔を見合った。
「美久?」
絵名は不意に懐かしい名を呼んだ。
一方、こちらも皆に気付かれぬうちに、と夜明け前に持ち場に戻った侍従たちは、各々の主が姿を消しているのを見て愕然とした。絵名が眠っていた棺の中には色鮮やかな晴れ装束だけが取り残されて、色彩の無い御堂の真ん中で空しく光輝いていた。
自分たちが目を離したことを叱責されるのも忘れて取り乱す、馬飼と侍女。才丸はともかく、絵名の亡骸までがどこにも見あたらないのである。しかも衣服だけを残して。夜が明けると共に騒動になった。遺体が消えるという、不可思議で凶々しい事件。やがて、楠の頭領もあらわれて
「申し訳ございません。私共が付いていながら…」
という侍従たちの必死の謝罪も耳に入らぬ様子で
「これは祟りだ…早苗の霊が、死して間もない絵名の身体を借りて才丸もろとも冥界に引きずり込んだに違いない。もう二人とも戻っては来まい」
楠の頭領は絵名の纏っていた衣の一枚を手にふらふらと御堂を後にした。日が高くなっても頭領の屋敷と寺は重々しい空気に包まれ、それ以後、楠の頭領は子供たちを突然失った悲しみと早苗の怨念に苛まれ、気のふれたようになってすっかり老け込んでしまった。
美久は、絵名が母に連れられてよく訪ねた湯治場の娘で、歳が近いことと、正反対の性格がお互いを引き寄せたのか二人はすぐに仲良くなったものだった。絵名は才丸の言うとおり、泣き虫でおとなしく、内にこもりがちな性質だったが、美久は明朗活発、侍女が止めるのも聞かずすぐに絵名を外に連れ出しては温泉村の珍しい風物を見せて回った。
色白で小柄、丸い瞳の絵名と日焼けした肌に長身、少し気の強そうな眼差しの美久、と見た目も正反対の二人がのどかな風景の中ではしゃぐのを、早苗をはじめ周りの人々も微笑ましく眺めていたものだった。
「…そうですか。あの早苗さまの娘御の願いとあれば、父母も喜んでお世話いたしましょう。ただ…」
と、美久は才丸の方を見た。
「わかっている。絵名姉の母者の知人とあれば、吾を疎ましく思うのは当然。なるべく目立たぬように過ごした方がよいというわけか」
「もうわかっていると思うけれど、私たちは父に内緒で屋敷を飛び出してきたのです。ほとぼりが冷めるまでの間です。少しの間、我らを置いてくだされば…」
絵名は才丸にも美久にも言い聞かせるように頼み込んだ。
<続く>