8月10日 その12
楓が覇斗の方へ向き直った。太陽のように明るい笑顔である。覇斗は胸がジーンと熱くなるのを感じた。どこか喉の辺りに締めつけられるような感覚があり、自分の鼓動が急に大きくなったような気がする。楓の美しい顏から目が離せない。
「助けてくれて、ありがとう」
覇斗は近づいてくる楓に向かって、やっとそれだけ言った。
「ううん。こちらこそお礼を言うわ。あたしは嬉しいのよ。覇斗君が、勝つためにとことんがむしゃらになってくれてるのがわかったから」
二人は自然な流れで握手をした。
会場の雰囲気が、二人の笑顔でいっぺんに和む。
(……ん?)
穏やかな雰囲気の中だからこそ明瞭になる独特の気配。
覇斗は射るような視線を唐突に感じた。
二・〇を遥かに越える視力を有する覇斗の目が、一瞬で視線の主を探し出す。
血の気の全くない青白い顏。どこか怯えのようなものが垣間見られる硬い表情。緊張で顔面が引きつっているようでもある。──茉莉花だ。目が合った。彼女は祈るように両手を組み合わせていた。目は赤く充血し、涙で潤んでいる。覇斗が初めて見る茉莉花の悲愴な表情だ。
茉莉花が叫ぶように口を開く。声は出していない。だが、唇の大きな動きで、何を言わんとしているのかはすぐにわかる。
「マ・ケ・ナ・イ・デ、ゼッ・タ・イ・カッ・テ」
覇斗の背筋にぞくりとした冷たい感覚が走った。
確か茉莉花は楓を応援すると宣言していたのではなかったか。
(なぜ、俺を、俺を応援する? それが茉莉花さんの本心なのか? だけど、あの辛そうな顏はなんだ? 俺が負けそうだからか? まさか。甲子園大会の決勝じゃあるまいし。これはたかが指相撲の大会なんだぞ)
「ガ・ン・バッ・テ、ア・キ・ラ・メ・ナ・イ・デ」
覇斗の思考が激しく混乱し、感情が大きく揺り動かされる。そこへ追い打ちが来た。茉莉花が、懇願するような、すがるような目つきで覇斗を見つめ、遂に一滴の涙をこぼしたのである。
痛々しくも美しい──そんな茉莉花の姿に覇斗は思わず息を呑み、たちどころに魅入られた。ドキドキと心臓が高鳴る。
(そこまで、俺に勝ってほしいのか……)
理由はわからない。心当たりもない。不可解なことばかりである。しかし、やがて静かに覇斗の血は熱く滾り始めた。茉莉花に心の底から応援されているという実感が、何よりも彼の心を震えさせる。
覇斗は四面楚歌ともいえる状況で、今までたった一人で戦ってきた。たとえどんな意図が秘められていようと、必死の応援が嬉しくないわけがない。名状し難い高揚感と充実感が覇斗を包んだ。そして突然、茉莉花のことが途轍もなく愛おしく思えてくる。
(もしかして『LOVE』の花が……? いや一時的な気持ちの昂りのせいか。でも、きっとこんな感じかもな、『LOVE』の花が咲く時は……。──いつか俺にも必ず……)
覇斗は大きく首を横に振った。
(待て。恋だの愛だの考えている場合じゃない。今は試合だ。茉莉花さんの思いに応えてあげたい。俺のために流した涙に報いなければ)
問題は絶望的なポイント差である。いつもの覇斗ならばとっくに勝負を投げ出してしまっているところだ。
茉莉花が瞑目する。その姿は天に祈りを捧げているようだった。ただ一心に。ひたむきに。──それを見た時、覇斗は生まれて初めて武者震いを覚えた。
(ああ。とことん悪あがきをやってやる。最後まで絶対に諦めない!)
覇斗は両手の掌でほっぺたをバチンと叩き、気合を入れた。諦めの感情が跡形もなく消え失せ、止めどもなく気力が溢れてくる。今まで、勝ち目のない状況下においては絶対にあり得なかった心境だ。
(ひょっとして、自分のためじゃなく、大事な人のためだったら、俺は何事も諦めずに頑張れるのかもしれないな)
一瞬そんな閃きがあったものの、すぐに意識の隅へと押しやられるように消えてしまう。覇斗の心は残る三十二秒の試合時間をどう戦うかに向かっていた。いざという時の覇斗の集中力は凄まじい。視野が狭まりがちになるという副作用はあるものの、短時間で何かを成すことに関して覇斗は驚異的な才能を持っていた。
覇斗が楓の方に向き直る。
「どこ見てたの?」
そう問い掛けた楓の表情からは、本人が意識していない程度の微かな余裕が窺える。
「勝利の女神を」
「それはきっとあたしの味方ね。──ほら、続きをやるわよ」
「その前に一つ言っておくことがあるんだ」
「なあに?」
「前に、没バージョンのライトニング・カウンターがあるって教えただろ」
「えと、聞いたような聞かなかったような」
「まあ、詳しい話はしなかったからね。実は、僕が最初に開発した技がそれなんだ。物凄い技でね。技の威力という点では、僕の他の全ての技を圧倒的に上回る。──でも、没にしなけりゃならなかった。出し惜しみとか余裕とか、そういうんじゃない。スポーツとしての南波式を完全に終わらせてしまう禁断の技だったからだ」
「そんな物凄い技が……あるのね」
楓は覇斗の言葉をそのまま信じた。単に楓が信じやすい性格をしているからだけではない。覇斗に対する絶大な信頼があればこそである。
「そう。スポーツの大会にふさわしい技じゃない。えげつないことこの上ない、邪道の極みさ。大勢の観客の前で使うなら、ある意味反則技以上に勇気と覚悟が要る。──だけど、決めた。今から封印を解く。墓場にまで持っていくつもりだったけど、事情が変わった」
覇斗は強い決意と静かな闘志を秘めた口調でそう告げた。
「使って使って。──嬉しいわ。やっとあんたの本当の本当の本当の実力を引きずり出せた。さあ、これからが勝負よ」
楓が嬉々として言う。念願の優勝をほとんど手中にしていながら、今やそれよりも、あらゆる自制をかなぐり捨てた究極の覇斗と戦って打ち倒すことの方が重大事になっているようだ。二人は試合台に右肘を乗せ、手を握り合った。
「いいのか? 僕の誘いに乗らなければ君の勝ちだ。だけど、乗ればたちまち君はテンカウントを聞くことになる」
「そうやって忠告するふりをして挑発してるのね。その必要はないわよ。あたしの選択肢は最初から一つだけなんだから」
「負けても暴れちゃ駄目だよ。もう忠告は済ませたからね」
「何よ、それ」
「レディ!」
審判の掛け声が強引に二人の会話を打ち切る。
「──ファイト!」
いきなりの試合再開だったが、別段二人に動じた様子はない。手を握り合った瞬間から、心構えは既にできていたのだ。覇斗が親指を前に倒し、相手を誘う。通常のライトニング・カウンター狙いにおいては、覇斗自身がやるべきではないと言っていたポジショニングである。相手に警戒心を与え、真上からの正攻法をためらわせるという理由でだ。楓は攻防自在のクール・リーディングの態勢で、今後について思案を巡らせた。
何もしないのが最上だということはわかっている。しかし、その選択肢はとうに捨て去ってしまった。となれば、必然的に楓が攻撃し覇斗が迎撃するという形になる。
(現行のライトニング・カウンターは覇斗君の最後の技。難易度は最高で、しかも去年はまだ未完成だった。没バージョンがそれより難しいとは思えない。まがりなりにも完成してたんだから。それに、ずっと封印してた以上、練習だってしてないはず。──ということは、ぶっつけ本番でできる簡単な技なんだわ。容易にして邪道。ただし反則技ではない)
楓は内心で首を傾げるしかなかった。
(想像がつかないわね。覇斗君があの態勢だと、ライトニング・スマッシュも使えないし、どうしよっか)
考えた末に楓は、冒険をせず、真上以外の角度からゆっくりと押さえに行くことにした。没バージョンのライトニング・カウンターが現行バージョンの変種である場合を考慮すると、まずは様子見が最良の策である。それに反応して覇斗が動きを見せた時、そこから臨機応変に本気の攻勢を仕掛ければいいという判断だった。
続く