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02:都会と田舎

 アナスタシアがミツルと結婚して感じた印象は、ひとつ。


 ――優しい人


 これに尽きた。




「おはようございます、旦那様」

 朝焼けに包まれた早朝。アナスタシアはミツルに屋敷の廊下で挨拶をした。


 身なりを整え、平時と変わらぬ笑顔を浮かべるアナスタシアだが、実際は眠さのため今にもふらつきそうだった。

 結婚前、アナスタシアは昼近くまで寝ている生活をしていた。それは多くの王侯貴族にとって当たり前のことであり、使用人の仕事の配分をとってしても、また順当であった。

 そんなアナスタシアが、まだ空が白け始めたばかりのこんな時間に起きている理由――それは、屋敷の主であるミツルが起き出していたからであった。


 今朝早く、使用人の助けもなく夫婦の寝室から出てきたミツルを見たジャネットは、目玉が飛び出るかと思った。

 ジャネットは自らの仕事を放り投げると、大慌てで寝起きの悪いアナスタシアを揺さぶり起こした。強情に眠りを貪ろうとするアナスタシアだったが、事情を聞くと顔面を真っ青に染め上げて布団から飛び起きた。二人して蒼白な面持ちで身支度を進める。

 バレストラ王国の貴族は、蜜籠りを終えた結婚一週間後からは、夫婦そろって朝食を取るのが習わしであるからだ。


「……アナスタシア? どうしてこんな早くに。まだ寝ていてよかったんだよ」

 気遣うミツルに、アナスタシアは微笑む。

「一緒にご朝食をと思いまして」

「あぁ……そう言えばそんなことを言われてたかな。わかった、じゃあ用意してもらおうか。それまでここにいたらいい」

 朝一番から、まるで百姓のようにせわしなく動き回っていたミツルは、長い廊下に備えられているソファにアナスタシアを誘った。


「……朝食が出来るまでゆっくりしていよう。ここから見える朝日も美しいよ」

 ソファに腰かけたアナスタシアの膝に、ミツルは自らのコートを下げ渡す。


 バタバタと朝の準備に追われる使用人を呼び止め、ミツルは朝食を依頼した。使用人は嫌な顔一つせず、屋敷の主に笑顔で対応する。

 魔王討伐から凱旋したミツルが、領地を賜ってひと月。アナスタシアを迎え入れる準備期間で、使用人たちはこの風変わりな主に慣れていたらしい。


 アナスタシアはそれを見守っていた。眠気のため、いつも張っている意地も少しばかり解けているようだ。夫であるミツルの肩に寄りかかりながら、あくびをかみ殺した。頬にあたる朝日がなんとも眠気を誘う。


「これからはもっとゆっくり寝てていいよ。明日からは、君の起きる時間に朝ご飯を用意しよう」

 はあい、アナスタシアはやる気のない返事をした。


 指一本触られなかった蜜籠りの間は、その実態に似合わず、夫婦そろって仲睦まじく寝室を出ていた。しかし、蜜籠りが終わった途端に妻を放って部屋を出られては、アナスタシアもたまったものではない。

 使用人が主の前で小走りになっていても気にしない寛容な男は、夫婦としての体裁も気にしないのだろう。アナスタシアは、これからはゆっくりと眠ろうと心に決めた。恋人と別れさせられたのだ。ドロドロに甘やかされていても、きっと罰は当たらない。


 あぁそういえば。アナスタシアは口を開いた。

「蜜籠りも終えましたし、私もそろそろ妻の務めを」

 この一週間の間に、お礼状もあらかた書き終えた。元々王族の式とは思えぬほど少ない参列者。すぐに終えることとなった。

 領主の妻として、次のお役目を貰おうとしていたアナスタシアは、ミツルに優しく見つめられる。


「アナスタシアは頑張り屋さんだね。まだ結婚して一週間じゃないか――家の事は僕がするから、君はもう少し羽を休めてたらいい」


 意気地なし、寛容な男、とんだヘタレ、優しい人。


 彼を形容する沢山の言葉を思い浮かんだが、アナスタシアは呑み込んだ。それが彼のまとめ方だというのなら、妻となった身では従うほかない。


「ありがとうございます……それでは、今日は出かけてもかまいませんか?」

「出かける? どこへ?」

「町に降りてみようかと。この一週間ジャネットも詰めておりましたし、少し休みを与えたいと思っておりましたから。従僕を一人お借りできれば問題ありませんわ」

「――ジャネットの代わりは見繕うよ。気が付かなくて悪かったね。それと、町へは今度、僕と出よう。案内なら任せてほしい」

「えっ……ですが……」

 ミツルが忙しくしているのはアナスタシアも知っていた。それに、一週間顔を突き合わせ続けていたのだ。そろそろ一人になりたいところ。そんな考えが瞳に乗ったのか、ミツルは珍しくいい顔をしなかった。


「結婚したばかりの可愛い奥さんとの初デートを、他の男には譲りたくないな」


 ――呆れた。

 アナスタシアは、笑みの中に本音を隠した。


「退屈なら友人でも招いたらいい。式には呼べなかったから――討伐パーティで一緒だったノチェは君と旧知だと言っていたな。手紙を出しておこうか?」

「大丈夫ですわ。落ち着き次第、私から……」


 領主の妻としての役目を、貴婦人の退屈しのぎだと思われたことに意地を張り、アナスタシアはミツルの申し出を断った。


 こうしてアナスタシアは、全ての自由を与えられ、そして全ての義務を奪われ、閉じ込められた。自然豊かな領地という――真綿を敷き詰めた檻に。




***




 アナスタシアを常に気にかけ、優しい言葉で彼女の機嫌を取り、領民に慈悲の心で接する。夫としては最良の相手だろう。父である王が、目に入れても痛くないほどかわいがっているアナスタシアを手放すのも無理はない、良い夫ぶりだ。


 だからこそ、アナスタシアは退屈で仕方がなかった。


 優しいだけじゃ、恋は出来ない。

 彼にはどこにも、ときめく要素がない。


 アナスタシアは優しくされることも、甘やかされることも慣れていた。そこに夫に向ける感謝は生まれても、男に向ける好意など生まれようもなかった。


 ――この人を好きにならなきゃ、辛いだろうに。


 失恋には新しい恋。貴族の特権は、何度でも恋が出来る事よ。

 いつも社交場で夫の機嫌の取り方を教えてくれたマダムたちの言葉をアナスタシアは思い出した。


 騎士グラース・メール。

 アナスタシアと同じ年の彼は、当時17歳という若さで魔王討伐パーティに抜擢された。言わずもがな、その実力は折り紙付きで、言わせてもらえるのならばその家格だって折り紙どころか箔打紙はくうちし付きの侯爵家長男。加えて、アナスタシアと幼馴染。明々白々たる、最優良物件だった。


 幼い頃に定められた許嫁の形は、二人にとって決して煩わしいものになりはしなかった。小さなころから育んだ愛は信頼を生み、誰がどう見てもお似合いの二人。割って入ろうなどという空気の読めない人間はこの世界のどこにも存在しなかった――そう。この世界には、どこにも。


「……はぁ」

 ため息はいけないとわかっていても、自然とこぼれた。屋敷の長い渡り廊下を歩くアナスタシアの後ろで、侍女が渋い顔をする。


「今日も、予定はないの?」

「ご当主様からは、何も」

「……そう」

 アナスタシアは瞼を伏せた。


 王女から奥方へ立場を変えたアナスタシアは、やることが増えるところか減る一方であった。「もう少し羽を休めたらいい」と言った夫は、暫くたつというのにアナスタシアに一切の仕事を任せる気はないらしい。


 責任ある立場に立たせてもらえないのも辛いが、そろそろ物理的にこのただ流れていく時間を見つめていることが辛くなってきたのも、また事実であった。


「こんなことなら、意地を張らずにノチェを招いてもらったらよかった……」

 あの時は自分の気持ちを軽んじられているようで不愉快だった彼の申し出に、今ならきっと二つ返事で頷くことだろう。


「グラースは今頃、何してるかしら……ねぇ、ジャネット。本当に何も届いてないの?」

 平時はもちろんのこと、魔王討伐の行軍の最中であっても、手紙を欠かさなかったグラース。その彼がこれほど長い間音沙汰がないなんて――アナスタシアはジャネットを見つめる。

 ジャネットはゆっくりと首を横に振った。

「……アナスタシア様。お二人のご事情を知らぬ者は、この国中の何処を探してもいや致しません。他の誰の手紙を運ぼうとも――彼からの手紙を運ぶ配達員はいないでしょう。そしてご当主も、無論のことながら受け取ることはないはずです」


 魔王討伐パーティとして共に戦い、背を預け合った親友同士でもあるグラースとミツル。もちろん、グラースとアナスタシアが婚約していることなど、ミツルは百も承知だっただろう。それでも、彼は望んだのだ。救世の褒美に、親友の愛しい婚約者を。


 王都を旅立つ時、アナスタシアは自らの口からグラースに婚約破棄を伝えた。もちろん、彼が知らないとは思っていなかった。それでも、それが筋だと思ったからだ。そしてきっとこれが、二人きりで話せる最後になるだろうと覚悟した。


 彼はアナスタシアに震える声で謝った。「すまない、自分の力不足だ」――と。


 その言葉を聞いたからこそ、アナスタシアは不貞腐れることなく、自らの務めに励もうと頑張っているのだ。彼に恥じぬようにと。


 彼とミツルの間に、何か軋轢が生じていたのか。はたまた、親友との確執を覚悟してまで欲したのか、アナスタシアにはわからなかった。けれどアナスタシアに選ぶ道は残されていなかった。彼女は、王女だからである。民に見返りを与える者。そして、勇気を与える者。


 アナスタシアは、渡り廊下から外を見つめた。


 空が広く、緑は濃く、見渡す限り一面の自然。田舎故その領地は広大で、隣の領地まで馬で二日駆けなければ辿り着かない。資源や鉱山は豊富でも、王都からも遠いため、活気はあれども流通は疎い。


 とはいえ、町を見て回ったことは数える程度しかない。ミツルの都合に合わせるため、外出さえままならないからだ。独占欲で雁字搦めにされているような生活は、息を抜くことさえ難しい。


「……まるで、世界に置いてきぼりにされたようだわ」


 勇者を憎んではいない。その身を賭けて、世界を救った英雄――。その彼が、富も名誉も顧みず、唯一望んだもの。友情と天秤にかけてまで、欲したもの。それが自分だなんて、光栄なこと。


 ――けれど、どうして私じゃなければいけなかったのだろう。そう思わないことが、ないわけでもなかった。


「……グラース、父様……」


 この場所は、広すぎる。

 涙を隠す場所さえ、見つからない。






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