8月10日 その4
選手の集合、大会の開催宣言、市長の挨拶、ルールの確認などを経て、各選手は自分が属するブロックへと散っていった。楓と覇斗が視線を交わし、互いの健闘を祈り合う。
時を置かずして予選が始まった。会場を揺るがす歓声と溜息。時折吹き鳴らされるホイッスル。場内アナウンスが勝利者名を告げるたびに、観客席の一角は大いに盛り上がった。地元の人間が多く出場しており、しかも、選手の親指に顔が描かれているため、観戦する側も感情移入しやすい。入れ込み具合は相当なものである。
不思議なことに、予選が進み、敗退者が続出している状況になっても、帰宅を急ぐ観客はそれほど見られなかった。応援している選手がいなくなったにも関わらず観客が帰らない理由はただ一つ。大画面に映し出される試合の様子が純粋に面白くなってきたからに他ならない。
予選は特に波乱もなく終了した。
決勝に残ったのは、覇斗と楓、グレート・クマゴローとキース・リチャードソンである。ほとんどの選手は、大した訓練や研究もなく、子供の遊びの延長として大会に臨んでおり、それゆえ勝ち残れるはずもなかった。ただ、どの敗者も童心に返って楽しめたようであり、地元を盛り上げるイベントとしては、これはこれでいいことなのだろう。
さて、予選において最も観客の目を引いたのは、前年度優勝の覇斗ではなく、楓とグレート・クマゴローだった。
楓は、将来性豊かな美少女ピアニストとして、南波市ではそれなりに名が知られている。大部分の観客は可憐な彼女の姿に、「戦場に咲いた一輪の花がはかなく散りゆく運命」を視ていたが、あにはからんや、全対戦相手をライトニング・アタックで秒殺してしまったため、皆、一斉に度肝を抜かれることになった。──これが後に楓が「狂乱のお姫様」という異名を持つに至った所以である。(大会の一部始終が有名動画サイトにアップロードされた際、とあるユーザーによって命名)
奇襲の手段としてライトニング・アタックを温存すべし、という覇斗の言葉に楓が逆らったのは、決勝トーナメントで使うつもりが全くないからである。覇斗には通用しない初歩の技を一つ使い潰すことで、他の技を温存したのだった。
一方、観客の当初の期待通りに暴れまくったのが、北陸プロレスの社長兼エースとして知られるグレート・クマゴローである。圧倒的なパワーで相手を粉砕する超重量殺法の派手さと、勝利の際の独特のガッツポーズで、大いに観客を楽しませていた。後日付けられた異名は「ザ・チート」である。親指に描かれた雪ダルマ風パンダのキャラクターもモニターの大画面に映えて好評だ。
なお、彼は、弟のリークによって知ったはずの覇斗の技を未だ繰り出してはいなかった。そもそも使えるのかどうかも現時点では定かではない。
この目立ち過ぎる二人に比べると、残る二名の決勝進出者の注目度は若干落ちる。ただし、そのことが実力で劣ることを意味するわけではなかった。単に戦いぶりが地味だったというだけである。
キース・リチャードソンは唯一の外国人選手として当初から異彩を放っていた。のらりくらりと相手の攻勢をかわしながらいつの間にかカウンターを決めている、というつかみどころのない戦い方が特徴で、全試合を一本勝ちしている。後日付けられた異名は「白ウナギ」。親指の絵柄も、適当に描かれたものながら、どことなくウナギっぽい。
そして、覇斗もまた全ての試合で一本を取り、前回優勝者の貫禄を見せていた。いずれの試合も技ありを二本先行されてから、逆に三本奪い返しての大逆転勝利である。薄氷の勝利に見えて、実はそうではなかった。真の力を温存しつつ、決勝で使う技のウォーミングアップを密かに行っていたのである。後日付けられた異名は「試合ジョーズ」。試合巧者をもじったものらしい。
ただ、実のところ、覇斗は予選時の自分を大いに反省していた。試合途中で集中力を欠いてしまう場面が何度かあったためだ。
これは、とある中学生選手が自分の編み出した技に、たまたま「ライトニングアタック」という名前を付け、それを使うたびに技名を叫んだことによる。
つまり全くの偶然だったのだが、「ライトニングアタック」という声が聞こえるたび、楓はクスクスと笑い、覇斗は居心地の悪い思いをすることになった。その中学生が予選三回戦で敗退して一番ホッとしたのは覇斗だろう。
さて、いよいよ準決勝の開始である。
「準決勝第一試合、赤・ゼッケン三番、宮城楓さん。ゼッケン四十番、白・キース・リチャードソンさん」
アナウンスとともに二人が会場中央の試合台の前に姿を現すと、場内が拍手と歓声に包まれた。遅れて覇斗とグレート・クマゴローが入場し、会場の隅の選手控え席に腰掛ける。
試合台を挟んで向き合った楓とキースがどちらからともなく握手を交わした。
「カエデ、実は今更なノですが、一言だけ」
「はい?」
「このとコろ、カエデはとても生き生きとピアノを弾いていマす。以前は速くテ正確、力強いけレども、どコかぶっきラぼうで機械的だった。──何か心境の変化があっタノですカ?」
「まあ、そんなところです」
「今の状態が続けラれるなら、この試合で勝てなクても、ユビズもウをやめなクていいでスよ」
本当に今更なことをキースは言った。
「え? 賭けの結果は受け入れますよ。その方が面白いじゃないですか」
「あれ? ──あ、そうですカ……」
キースは思惑が外れたような顔をした。そう。彼は賭けを取り下げることで、楓のモチベーションを下げようとしたのだ。
そもそもキースが大会参戦を決意したのは、ひとえに楓のピアノの才能を惜しんだためである。楓が自分の音楽に行き詰まりを感じ、上を目指そうとする気概を明らかに減退させている状況において、元凶と考えられるのは、話に聞いた指相撲以外になかった。では、楓に指相撲をやめてもらうにはどうすればいいか。それも無理やりにではなく、全部納得ずくで。──そこでキースが考えに考え、やっと見つけ出した策が今回の賭けである。
しかし、もはやその賭けに意味はない。きっかけは定かではないものの、楓は、自分の力で行き詰まりからの脱出に成功しようとしていた。課題だっだ表現力と感情の乏しさも、近頃はあまり感じられなくなっている。元々天才的だった技術はさらに磨かれ、誰の真似もすることなく楓独自の曲の解釈で聴く者を魅了する演奏ができるところへ一歩一歩近づきつつあった。その才能の煌めきは、神童と呼ばれた若き日のキースを凌駕するものだ。そんな楓に敢えて指相撲を止めさせる理由はもはやない。
ゆえにキースは今、純粋に自分のためだけに試合の場に立っていた。すなわち、優勝して百万円を手にするために。
わざわざ大会当日になるのを待って賭けの条件を甘くしたり、賭けの中止を提案したりしたのも、楓に心理的揺さぶりをかけるためだった。実はキースは根っからの勝負好きであり、勝つために周到な作戦を練る男だったのである。
(カエデ、生徒といエども、手加減はシませンよ。わタしは、わタしは……百万円が欲しいのでっスぅ!)
これが、あと僅か二勝で優勝賞金を手中にできるところにまで迫った男の本音だった。今月は、TV通販の「十八金製超高級洗濯ばさみ十二個セット」を衝動買いしてしまい、少々家計が厳しいのだ。
「構えて」
審判に促され、楓とキースは試合台に右肘を置き、互いの手を組み合わせた。二人の手はともにさらりと乾いている。楓に緊張はなくキースに動揺はない。
(まだマだ、奥ノ手はあリまスよ)
キースの自信には確かな根拠があった。思い返されるのは、彼が世界的なピアニストになることを断念し、失意の日々を送っていた頃のこと。ふと巡り会ったとあるマイナーなスポーツに、彼は一心不乱に打ち込んだ。ピアニストならば当然保護すべき親指の先を、半ばやけくそで酷使しつつ、ついには全米チャンピオンにまで上り詰めたのである。そして、その技術は指相撲にも即、応用できるものだった。それも一撃で試合を終わらせる最強の必殺技として。
続く




