8月10日 その10
モニターにはちょうど準決勝第一試合のハイライトシーンが映し出されていた。
窮地に立たされた楓が、大逆転の一本勝ちをもぎ取るまでの一連の場面だ。
「よく勝てたもんだわ。やっとやっとだったわね」
「お互い大苦戦だったな」
「二人とも決勝に出られて本当によかった。これであたしの願いが三分の一ほど叶ったわ」
楓が感慨深げに覇斗を見る。
「残りの三分の二は叶わないかもしれない。それでいいんだな」
「うん。あんたはその気持ちで来て。そうじゃなきゃ困る。そうでなきゃ許さない。なんの遠慮もない本当の全力を発揮したあんたをうち砕いてこそ、あたしはスッキリと次のステップに進めるの。あんたが勝つためにどんなえげつない手を使ったとしても、あたしは蔑まないし恨まない。むしろそれを願ってる。だから、本気であたしを負かすつもりでやってね。いい?」
楓は笑顔を消し、怖いほどの真剣な表情でそう言うと、口をキッと結んだ。
「わかってる。なりふり構わず行くよ」
覇斗も笑顔を捨てて応じる。楓の本心からの要望を拒否する選択肢はない。私情も宮城家の事情もうち捨てて、完全なる敵として楓の前に立ちはだかることを決意した。
「ただ今より決勝戦を行います。選手の方は中央の試合台においでください」
アナウンスとともに大歓声が沸き起こる。
会場のモニターが連れ立って歩く覇斗と楓を映し出した。一言も交わさず、視線も交えず、二人は試合台に向かって淡々と進んでいく。
「決勝戦、赤・ゼッケン三番、宮城楓さん。白・ゼッケン七十四番、高柳覇斗さん」
遂に最後の試合が始まろうとしていた。
「レディ! ──ファイト!」
審判の渾身の掛け声が虚しく響くくらい、静かな立ち上がりだった。奇襲も激しい攻防もない。二人の動きは至って緩やかである。ともに狙いはクール・リーディングだ。覇斗の指相撲の基本となる型であり、二人にとって最も展開が読みやすい状況を作り出す。いつもの練習も序盤戦は常にこれだった。
もっとも、筋肉の微細な動きを感知することに掛けては覇斗の方に一日の長がある。
七対三の割合で覇斗に勝てるようになった楓だったが、負けパターンとなるのは大概、長時間のクール・リーディングからの読み負けだった。ひたすら指先の感覚に集中し続けられる、心の持久力というべきものが覇斗にまだ及ばないのだろう。
従って試合というやり直しの利かない勝負の場で、楓がこの戦法をとるのは、いささか思慮に欠けた行動だった。、それをやってしまったのは、覇斗のクール・リーディングの気配を感じた瞬間に、持ち前の負けず嫌いがムクッと頭をもたげてしまったからに他ならない。
童人形と三白眼ジョーズがピタリと密着する。互いに相手の出方を窺い、傍目にはほとんど動かない。ここからは繊細な指の感覚と反射神経のみが頼りである。
観客席に戸惑いに満ちたざわめきが広がっていく。
試合開始から既に一分。両者は最初の状態を保ったままだ。審判は何も言わない。エスケープゾーンに逃げ込んだのでなければ、全く攻撃を行わなくても反則ではないからだ。実際のところ、二人は親指を圧着させながら、微かな動きとともに力の入れ具合や向きを細かく変化させ、相手の誘い出しを図り続けている。ただ、そんな緊迫した攻防も、本人達以外に認識できている者は誰一人としていない。
観客席でのんびりとモニターを見つめる平野南花が、解せないといった風情で首を傾げた。
「なんもしとらんように見えるんやけどな」
「ん?」
隣の茉莉花が、やや血色の失せた顏を南花に向ける。
「二人の最高能力、いつの間にか揃って『アレ』に変わっとる。一時的なもんやろうけど、面白いちゃ。どれだけ高度な力、身に付けとるっちゅうんやろ?」
「そう」
全く関心を見せることなく、茉莉花はモニターに視線を移し、試合に没入していった。
さらに三十秒が過ぎる。膠着した試合展開に我慢できなくなった観客から、野次が飛び交い始めた。すると、それに対抗するかの如く、宮城家の応援席から次々に声援が飛んだ。
「ガンバレよ、楓!」
「かえちゃん、しっかり!」
「攻めるんだ、楓!」
野次に対しては、冷静さを保ち続けていられた楓だったが、家族の応援を受けると途端に辛抱し続けるのが苦しくなった。
(もう、無理。動きたい気持ちを押さえきれない)
楓は密かに自分から行動を起こす決意をした。もとより覇斗への対抗意識から選択したクール・リーディングである。それで勝てるならともかく、敗北のリスクを背負ってまで固執し続ける理由はない。つまらない意地と引き換えに試合を失うなど愚の骨頂である。しかし、自ら指を大きく動かすということは、覇斗のクール・リーディングの網に引っ掛かることでもあった。
(それなら、それでいいわ。絶対に逃げ切って見せるから)
遂に童人形が目に見える形で動いた。余計なことはしない。エスケープゾーンに直行である。負けず嫌いだなんだと言っていられない。一目散に逃げるのでなければ間違いなく三白眼ジョーズの餌食になってしまうのだ。
覇斗も楓の動きをきっちり読み切っていた。童人形の軌跡を前もって察知し、電光石火の追撃がピンポイントを衝く。
(危なっ!)
楓は紙一重で攻撃をすり抜けると、やっと辿り着いたエスケープゾーンで親指を休ませた。
覇斗は再びゆったりとした動きでクール・リーディングの態勢をとる。親指をピンと立て、堂々と楓の動きを待った。楓には同じ技で対抗する意志はもはやないが、エスケープゾーンに留まれる時間は僅か十秒。反則を取られるまでに、次なる最善の手を考えなければならない。
「ふう……」
楓は大息を吐いた。
覇斗の戦いぶりが練習の時とまるで違う。クール・リーディングにしても、練習ではここまで長い膠着状態はなかった。色々と読み合いや小競り合いをしてなおかつ局面が動かなければ、大概は覇斗の方から大きく誘うような動きを起こし、そこから本格的な攻防に移ったものだ。
(なるほど。練習の時の覇斗君はあたしの師匠。指導する立場から、強者としての振る舞いを敢えてすることもあったんだわ。だけど今の覇斗君は、臆病な弱者のように細心の注意を払い慎重に動いてる。元々覇斗君の技は、弱き者が強き者に立ち向かうためのものだから、それが本来の形なのかもね)
楓は覇斗のことを分析し終えると、童人形をゆっくりと動かし、ちょっかいを出すような牽制攻撃を始めた。
続く