幼い恋心
波乱の生涯を歩んだ一条帝の后定子がその第三子、媄子内親王を遺して身罷られたと時を同じくして、とある海辺の穏やかな地方に栄え、楠の頭領と呼ばれていた豪族の長の下に可愛らしい女の子が生まれた。
絵名、というその娘の後にもまた頭領の妻の一人が男の子を生み、才丸、と名付けられると、お互い母の生家で別々に育てられながらも仲良しの幼馴染として、いつしか子供ながら将来を約束するようになった。
その頃はもちろん、母が違えば結婚には何の問題もなかったが、不幸にも才丸が生まれてからというもの、跡取りを産んだ女に対する嫉妬から精神を病んでいた絵名の母・早苗が、やがてそれが元となって心の臓を悪くし、若くして亡くなってしまった。
その今際の際に自らの髪を切り落とし、才丸の母への恨み言を呟やきながら逝った姿に楠の頭領は恐れ慄き、絵名と才丸を娶せてはどんな祟りがあるか知れぬ、2人の結婚は断じて許さぬ、と言い渡した。
そのうち、絵名の周りでは彼女を都の皇子の侍女として送り込む算段が取られ始めた。皇子に気に入られてその子を産めば自分も娘もより一層の栄華を極められる、その方がよほどめでたいと笑う父に絵名が逆らえるはずもなく、才丸に会うことも禁じられた彼女はたった一つの母の形見である、掌に乗るほどの小さな漆塗りの箱を取り出して見つめては、ひとり涙を流すしかなかった。その中には母が臨終の床で切り落とした髪の一房が入っていた。
その日、絵名の暮らす家では世を去ってちょうど一年が過ぎた早苗の法要が営まれていた。まだ母の死の悲しみの拭えぬ絵名を見て、読経が終わると僧侶は人払いを命じ、彼女に言った。
「其方の気持ちは分かっている。それに大勢の妻を娶る皇子の側にいては其方は其方の母者と同じ苦しみを味わうだけ。だからこそ渡したいものがある」
と、差し出したのは小さな薬種瓶で、中を見ると丸薬のようなものが三粒入っている。
僧侶が掌に取り出したそれらを見てみると、ひとつは白、ひとつは黄色、もう一つは赤色の小さな粒だった。
「白い粒を飲めば一日一晩眠りこけてしまう。叩こうがつねろうが薬の効き目が切れるまでは絶対に目を覚まさない。黄色い粒を飲むと3日間の間、息が無くなる。周りの者はその者が死んだと思うに違いない。だが3日が過ぎれば息を吹き返して元通りになる薬だ。そして赤い粒を飲んだ者は…眠ったままもう二度と目覚めることはない」
絵名は少しぞっとして、薬を瓶に納める僧侶の手元を見つめた。
「これらを然るべき時、然るべき者に飲ませて才丸殿と添い遂げるのだ。もちろん、自分が飲んでも構わない。其方ならきっと上手く使えるはずだ」
絵名は受け取った小瓶を母の形見の小箱と一緒に懐に入れるとしっかりと頷いた。
絵名を皇子の許へ遣わすに先んじて都風に盛大な裳着の式が執り行われることになった。同時に年に一度、一族が集う武術の祭りも催され、跡取りの才丸も元服のお披露目を兼ねて弓術の腕前を披露することになっており、久々に2人は顔を合わせることになった。
絵名は才丸が祭事の際、緊張すると酷い頭の痛みに悩まされることを思い出すと、ある考えが浮かんだ。彼女は下女を呼ぶと、
「これは心の張りを取る薬なのです。これを飲めば才丸は強ばらずにいつも通りの弓の腕を見せられるはず。お父様には見つからずに彼が飲めるようにしてあげて」
と僧侶に貰った白の薬を取りだした。
お任せあれと下女は密かに恋仲になっていた才丸付きの馬飼に訳を話してそれを託し、そこから無事丸薬は秘密裏に才丸の許へわたった。
いよいよ祭りが始められる。才丸は絵名の心遣いに感謝するとその白い粒を飲み、大勢の一族とその最前列に座る父、美しく正装した絵名が見守る中、弓を手に晴れ舞台へと進み出た。
確かに心は穏やかだ。これなら手元も狂わず的を狙える、と思った瞬間、才丸は引き込まれるような眠気に襲われてその場に昏倒し、皆の目の前で大の字になり、大鼾をかいて眠ってしまった。
絵名の隣に座っていた父は真っ赤になって怒り心頭に発し、一世一代の舞台で眠りこけるとは何事か、許せぬ、目を覚ましたら国の外れの寺社に蟄居させよ、と周りの者にきつく命じた。だが、叩こうがつねろうが一向に起きる気配がない才丸はそのままうら寂しい山の麓の寺へと放り込まれた。
一昼夜の後、薬の効き目が切れた才丸は訳の分からぬまま、暗い御堂で目を覚ました。
思えば絵名から貰ったあの粒を飲んだ後、何もわからなくなってしまった。寺の一室に連れて行かれ、周りの者から話を聞くに、どうやら自分は一族の前で大恥を晒して父から謹慎を命ぜられたようだが、絵名がそんな目に合わせるために薬を飲ませたとも思えない。何か訳があるはずだと才丸は一人考えた。
ちょうどその頃、人の絶えた屋敷の片隅で絵名は小瓶から黄色い丸薬を取り出し、思い切ってそれを飲んだ。するととたんに激しく目が回り、彼女はその場に倒れ込んでしまった。
<続く>