8月10日 その15
「あれ?」
どこかでオルゴールの音がする。トロイメライのメロディー。まず南花が最初に反応した。
「──茉莉花、あんたの電話、鳴っとるよ」
「あ、カバンの中」
ドアの近くに投げ捨てられたようになっていたショルダーバッグの中から、茉莉花は愛用のスマートフォンを取り出した。電話は楓からである。茉莉花は一瞬顔を曇らせた。その意味するところを理解できない南花ではない。
「出られ」
促されて、茉莉花は恐る恐る電話に出た。
「はい」
『茉莉花、今どこ?』
「家だけど……」
『おー、もう帰ってたのね。さすが爆走マシン・サザンカ号。あんたに電話して大正解だわ。悪いけど、今からコーヒーと紅茶の準備しといてくんない? ジュースや果物もあるといいわね。あと、しょっぱい系のスナック。ケーキ皿やフォークなんかもお願い』
「え?」
電話の向こう側の楓は恐ろしくご機嫌だった。これほど茉莉花が違和感を覚えることもない。何しろ去年の楓は荒れ狂ったり落ち込みまくったりのひどい有り様で、なだめるのに大変な思いをしたのだ。しかも、茉莉花は、大会の決勝戦後は罪悪感に囚われたまま、ずっと目を伏せており、楓が笑顏で覇斗の手を握る光景など一切見ていなかった。
『聞いてる? 覇斗君の誕生会をするのよ。サプライズでね』
「ああ、そういえば今日は、高柳さんの誕生日でした」
8月10日。ハトの日である。強烈なインパクトを持つ日なのだが、覇斗と楓の運命の行方が気懸かり過ぎて、すっかり失念してしまっていた。
『まあ、以前に一度本人に言っちゃってるし、ホントにサプライズになるかわかんないんだけどね。あと、ついでに祝勝会──は癪だわね──大会の打ち上げも一緒にやるわ。いつものメンツが帰ってきたら、声掛けといてね』
「あ、うん」
楓が言う「いつものメンツ」とは、概ね同年代の家族という意味であり、固定されたメンバーを指すわけではない。
宮城家は大家族ゆえに、誕生日はことさら珍しいものではなく、誕生会をまともに家族全員で行う慣習もなかった。誰かが発起人となって近しい者に声を掛け、集まってきた者だけでささやかに誕生日を祝うのが通常のパターンである。内容といえば、せいぜいケーキを一緒に食べて、お喋りで盛り上がるといった程度のものだ。ちなみに不文律で、パースデイプレゼントも贈らないことになっている。
『今、頼んであったケーキ、買って帰るから。一時間ほど待ってて。みんな一緒に覇斗君の部屋に押し掛けるわよ』
楓はずっとハイテンションのままである。茉莉花は却って楓の精神状態が心配になった。
「あ、あの、楓ちゃん、大丈夫なんですか?」
『心配ないわ。覇斗君なら千春や美晴と一緒に七瀬号で帰ってもらってるから、勝手にどっかに行かれてお流れってことはないわよ。後はとにかく部屋に行っちゃえば、相手は覇斗君だし、どうとでもなるんじゃない? ──あ、もしかして、そういうことじゃなかった? あたしのこと?』
「うん。楓ちゃんのこと」
茉莉花は、小声で戦々恐々として言った。ひとまずは罪の意識から解放されたものの、現実に楓の心に何か問題が生じたとすれば、そこに責任を感じないわけにはいかない。
『大丈夫よ。負けて悔しいのは間違いないけど、完全燃焼したし、勝負に徹していれば勝ててたんだし、戦ってて楽しかったし、声援も受けて嬉しかったし、今後の見通しも立ったし、おかげでなんかさっぱりした気分でもあるのよ。──あ、お母さん、あそこ、あのフランス国旗の立ってるお店。駐車場、狭いし、あちこち植木鉢だらけだから気を付けて。 ──じゃあ茉莉花、さっき言ったこと、ヨロシク!』
そう念を押されて、茉莉花が返事をする間もなく電話は切れた。思わず母親に不安げな視線を送る。楓の元気な声は部屋中に響いており、会話の内容は筒抜けだった。南花はニヤニヤと面白そうに笑みを浮かべている。
「なんも問題ないちゃ。空元気ならすぐわかる。去年と大違いやね。楓ちゃんも成長したなあ」
人の感情の状態を見抜くことに関しては、南花はエキスパートであり、誰よりも信頼できる。茉莉花はホッと安堵の息を吐いた。
「──ところで、気になっとったんやけど、これからの未来はどうなっとるが? まだ死の確率ってもんが、あの二人に付きまとったままなんけ?」
「もう、なくなった。不思議なくらいきれいさっぱり」
茉莉花は微妙にうなだれながら言った。喜んでいいはずなのにどう見ても嬉しそうではない。
「本当け。なら、あんたはマジ、二人の命の恩人ってことやな」
「その代わり二人がくっつく未来も見えなくなったの。あるのは『混沌』。高柳さんは誰かと結ばれて幸せになる予定だけど、相手が誰かは確定していないわ。誰にでも可能性があるって感じ。楓ちゃんには本当に申し訳ないことをしちゃった」
「気に病むことないちゃ。楓ちゃんに望みがなくなったわけやないんやろ?」
「それはそうだけど……」
割り切れないものが残っている感じだった。
「ねえねえ、『誰にでも』ってことは、あんたにも可能性があるってことけ?」
「わ、わたしにはそんな資格ないから」
急に自分を話のターゲットにされ、茉莉花があたふたとなった。
「資格なんか考えんでもいいちゃ。その気があったらアタックせにゃ」
「え、その気なんて全然……」
「まーたまた。松之進がハト君の話をする時、あんたいっつも幸せそうにニコニコしながら聞いとったやないけ」
「もう、そんなん知らんから。お母さんのバカァ。──あ、やることあるから行くちゃ」
茉莉花はこめかみの辺りに汗を浮かべつつ、慌てた様子で部屋を飛び出していった。
続く