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特大家族──いい年してアレに夢中  作者: ブラックワン
第一章 「アレ」の達人
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6月10日 その9

 約束の時刻ちょうどに覇斗の部屋の扉がノックされた。


「来たわよ! 開けるわよ! 入るわよ! こんばんは! ──さあ、アレやろー!」


 覇斗が返事する間もなく、楓が慌ただしく入ってきた。押し入ってきたといっても過言ではない。


「テンション高いな。もうちょっと声を抑えてくれると助かるんだけど」


 ここの廊下、声響くんだよな、などと覇斗が内心で焦っていると、

「今は道場破り気分なのよ。たのもー、って感じ。全力であんたを叩き潰すわ」

と、楓は覇斗の意向などお構いなしに言い放った。


「いや、叩き潰すと言われても、結局はアレだからね」


 所詮、親指を押さえつけるだけだろ、という意味を覇斗は言外に込めた。


「じゃあ、ぐうの音も出ないようにしてやる、って言い換えてあげる」

「どうぞ、お手柔らかに……」


 覇斗は最初から楓に主導権を奪われっ放しだった。


「さあ、始めるわよ」

「机、用意するかい?」


 覇斗は、壁に裏返しで立てかけてある欅のテーブルを右手の親指で指した。客室に備え付けだった重量級の品である。大き過ぎて部屋を塞ぐため、普段は片付けてあった。


 指相撲といっても様々なスタイルがある。正座で向かい合い、肘を浮かせたままでやる場合、テーブルは要らない。ただし、それは軽いお遊びのようなものだ。真剣にやる時は必ずテーブルを出す。楓は黙って頷いた。


 二人掛かりでテーブルを設置すると、覇斗が、

「ルールはどうする?」

と尋ねた。自分が楽しみたいという意識が強い時、楓は普段慣れ親しんでいる宮城家のルールを用いる。肘を固定し、手首を傾けることもせず、純粋に親指の攻防だけを競うルールだった。宮城家も楓が極端にハマる前は、一家の共通の遊びとして楽しく指相撲をやっていたのだという。


「──宮城家の本家が東京にあった時、うちも七瀬家も東京にあって、しょっちゅう集まってたわけよ。で、その時よくアレをやってたの。おじいちゃんがなぜか好きでね、その影響みたい。千春や速彦もホントは結構強いのよ。あたしに言わせりゃまだまだだけどね」


 以前、楓が懐かしそうにそう言っていた。その彼女が今回選んだルールは……。


「南波式でやりましょう」


 楓の丁寧口調になんらかの覚悟を見た覇斗は、無言でテーブルの隅に右肘を置いた。


「こないだ、あんたがあたしに言ったわね。『アレを楽しむのに夢中で、勝つための努力をしていない』って」


 楓がゆっくりと右肘を下ろす。テーブルの角を挟んで覇斗と向かい合う形になった。


「いや、あれはつい、その場の勢いで……。忘れてくれても全然構わないんだけど」

「忘れないわよ。──だって、あたしは毎日努力してるから。あんたという相手がいることを知ってからは特にね。それにあたしは、アレをただ楽しんでるわけじゃない。勝つまでの過程を楽しんでいるの。勝利を目指さずに楽しむだけなんて本末転倒なことは絶対にしないわ。悪いけどあんたの言ってることは的外れよ」

「的外れ……か」

「何か反論したそうね。じゃあ証明してあげるわ」


 親指を除く二人の右の手指が固く握り合わされる。互いの息が届く至近距離で、覇斗の瞳が楓の顔を映し、楓の瞳が覇斗の顔を映した。覇斗がこの家で楓と初めて対戦した時には、同い年の美しい異性と手を握り合う感触に、どぎまぎした気分と密かなときめきを覚えたものだが、今は全くそんなことはない。


「覇斗君。あんたが冷めてるのはわかってる。だけど今日は全力でやって! 全力同士で戦って、一度、今年の雌雄を決しましょう」

「全力ね……。まあ、いいけど」

「ありがと。──レディ!」

「ファイト!」


 両者の掛け声とともに指相撲が開始された。


 親指を反らし相手の攻撃をかわす「スウェイ」。


 親指を前方に倒したりわざと隙を作ったりして、相手の攻撃を誘ってから逆襲する「カウンター」。


 ジャブのようにチョンチョンと牽制攻撃を繰り返しつつ、隙を見て本格攻撃に入る「フェイント」。


 それらは指相撲をする人間なら誰でも使うであろう基本の技だ。だが、楓の技は一つ一つのレベルが異常に高い。ピアノの繊細な表現に培われた柔らかな親指が、覇斗の怒濤の連続攻撃を軽くかわし、逆に覇斗の親指の甲を執拗に追いかける。


 楓は、親指の動かせる範囲が極めて広い上に、指が長い分射程距離も長いのだ。そして、ピアノのダイナミックな打鍵に鍛え上げられた強靱な手首が、覇斗の手首の動きを押さえつけ、彼の親指の可動域を著しく狭める役割を果たしていた。


「くっ」


 覇斗が呻く。いつの間にか防戦一方だ。


(もらった!)


 遂に楓の攻撃が覇斗の親指の第一関節を捉えた。覇斗は懸命に手首を捻り、親指を引き抜こうとするものの、楓の指の力は伊達ではない。


「いちにっさんしごろくななはちくじゅっ! ──やったあ!」


 パッと手を離した楓が得意満面の笑顔でVサインをした。


「どう? 真剣勝負で勝ったわよ。これが、日頃の努力の成果。あたしの言い分が正しいってわかったでしょ」

「いや、まだだ。僕が言った『勝つための努力』っていうのは、君が思ってるのとは、少し違う」


 負けた覇斗が全く悔しそうな素振りも見せず、真顔で言い放った。いつしか覇斗の周りを包む空気が一変している。


「君のアレへの打ち込みようを見れば、努力してないなんてことはとても言えないよ。僕が言いたかったのは、君が『勝つためにはどうすればいいか』を、突き詰めていないってことさ」

「あんたは突き詰めてるって言うの? 負けたくせに」

「今の勝負、確かに僕は全力で戦って負けた。それは認めるよ。身体的な地力の差が最後には物を言ったね。僕だって相当鍛えてるのに、それを上回るんだから凄いもんだ。女子としては反則級じゃないかな。──けど、敢えて言おう。それでも真剣に勝とうと思えばいつだって勝てた」

「何それ。思いっきり矛盾してない? 負け惜しみにしか聞こえないけど」


 いつも穏やかな覇斗らしくない突然の挑発。完全勝利の喜びを台無しにされて、楓はいっぺんに不機嫌になった。


「もう一度やればわかってもらえると思うよ。ただ、少し待ってほしい」

「待つ? どうして?」

「テーブルを替える」

「テーブルを? これで充分じゃない。あんた、負けたのをテーブルのせいにする気?」

「そうじゃない。今度こそ僕の本当の実力を見せてあげようっていうんだ」

「本当の……実力……?」


 楓が怪しげなものを見るような視線を覇斗に向ける。


「そうだ。今まで僕はそいつを君に披露する気はなかった。それが、楽しみの要素を一切排除した殺伐としたものだったからだ。勝つための技術、勝つための作戦、勝つための努力、そんなものは楓さんとの楽しい親睦の時間にはふさわしくない。だから、これまではテーブルもこいつで充分だった。今の勝負も、全力を出したには違いないけど、それは、力の限りただ頑張っただけのことだ。持てる全てを出し尽くしたわけじゃなかった」

「じゃあ、本当の全力をを出したら、あたしに勝てるっていうのね」

「うん。去年の一回戦を再現してあげる」


楓の脳裏に去年の屈辱がまざまざと蘇ってきた。開始早々の一瞬の悪夢。楓は覇斗の目を正面から睨み付けた。


「……させるもんですか」

「ああ、でも、いいんだよ。今僕が負けたのも確かに一つの事実なんだし。これはこれで終わったことにして、残りの時間、いつもみたいに楽しんでもいいんだ。君もここに来た時はそういう心づもりだったんだろ?」

「ああまで言われて、今さらそれをなかったことにはできないわ。テーブルでもなんでも替えたらどう? どこにあるの、それ」

「そこ」


 覇斗は広縁の端にある大きな花台を指さした。その上には若者の趣味とは思えないようなイワヒバの盆栽が置かれている。

「花台じゃないの。──あれ?」

 どことなく見覚えがある気がして、楓は目を凝らした。高さ一メートルはあろうかと思われる太く無骨な木製の四本の脚。天板は布に覆われているものの、かなり広めの円形であることは間違いない。


「これって、もしかして?」

「本物の試合台だよ」

「えーっ! ホントにそうなの?」


 楓は仰天して目を白黒させた。


「そんなの、どこで手に入れたのよ。まさか盗み出したんじゃ……」

「んな、わけないでしょ。特注したんだよ。去年の大会前、公式試合台を作った南波市の業者にね。思えば、あの時の僕は研究熱心だったな。大会の優勝賞金は、結局これの支払いと旅費で全部消えた」

「アレのためにそこまでするなんて、馬鹿でしょ、あんた」

「これも勝つための努力の一部さ。──ま、我ながらこいつは度を越していたと認めるけどな」


 ホント、バカね、と言いながら楓はクスクスと笑った。険悪な方向に流れ始めたかに思われた空気が、若干方向を変える。二人は協力して試合台を部屋に運び入れた。安定性重視のため土台の部分が見た目より遥かに重い。被せてあった布を外すと、摩擦軽減加工の真っ赤な牛革に覆われた、直径五十二センチの円形のクッションが顔を覗かせた。


「わあ、なんだかワクワクする。やっぱ本物は違うわ」

「また使うとは思わなかったよ。じいさんの形見の盆栽を載せるのにちょうどいい、と思って運んできただけだからな。──さすがにクッションはへたってるけどまあいいか」

「さあ、さっそくやりましょう。あんたの本当の全力を見せてもらうわ。これで負けても、『真の本当の全力はまだ見せてない』なんて言うのは無しね」

「まさか、子供じゃあるまいし」

「お互い、まだまだ子供よ」


 束の間緩んだ空気は、二人が試合台を挟み、右手を握り合った瞬間、緊迫した。

「レディ!」

「ファイト!」


続く

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