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04:俺の息子とアトゴフン

「アナスタシア。今日の午後、動きやすい格好で執務室に来てくれるかな」


 爽やかな朝日が差し込む夫婦の寝室。アナスタシアは、薄い下着一枚で枕につっぷしていた。寝起きが悪いアナスタシアは寝相が悪く、寝相が悪いアナスタシアは、寝癖も酷い。ぼさぼさの長い髪で枕に顔を埋め、ミツルに「あー……ぐ」と返事をした。


「今日の朝ごはんに君の好きな柑橘類があるようだよ。後で一緒に食べよう」

 アナスタシアが寝ぼけたまま顔を動かす。髪の隙間から見えたミツルは、カフスを留めていた。アナスタシアの視線に気づくと彼女を見下ろし、何故かポケットに手を入れると、ふふっと目元を緩ませる。見たこともない、思わずこぼれたというような笑み。


「髪がぐしゃぐしゃだ」

 ポケットから手を出したミツルがアナスタシアの髪に手を伸ばそうとして、止めた。今までぼうと眺めていただけのアナスタシアだったが、その動作に覚醒する。


「……目が覚めたみたいだね。下で待ってるよ。ジャネットと用意を整えておいで」

 ふわりと笑ったその顔は、いつも通りの笑みだった。




 午後になり、一人で執務室へ赴いたアナスタシアを、ミツルは庭に連れ出した。そしておもむろに一角を指さして彼女に言う。


「この面積を貰い受けたんだ。一緒に庭いじりでもしようよ」

 何を言っているのか。アナスタシアは若干引いてしまった。


「時間つぶしにはもってこいだと思って」

 ミツルの指した場所は、何の変哲もない草地だった。


 庭いじり、と簡単に言われても、アナスタシアは今まで畑仕事などしたことがない。公務の一環で、畝を作られた畑に種を撒いたことがある程度だ。

 畑を睨みつけたアナスタシアが、唇を噛む。


「領主の妻の役目は、私には果たせないから……でしょうか」


「……うん? あぁ。そんな風に思ってたんだ、ごめんね」

 ミツルはあまりにもあっさりと謝罪した。


「……え?」

「僕は知っての通り、この世界の事に疎くてね。更に貴族の事なんて何も知らない。だから、一通りどんなことをしなければいけないのか、知ってから君の手を借りようと思って。君はなんていっても、公務に関してエキスパートだから」

 ミツルの言葉にアナスタシアは居心地悪げに、もじもじと体を揺らす。


「それは……私は王女として、教育を受けてきましたから……」


「最初から君に頼ってばかりじゃ、僕は何にもできない不甲斐ない男になってしまう。そんな男に君は、惚れてなんてくれないでしょ? 駄目な夫が一丁前になるまでの間、君には申し訳ないけど、畑で暇を潰していてくれないかな」


 上手い具合に丸め込まれた気がしないでもなかったが、アナスタシアはもう悲しい気持ちを抱えてはいなかった。


「それに、まるまる実った野菜は領民に喜ばれるよ。大丈夫、アナスタシアは腰が太いから、きっと畑仕事も上手くなる」

 なんですって。アナスタシアはきっと睨みつけたが、ミツルは笑って流す。

「あ、大丈夫。畑仕事に関しては任せて。ちゃんとこっちのセンセイ達に講義も受けたし、ど田舎育ちの百姓の孫の腕の見せ所だから」

 俺が君に教えてやれる、たった一つの事かもしれないしね。


 ミツルは山の端にかかった茜色の太陽を見て呟いた。太陽は、ミツルの来た世界と変わらない色をしているのだろうか。

 黄金に照らされたミツルの、異世界人らしい顔立ちを見てアナスタシアは何故か一瞬だけ息を呑む。


「さっ、まずは耕そう。土は他所から持ってくるから、クワでががっとやっちゃおうか」


 えっ、ほんとにそこからやるの?

 世界一高貴だったアナスタシアは、カラスが泣く夕焼けの中、初めてクワを振るった。




***




 クワを入れ、虫に悲鳴を上げ、土を運び、虫に泣き叫び、他の畑から土を譲ってもらい、彼女が人生で一度だって触れなくてもよかったに違いないものを撒き、虫に逆切れし、クワを振るった。畑が完成したのは、およそ一週間後。

 二人は夕暮れ近く、涼しくなる頃を見計らって畑に赴き、泥だらけの格好で風呂に駆け込む日々を送っていた。

 畑いじりが夫婦水入らずの時間になったことをジャネットは喜んでいるようだが、泥だらけの格好についてはあまり歓迎出来るものではないらしい。風呂場では、王城の時以上に丁寧に磨かれた。


 畑と言っても、立派なものではない。数歩ミツルが歩けば端から端まで辿り着く。しかし、アナスタシアにとっては初めて手塩にかけた畑である。既に並々ならぬ親しみを抱いていた。


 何故こんな耕地でもない、辺鄙な一角に畑を作ったのか。そう思っていたアナスタシアは、暇な時間に屋敷を歩き回ったおかげでその理由を知ることとなる。

 ここは、高い建物や塀がひしめく中で唯一、一日中陽が当たる場所だったのだ。


 それを、誰かに聞いたのかもしれない。彼の執務室からちょうど見えるこの場所に、気まぐれで気づいただけかもしれない。けれどもし。手ひどく傷つけた妻のためにと、彼が忙しい合間を縫って探してくれたのなら――アナスタシアは、胸が締め付けられるような喜びを感じてしまうのだ。


「次は、次は? 旦那様、種を撒くのでしょう」

 種まきは、孤児院の慰問や、収穫祭などの時にアナスタシアもやったことがある。特に豊穣を司る祭りにおいては、実りを与えるのは女性だと相場が決まっている。アナスタシアが来賓として呼ばれていれば、その役を彼女が担うことも少なくなかった。


 夕日がアナスタシアの瞳を輝かせる。ミツルは自分の服で手の甲を拭うと、アナスタシアの頬にそっと触れた。


「泥がついているよ、アナスタシア」


 アナスタシアは触れる温度に驚いて、体の動きを止めてミツルを凝視した。彼女の視線にミツルはパチパチと瞬きをすると、僅かに目を見開く。


「あぁ。すまなかったね」

 ミツルはアナスタシアに触れていた手を下ろした。アナスタシアは初めて、ミツルに触れられた。

 アナスタシアが、今まで自分に触れていた手を見つめ、呟く。


「――夫婦ですから、どうぞお気になさらないで」

「ありがとう。君は妻の鑑だね。貞淑で純真な幼な妻から零れる、意図しない誘い文句。中々にそそられますなぁ」

 けっこうけっこう。にやにやとした顔でそう言うくせに、ミツルはもうアナスタシアに触れようとはしない。


 それを、意気地なし、とアナスタシアは何故か強く詰ってやりたかった。あの日、初夜の務めを断られた時にも浮かばない激情だった。


「苗はもう貰ってきてるから、明日植えよう。――種じゃなくて悪かったよ。そんなにしょげないで」


 表情を咄嗟に取り繕えなかったアナスタシアに、ミツルは苦笑した。その顔が悔しくて、何故かとても悔しくて、アナスタシアは返事が出来ずにぷいと横を向いた。


 そして、ミツルが見ていないことを確認した隙に、そっと頬を指でなぞった。

 初めて触れられたはずなのに、アナスタシアは何故か、彼の体温を知っているような気がした。




***




 毎日決められた時間に手入れに向かう。畑仕事はアナスタシアの立派な時間つぶしになっていた。

 アナスタシアは、日々成長する野菜たちが愛しくてたまらない。瑞々しい葉が美しく、つい余計に水を与えようとする度に、ミツルが――彼がいない時はジャネットが代わりに――それを止めた。雑草を丁寧に抜き、野菜のためによい虫は見逃してやる辛抱強さをアナスタシアは覚えた。


「旦那様、旦那様起きてください」

「うん……あと5分……」

「起きてくださいまし。早く行かなくては、撒いた水が煮えてしまうわ」

 まるで1分1秒を争うかのように真剣な声で、アナスタシアがミツルを揺さぶる。ミツルは薄い毛布の中で唸った。


「大丈夫、まだ外は真っ暗でしょ……」

 夫婦の寝室にある広いベッドの上で、ミツルはミノムシのようになっている。嫁いできたばかりの頃、アナスタシアはいつもミツルに起こされていたが、今では逆。

 アナスタシアは畑仕事に行くための服に一人で着替え、髪を纏めると、寝坊する夫に接するような寛容さを振りまき、まだ日も登っていない時刻にミツルを起こすのだ。

 こんな時、グラースならこんな手間をかけさせることはしないのに。「アトゴフン」と呪文を続ける夫に、これまでの行動を棚どころか天井にまで放り上げたアナスタシアは溜息をつく。

 どうしたものかと考えあぐねた彼女は「夫の機嫌の取り方を教えてくれたマダム」の教えに則ることにした。と言っても、可愛く甘えてみることなんか初めてだ。むず痒さを堪えて、アナスタシアは甘い声を出す。


「旦那様……ねぇ、起きて」

「うーん……」

「ね、はやく、いきたいんです」

「……俺の上に乗っかって言ってくれたら許す……」

「どこに!? どこに乗ればいいんです!?」

「……はい、はい……起きます……起きますよ……ミツル、 起きまーす……!」

 アナスタシアに本気で腰に乗られそうになったミツルは、ガバリと身を起こすと頭を抱えた。


「寝起きが最悪でうがうが言ってた可愛いアナスタシアちゃんは何処……」

「あら、妻が夫を起こすのは当然のこと。それとも、こんな私は可愛くないとおっしゃるの?」

 アナスタシアの可愛い小言に、ミツルが頬を緩める。アナスタシアはその顔を見ると、何故か泣きたくなる。ふとした瞬間に覗く、この表情に気付いたのはいつだっただろうか。


「お、お嫌でしたら……」


「そんなわけないでしょ。今だって、傍に行って抱きしめられないのが悔しいぐらいなのに」


 アナスタシアの照れ隠しに、淀みなくミツルは答えた。もう少し、真剣味を伴って言ってほしかったがそれは欲張りなのかもしれない。


 ――抱きしめたらいいのに。


 未だ触れ合うことのない二人だが、アナスタシアはもう夫婦になってもいいのではないかと思っている。もう十分「お互いを知って」いるに違いない。アナスタシアは、ミツルの事を夫として強く信頼するようになっていた。


「なぜ、出来ないんですの?」


「それはね、俺の息子があまりにも元気良く目覚めてしまったからかな」


 アナスタシアはピシリと固まった。ミツルを凝視して、顔を蒼白にさせる。


「……お子が?」


「おーっと、これは失礼した。失礼いたしました! ジャネット、ジャーネーット! そこにいるんだろ? 僕は今から、お姫様のお望み通り起きる準備をするから、すまないけど誤解を解くのは君に頼んだ」


 自らのケツを拭う気のない男は、生真面目な侍女に全て押し付けると、いそいそと支度を始める。ドアの向こうで話し合う女二人の姦しい声を聞くと、ミツルはポケットに手を入れた。その手に触れたものを僅かに力を入れて握ると、そっと息を吐いて自嘲した。


「――本当に、悔しいよ」





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