06:赤く熟れた野菜と恋
変化は、夏の盛りを迎える前にやって来た。
「アナー! ミーツルー! やっほーー!」
夏の太陽よりもよほど明るい笑顔を携えてやってきたのは、魔王討伐パーティの英雄の一人でありアナスタシアの旧友ノチェと――
「――ご無沙汰しております」
同じく英雄の一人、アナスタシアの元婚約者、グラース・メールだった。
今朝告げられた来客の名に、アナスタシアはただ唖然とするしかなかった。しかもそれを告げてきたのは、屋敷の全てを取り仕切る執事ではなく、ミツル。アナスタシアは、その事態にしばらく言葉を失っていた。
しかし呆けている暇はなかった。朝一番から女主人として来客の準備を整え、のんびりと紅茶を飲むミツルに小言を吐き、アナスタシアは屋敷中を駆け回った。
「遠いところ、まぁわざわざよく来てくれたね」
ミツルの独占欲からくる嫌味のような発言に、アナスタシアはハッとした。実際に訪れた珍客に、驚いている暇はない。屋敷の主である彼が歓迎しなければ、屋敷は一気に彼らにとって居心地の悪い空間となるだろう。過去のことはあれど、二人はアナスタシアにとって大事な人達。――そして、ミツルにとっても命を支え合った仲間である。
「やだー! 雪のようだって言われてた肌が、まっくろな小麦色じゃん! ミツル、アナに苦労かけてんじゃないでしょうねえ」
自分がなんとか取り持たなくては。そう思ったアナスタシアは出端をくじかれて言葉を詰まらせた。
「……しまった。畑に出りゃ焼けるのなんて、余りにも当たり前のこと過ぎて、忘れてた……」
「ちょっと、ミツル! 日焼け防止ぐらいちゃんとさせてたんでしょうね!」
アナスタシアの手を取り、ミツルに目を吊り上げているのはノチェ。アナスタシアは、ノチェとミツルが会話している場面を唖然として見た。初めて聞くミツルの気安いその口調に、自分以上の信頼を見つけてしまう。
ノチェが言ったように、アナスタシアの肌は輿入れしたばかりの頃の、雪にも溶けてしまいそうな美しさをなくしている。健康的な小麦色の肌は違う魅力に満ちているが、ミツルは後悔の色を顔に浮かべていた。
「はい、はい。俺の過失ですよ」
小さいながらに格闘家として魔王討伐の旅に随行したノチェ。アナスタシアとは目線が変わらないミツルを、見上げるほど彼女は小さい。アナスタシアはこの親密なやり取りに入る隙を見つけられず、瞬きをしながらその光景を見つめる。
「久しぶりに会った仲間になんて態度。まっ、ミツルらしいか。ねえアナ」
嫁いだばかりの頃、ミツルにノチェを招こうかと提案されたことがある。あの時、アナスタシアはしょうもない意地からそれを断った。
「アナスタシア?」
ぼうとしていた彼女に気付いたミツルが声をかける。ミツルの隣から、ノチェもアナスタシアを覗き込んでいた。
「はい」
「せっかくの来客だ。積もる話もあるだろうから、僕は席を外すよ」
えっ。
アナスタシアは、吐息だけで問いかける。
「実は仕事が立て込んでて、ちょっと余裕がないんだ。グラース、ノチェ。また夜に酒でも飲みながら」
「忙しいところすまなかった」
「構わないよ」
グラースとミツルは、アナスタシアが想像していたよりもずっと、ずっと自然に会話を交わす。恋人を奪い合った、男同士にはまるで見えない。ミツルのアナスタシアへの束縛から、きっとグラースとは会話もできないのだと思っていた。それなのに――
「あ、あー! わ、私も~他の仲間に預かってきたものとかあるんだ~! ちょっとだけだし、時間とらせないし、仕事の邪魔しないし! そっち行っても、いいよねえ?!」
ノチェの棒読みに気付かないふりをしたミツルは、ふっと笑って手招いた。
「どうぞ」
アナスタシアは、今度こそ言葉を失った。
ミツルとノチェは連れ立って屋敷の奥へと足を進める。何故か汗をぬぐうノチェに、ミツルが何か意地の悪いことでも言ったのだろうか。毛を逆立てたように、ミツルを見上げてノチェが咆える。
「――アナスタシア。庭を案内してもらえるか?」
懐かしいグラースの声。心が躍ってもいいはずなのに、なぜか絶望に突き落とすだけ。
アナスタシアはミツルを見つめたまま、こくんと頷いた。
なぜ、貴方はだって、私の好きな人を知っているはずじゃない――。
自分の親友から奪ってでも、欲したはず……そうでしょう、旦那様?
アナスタシアは、二人が消えて行った廊下から、視線を剥がすことがどうしても出来なかった。
***
「会いに来るのが遅くなってすまない。色々と手間取って――」
知っている。手間を取らせていたのは、自分の夫だと予想がついたからだ。
アナスタシアは歩き慣れた庭を、グラースを伴って歩く。もちろん、すでに婚約関係にない二人の歩く位置は昔のままではない。
「今日はノチェの護衛という名目で訪れることが出来た。……遅くなったことを、怒っているか?」
「えっ、い、いいえ。……そんなことは」
そんなことは、全く、これっぽっちも。
告げるにはいささか不調法な真実を、アナスタシアは呑み込んだ。
アナスタシアは一度として、彼に迎えに来てほしいなんて思ったことはなかった。それは、彼女が生粋の「与えるもの」であったからである。
王女として育ったアナスタシアは、例え愛しい婚約者がいたとしても、救世の褒美に我が身を与えることに対して納得できた。その高貴な誇りは、グラースに別れを告げる原動力ともなった。辛さを感じても、彼に縋ることなんて一度だって思い浮かぶことはなかった。
しかし、不満を抱かなかったわけではない。何故勇者が望んだのが、一度も話をしたこともない自分なのだと――定められていた幸せな道を想い、臍を噛んだこともある。
――あの時、
「アナスタシア」
こうしてグラースに手を取られたら、自分は勇者から逃げ出していただろうか。
「……お茶を、用意するわ。あちらで待っていてくださる?」
庭に置かれたガーデンテーブルを指さしたアナスタシアに、グラースは従った。アナスタシアは不自然にならないように、ゆっくりとその場を立ち去る。
庭を離れ、渡り廊下へとたどり着く。足音が、カツンカツンと鳴り始めた。
今のは、明らかに人妻に取る態度ではなかった。彼は礼儀を重んじる。人妻に、あんな風に言い寄るようなことは決してないと思っていたのに。
――それとも、彼もまたアナスタシアを忘れられないままでいるのだろうか。
アナスタシアはまだグラースが好きだ――好きな、はずだ。だって、彼を忘れるにはまだ早すぎる。彼を忘れる、理由だってない。悲劇的に引き剥がされてしまったけれど、アナスタシアの心はまだ、グラースに置いてきているはずなのだ。
アナスタシアは石畳の上を歩く。まるで彼女とグラースを二人きりにするためのように、使用人が見当たらない。
使用人を探す途中、ミツルと育てた畑を見つけ、アナスタシアは足を止めた。
バタバタとしていて、朝の水やりを忘れていたことを思い出したのだ。陽は高く上っているが、撒いてもいいのだろうか。判断がつかず、アナスタシアは野菜の傍まで歩み寄る。
野菜は無事だ。別段、一度水をやらなくても地に根を張っている限り大丈夫なのかもしれない。支柱に沿って、しっかりと立っている。実は青から赤へと色づいている。
それがまるで――自分の心のようで。
アナスタシアはパッと実から視線を逸らした。
自分の心って、なに。アナスタシアはまだ、元婚約者のグラースを好いているのだ。そうに違いない。そうでなければならない。アナスタシアは、義務のため、涙を呑んでここに来たのだ。
もう大丈夫。心を落ち着かせたアナスタシアは、もう一度赤く熟れた実を見た。
小さな実と大きな実が、隣り合っている。それを見て、ミツルとノチェの後姿を思い出す。
アナスタシアは救世の褒美に彼に望まれた。けれど、彼がアナスタシアに見せる笑顔は作られたものばかり。
それならばいっそ。自分などよりもよほど、ノチェを褒美に望めばよかったのに――
ぽとり。
乾いた畑に、一粒の雫が落ちた。
雨だろうか。アナスタシアは顔を上げる。水を撒いていなかったから、丁度よかった。そう思って雨雲を探すが、一行に見当たらない。
頬に風が当たって気付く。雫は両の目から溢れていた。自らが泣いていたことを知り、アナスタシアは驚いた。
泣くことなんて、何もない。もしミツルがノチェを褒美に望めば、アナスタシアはグラースと当初の予定通り結婚することだろう。彼と別れて――
考え始めると、何故かアナスタシアの心に雨雲が迫る様だった。淑女にあるまじきことだとは知りながら、ぐしぐしと裾で涙を拭う。アナスタシアの懐を占領しているハンカチは、汚すことが出来ない。
畑からはミツルの執務室が見える。まだノチェと一緒にいるのだろうか。せっかく会いに来てくれた友人にこんな思いを抱くなんて――アナスタシアは情けない気持ちを抱えて執務室を見上げる。
――そこに丁度、ミツルが顔を覗かせた。
二人は、まったく同じように目を見開いて、同じだけ固まる。
ぱちぱち、と大きく二度瞬きをしたミツルは、慌てて踵を返した。きっとこちらに向かったのだろう。アナスタシアが見上げ続ける部屋には、ノチェの気配はない。アナスタシアは、小さな吐息を零した。
「――アナスタシア」
アナスタシアの呼吸が整い終えたころ、声をかけられた。アナスタシアはその声に、その響きに、心臓を抉られる。
ゆっくりと振り返る。そこに、ちょっと背の低い顔つきが平凡なヘタレ勇者はいなかった。
そこにいたのは、
「泣いていたのか?」
アナスタシアを、一人の女として見る――元婚約者の姿。
嘘だ、信じられない。
アナスタシアは上手く呼吸が出来なかった。滲む涙が熱くて、胸は掻き毟りたいほど痛む。
だって、そんな。目が合ったのに。彼はここで、私が泣いていることを――知っていたのに。なのに、彼を寄越すなんて。私を慰めるために、彼を、グラースを寄越すなんて。
信じられない、信じられなかった。
優しいだけじゃ、恋は出来ない。彼にはどこにもときめかない。
そう思っていたくせに。
涙が溢れる。拭う手のぬくもりなんて、グラース以外に知らないはずなのに、グラースのものは欲しくなかった。不器用に、宝物のように、そっと触れる夢の中のぬくもりがほしかった。