08:旦那様とささやかな褒美
ミツルがまだ、自らを立石 充と名乗っていた頃。
下校中のトラック事故。気づいたら、花が咲き誇る見慣れぬ場所にミツルは立っていた。
雨に打たれびしょ濡れだったミツルは、突如現れたこともあり、周りの人を騒然とさせた。
「待って、怪しいものじゃない!」
慌てるミツルからどんどんと遠ざかる人たち。終いには衛兵まで呼びに行かれる始末。
そんな中、途方に暮れたミツルに近づいてくる一人の侍女がいた。
その侍女は無言で持っていたハンカチを差し出すと、真っ直ぐに主の元へ帰って行った。
突然のことに、訳が分からないままに受け取ったハンカチ。ミツルが見つめる先には、センスで口元を隠した高貴な女性。
――ミツルに初めて、この世界で優しさを分け与えてくれた人であった。
***
「魔王を倒してきてくれたそちにこれ以上の頼み事など、図々しいこととはじゅーーっじゅう承知しておる! の、だが。最後に、もうひとつ、もうひとつだけっ、願いを聞き届けてほしいっ!!」
両手を合わせ、くねっと腰を曲げる中年のおっさん。もとい、国王。
魔王殺しの英雄として、王城に舞い戻ってきたミツルは、耳に小指を突っ込んだまま受け答えた。
「えー世界まで救ったのに、まだあるんですか。うちの国には、驕れる者久しからずっていうそりゃもう長ーく受け継がれてるありがたーい言葉がありましてねえ……」
凱旋後、二人きりで話がしたいと真顔で告げられた勇者は、国王の私室に招かれていた。
誘われた時には「そっちの趣味はないんで」などとふざけていた勇者も、それを後悔なんてしてやるつもりはない展開となっている。
「旅立ちには“ひのきのぼう”なるものがどうしても欲しいとそちがいうから、国中を散々探し回ってやった儂になんという態度じゃ!」
「結局いただけたのはくぬぎでしたしねえ。ひのきじゃないと、雰囲気でないですしおすし」
それより長旅で疲れてるんですよね。温泉で美女20人と混浴とかご褒美ないんですか。耳から指を引き抜いたミツルは、ふーと息を吐きかけてそう言った。もはやまともに取り合うつもりがないのは、その態度から見て取れる。
「そちに、アナスタシア姫と結婚してほしいのだ」
ミツルのペースに巻き込まれたら話が進まないと感じたのか、国王は単刀直入に告げてきた。
「アナスタシア姫……って、グラースの彼女の……? え、えー……いやぁ、どう考えても邪魔でしょう……なんの冗談で……」
「一時でいいのだ。仮初の結婚で」
グラースとミツルは背を預け合い、魔王を討伐した仲である。当然、彼の幼馴染みであり婚約者でもあるアナスタシアの話を、ミツルも何度も聞いていた。その姫と結婚しろとは――いくら何でも無茶振りすぎる。
「グラース・メールの生家、メール侯爵家が、謀反を起こそうとしておる」
ミツルは眉根に皺を寄せた。
「謀反って……いやいやまさか」
「冗談でこのようなこと申すか!」
肩を怒らす国王に、ミツルは鼻に皺を寄せた。
「――グラースは……」
「一切の嫌疑が晴れておるわけではない。だが救世の英雄でもあり、忠義者であったあやつを疑いたくないと思う儂の心が、国を傾ける事だけは許されん」
これから一丸となり、復興をしていかねばならぬ時に……。そう続けた国王は酷く疲れているようだった。
「俺はグラースを信じてるけど」
「だから! 儂とて信じたいと――いやだから、信じては……ぐぬぬ。おのれそち、おちょくっておるな」
「はっはっは。それで?」
「グラースの身を洗い、侯爵家を取潰せるほどの証拠を掴む為の時間を稼ぎたい。今の侯爵家へ嫁がせればどうなるかなど―― 一目瞭然だ」
人質とされるか、反逆の旗頭とされ国王に殺されるか、傀儡として侯爵家に食いつぶされるか――
「うーーん……、しかしねえ、親友の婚約者なんだよなあ……」
極一般的な価値観を持つ者なら、まず避ける物件である。そしてミツルには、絶対に避けたいだけの理由もあった。出来れば、これから一生、グラースの恋人であるアナスタシア姫とは交流を持ちたくなかったと思うほどの、理由が。
「救世の英雄でもあるグラースと、アナスタシアの婚約を破棄できるだけの対外的な理由が他に思い浮かばなんだ――英雄を凌ぐ、魔王殺しの勇者の褒美しか……。これを凌げれば、救世と合わせ、できる限りの褒美を取らす。必ず、必ず良いように取り計らおう。そちの傷にはさせん」
そんなこと、どうだってよかった。
あちらの世界全てを失ったミツルには、こちらで失えるものなど少なすぎる。国にも、人にも、何にも執着が持てなかった。魔王討伐をためらわない程度には――自分の命でさえ。
なのに、唯一手放せなかったもの。
ミツルはポケットに手を突っ込んだ。激しい攻防を繰り広げる旅の間、片時も離さなかったハンカチ。元の色が分からないほど泥に汚れ、穴やほつれだらけのその布を、ミツルは決して捨てることが出来なかった。
ポケットの中で、ミツルはぎゅっと手を握った。
「……わかった。勇者がお姫様を見殺しにする訳にもいかないしね」
覚悟を秘めたように、勇者は苦笑を国王に返した。今にも飛び上がらんばかりに喜んでいる国王に、ミツルはにたりと口の端を上げる。
「結婚って、そっちも手だしていいの?」
「……」
「はい、はい。わーかーりましたー。そんなに睨まなくても、指一本触れませんよ」
***
椅子の背もたれに寄りかかり、机に脚を上げる。
アナスタシアが見れば行儀の悪さに眉を顰めそうな格好で、ミツルはしばしのまどろみに身を委ねていた。
もうずっと昔にあったような、最近の出来事。始まりであり、終わりを待つ夢の話。先日受け取った手紙でメール家の顛末を知らされたミツルは、夢の幕がもうすぐ下りることを知っていた。
ミツルはポケットの中で握りしめていたハンカチを手放すと、顔にかけていた上着を払う。廊下から聞こえてくる、珍しく慌ただしい足音。アナスタシアに咎められぬうちに、執務机から足も退けた。
「旦那様!」
勢いよく執務室のドアを開けたアナスタシアは、ひどく狼狽していた。いつも気丈に振る舞い、畑仕事の最中でも気品を忘れないアナスタシアの珍しい姿に、ミツルは全てを悟る。
「グラースに聞いたんだね」
茜色に反射するアナスタシアの髪に触れたいと、クワを手にしながらいつもミツルは考えていた。
とってつけたような暇つぶしのための作業を、これほどアナスタシアが真面目にやるとは意外だった。きっとすぐに飽きるだろう。そう思っていたのに、アナスタシアはミツルの予想を大きく裏切った。彼にとって、とても好ましくない方向に。
「わ、わたくしはっ」
長い睫毛に縁どられたアナスタシアの大きな瞳から、ぽろぽろと涙が溢れる。慰めるために伸ばす手を、ミツルは最初から持っていなかった。
最初から契約で始まった関係だった。
彼女に真実を――仮初の結婚だと伝えなかったのは、
――旦那様
限られた、ほんの一時の間だけでいいから。
魔王を倒したささやかな褒美ぐらい、強請ったって、いいだろう?
「おねだりかな?」
ミツルは椅子から立ち上がるとアナスタシアの正面に立った。膝を折るまでもなく、目線が合う。
アナスタシアは、まるで縋るような目をして、こくんと首を縦に振った。ミツルは契約の終わりを知り、笑った。いつものように。
「離婚かな? それとも、結婚後の恋愛の催促?」
アナスタシアは動きを止め、ミツルをまじまじと見つめる。驚くことなど何もないのに。ミツルはアナスタシアが言葉を吐く前に口を開いた。
「大丈夫、君が誰を想っているか。勿論、ちゃんと知ってるから」
アナスタシアは、顔を蒼白させて小刻みに首を横に振る。
心配しなくていいのに。
薄情だなんて、思ったことは無い。元々相思相愛の恋人同士に横やりを入れたのは自分だ。ミツルは自分の立場も、彼女の立場もよく理解していた。
「よくがんばったね。すぐに彼と一緒になるのは、まだ難しいかもしれないけど――大丈夫、僕たちはずっと、清い結婚だった。それはこの屋敷の皆が証明してくれる」
アナスタシアは強いショックを受けたように一歩よろめく。支えようと咄嗟にミツルが伸ばした手に、震える体でアナスタシアが縋りついた。
「待って、旦那様、私は、私は――」
王都から遠く離れた片田舎。心細い思いをしたことだろう。そんな中、夫婦として二人は十分に信頼関係を築いてきた。アナスタシアはミツルに罪悪感を、憐憫を、そして親愛を感じてくれている――泣いてすがるほど。
きっと彼女も夢から覚めて、また彼をこんなに熱のこもった瞳で見つめる日々が来るのだろう。
「大丈夫」
ミツルは彼女の姿を見ないために目を細めた。自分は上手く、笑えているだろうか。あんなに簡単に笑えていたはずなのに、ミツルにはあまり自信がなかった。
「すぐに辛くなくなるよ」
風変わりな田舎生活を彼女なりに楽しんでいたのだろう。しかし、旅行の楽しさに捕まって、現実の幸せを逃してはいけない。吊り橋効果なんて、一時のまやかしだ。ミツルはアナスタシアの肩を持ち、引き剥がす。そして、笑った。
「さぁ、本当に好きな人の元へお行き」