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05:お花畑と夏本番

 ジャネットの死に物狂いの説得により、アナスタシアの誤解は解けた。しかし、解いた誤解に対して、アナスタシアは憤りしか感じなかった。


 ――意気地なし! へたれ! 息子なんて軽々しく言う前に、息子を作る努力ぐらいしてみろっていうのよ!


 憤慨したままとった朝食の席では、アナスタシアはミツルの方を向くことさえしてやらなかった。寵愛する妻に冷たくされて、少しぐらいへこめばいいんだわ。アナスタシアは、それだけの自信を彼に対して持っていた。

 何しろ彼は、親友の恋人を奪うことになっても――アナスタシアがほしかったのだから。


「アナスタシア、ほら、リンゴの甘煮。レモンが入ってるから酸味もきいて美味しいよ」

「アマニではありません。コンポートです」

 怒るる妻の機嫌を取ろうとあれやこれやと手を打とうとするミツルに、すましたままアナスタシアは答える。


「なるほど、コンポート。アナスタシア、僕の分もお食べ」

「お行儀が悪うございます」

「忘れたのかい。夫婦は行儀の悪さで、愛を乞うんだよ」

 ほら、とコンポートを取り分けた皿をアナスタシアに差し出すミツルに、アナスタシアはつい小さく笑ってしまった。彼の冗談も聞き慣れてしまえば心地よい。


「では今度、夫婦の作法を母に尋ねたいと思います。連れて行ってくださいますよね?」

「勿論、涼しくなったら王都に顔を出しにいこう――けど、お母上には拝謁してないな」

「ええ。私の幼い頃に、お花畑の中に眠りに行って――それっきり、起きてこない寝坊助さんですの」

「なるほど、君の寝起きの悪さはお母さん譲りか。ということは、その目もくらみそうな美しさも、お母さん譲りかな。お会いするのが楽しみだ」


 母の死を伝えても暗くならない、彼の会話が好きだとアナスタシアは思った。


 思えば、彼の軽口は出会ってからずっと変わらない。あの日、失望と希望を抱え寝室に入室したアナスタシアを迎えたあの時から――けれどもう、アナスタシアは、あの日のように彼に呆れることは無い。彼の気遣いに笑みを浮かべるようにすらなった。アナスタシアは変わった。――では、


「それまで、風邪なんて引かないでくれよ。ほら、召し上がれ」


 ――ミツルは?


 目を細め、口角を上げて、アナスタシアを覗き込みながら微笑む夫に、彼女は言葉を返すことが出来なかった。


 彼の態度が、彼の笑顔が、彼の気遣いが。

 結婚当初からあまりにも変わらないことに、アナスタシアは気付いてしまったからだ。


 彼はアナスタシアが嫁いだその日から、ずっと彼女に優しかった。目の届く範囲での自由を許し、不便な義務を無くし、常に気にかけてくれていた。


 ――優しい人。


 アナスタシアは、彼をそう評した。今でもそれは変わらない。ミツルは優しい。ずっと、ずっと――変わらない優しさでアナスタシアに接する。アナスタシアに声を荒げることも、感情を高ぶらせることも、何かを強く求めることもなく――ただ、そうであるためにそうしているかのように、優しい。


 アナスタシアは変わった。ミツルの優しさに満足できないようになった。それなのに、優しくしないでほしいと思うようにもなった。


「旦那様」

「はい、はい」


 アナスタシアのへそ曲げも、ミツルは全く堪えない。


「アナスタシアのおねだりを、聞いてくださりますか?」

「可愛いお姫様のためなら。出来る限りは」


 お姫様、そんな言葉にさえ不安になる。

 アナスタシアはもう姫ではない。彼の妻なのに。


「笑顔が、見たいです。旦那様の」


「なんだ、そんなもの」


 にこり、とミツルは笑った。それは――いつもの笑みだった。


 アナスタシアは、知ってしまった。

 ミツルの浮かべる笑顔が、いつも――こうして、作られていたものなのだと。




***




 表面上は何も変わらない日々が過ぎた。

 何も変わらないのも無理はない。ミツルはずっと、何も変わらないのだから。

 人知れず、だけど着実に変わっていっていたのは、アナスタシアだけ。アナスタシアは、その変化を直視するのを厭い、あの時の事を深く思い出すのは止めていた。


「それじゃあ、おやすみ」

「……おやすみなさい」


 壁に灯る燭台に蓋をして、広い寝台に横になる。星のあかりがほんのりと照らしているだけの寝室。そんな中でさえ、目を合わせられる距離にいるというのに、ミツルの手がアナスタシアに伸ばされることは無い。


 剣を握る大きく分厚い手。かさついた皮膚に、いくつものまめ。あの手が自らの肌を統べる感触を、アナスタシアは知らない。


 アナスタシアの沈黙に何も感じないわけではないだろう。なのにミツルは、何も言ってこなかった。


 ――私達、夫婦なのですよ。


 貴方が望んだ、妻ではないか。アナスタシアは涙混じりに訴えてやりたくなった。当初感じていた呆れは消え去っている。もう「へたれ」だと彼をなじることなんて、到底出来やしない。アナスタシアだってもう、あの頃と同じように「夫婦の務めを」と詰め寄ることなんて出来ないのだから。


 アナスタシアと同じ理由なのだろうか。そうだとしたら――なぜ。もう十分に、信頼関係は築けているではないかと滲む涙を瞼で防ぐ。


 隣から聞こえる呼吸は、次第に深く、長くなっていく。アナスタシアは身を起こし、サイドテーブルの引き出しを開ける。そこには、なんとなく――本当になんとなく、彼のために刺したハンカチが仕舞い込まれていた。


 手渡そうと、日中はずっと持ち歩いていた。けれどもし、ここにしまっている時に、彼が偶然見つけてくれたら――そうしたら、アナスタシアは笑って「旦那様のために刺しました」とそう言おうと。なのに。


 思い浮かぶのは不満ばかり。

 こんなに風に人に対して、執着したり、疑念を感じたり、不満を抱いたことはきっとなかった。


 グラースはどうだっただろうか。最近、ほとんど思い浮かべることのなくなった愛しい人を思い出しても、アナスタシアは途方に暮れるばかり。


 身の内を焦す感情の正体も知らず、アナスタシアは引き出しにハンカチを仕舞いなおした。

 なめらかな絹の布団に滑り込み、そっと彼の肩に額をくっつける。


 頬を寄せて、目を瞑る。傍に感じる規則正しい寝息。呼吸を合わせるようにして、アナスタシアも眠りの淵を下りた。




***




 ぬるい風が服の隙間を抜けてゆく。気づけば頬に、汗が滴る季節となっていた。


 燦々とした太陽に励まされ、野菜は青々しく育っていく。せっかく生えた芽を間引くのは辛い作業だったが、アナスタシアは心を鬼にして小さなそれを摘んでいった。

 どんどんと大きく育つ野菜に支柱を添える。仕事が忙しくなったミツルの代わりに、ジャネットが共に世話をしてくれるようになった。剪定し、いつも通りの手入れを繰り返していくと――とうとう緑色の小さな実が、いくつかの株についているのを発見した。


 ジャネットと手を取り合ってアナスタシアは喜ぶ。

 畑から見上げる先には、ミツルの執務室があった。ミツルは席を立っている。休憩しているのかもしれない。


「私、旦那様を呼んでくるわ」

「ええ、慌てずとも実は逃げませんから――転ばないようになさってくださいまし!」

 ミツルの元へ一目散に飛んでいくアナスタシアの後ろ姿に、ジャネットは声をかけた。アナスタシアは微かに聞こえた貴婦人の心得に従い、そっと歩調を緩める。


 通い慣れた執務室の扉をノックすると、アナスタシアは返事も聞かずにドアを開けた。


「旦那様! とうとう野菜に――!」


 喜色満面で部屋に飛び込んだアナスタシアを、ミツルは見開いた眼で出迎えた。気配に敏い彼が、アナスタシアの来訪に気付いていなかったのだろうか。ミツルの驚きに驚いたアナスタシアもまた、目を見開いて彼を見つめた。


「……あぁ、アナスタシア。どうかしたの?」

 ミツルは笑みを浮かべる。不自然なところはない。きっと、前までのアナスタシアなら騙されていたことだろう。だがそのあまりにも自然な態度が、アナスタシアには自然に見えなかった。

 けれど、アナスタシアは良き妻であった。夫の秘密を覗くような真似などしたくはなかった。


「野菜に、実が――」

「そうなんだ、ようやっとだね。これから夏本番。きっと瑞々しい実になる」


 ミツルは変わらぬ笑みで頷く。手にしていた紙が、ひらりと彼の指から舞い落ちた。

 あっ――と、アナスタシアは声をあげることもできない。


「待ち遠しかったけど、熟すまで、もう少しの辛抱だ」


 虫よけのために炊いていた暖炉の火で、手紙が踊る。


 ぱちち ぱち


「呼びに来てくれたんだろう? さぁ、見に行こう」


 ぱち ぱち

 手紙が音を立てて燃えていく。ポケットに手を入れたまま、ミツルは一度も振り返らずに、そう言った。






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