8月10日 その2
「おっ、高柳ぃ、ここにおったんかぁ」
唐突にドアがガララララッと開け放たれた。乱暴な声とともに現れたのは山のような大男である。虎縞の覆面。鍛え上げられた筋肉の塊のような身体。筆文字で「巨魂!」と書かれた白いTシャツ。黒いレスラーパンツに赤いリングシューズ。誰が見ても覆面レスラーそのものだった。
(あれ?)
覇斗は疑問に思った。確かに声には聞き覚えがあったのだが、このレスラーには全然見覚えがないのである。
「おい、どこ見てんだよ」
声の方向に覇斗が視線を移すと、クラスメイトの渡辺健司がふてくされた顔をしていた。レスラーの斜め前方で腕を組んでいる。巨漢に気を取られてつい見落としてしまったらしい。
「あれ、応援に来てくれたのかい?」
覇斗がそう思ったのは、渡辺が大会に出場しないことを前もって知っていたからだ。
「いや、兄貴の応援さ」
「兄貴?」
渡辺の返事を聞いて覇斗は訝しげな顔をする。
「一番上の兄貴だ。このマスクマンだよ」
「ども初めまして。いつも弟がお世話になっています」
レスラーが大きな体を折り曲げ、丁寧に両手で名刺を差し出してきた。右手の親指には、雪ダルマっぽい体形の耳の小さいパンダが描かれている。
「北陸プロレス代表取締役社長、グレート・クマゴロー……。社長さんですか。凄いですね」
「いえ、会社を立ち上げてからずっと赤字ですよ。地元に愛されるプロレスを目指して十五年。身体を張って頑張ってきた甲斐あって、徐々に興行にも人が集まるようになってきましたが、まだまだこれからです。応援よろしくお願いします」
「はあ。頑張ってください」
そう社交辞令で応じつつ、覇斗は、渡辺の家が家族金庫を持っていながら一円も還付金が入っていない事実を思い出した。興行の世界の厳しさを知った思いである。
(ところで、クマゴローなのに虎のマスクとはどういうこと?)
つい気になってグレート・クマゴローの覆面をよく見ると、目の周りに真っ赤な隈取りがあった。きっとこれがオチだろうなと覇斗は思う。
「高柳ぃ、お前にゃ悪いが優勝は兄貴のもんだぜ」
横から渡辺が口を出してきた。やけに自信に満ち溢れた顔である。覇斗の脳裏に嫌な予感が走った。
「ちょっと待って。契約は忘れてないよな」
「勿論だとも。俺は約束は守る男だ。だから俺は大会にエントリーしなかった。『他言無用』と言われたから、お前の技を他人に教えるなんてこともしなかったぜ」
「え、他人だって?」
「ああ。兄貴には教えたが、兄貴は他人じゃないからセーフだろ。念のため、兄貴にも口止めしておいたぜ。完璧だ」
「……ま、まいったな……」
覇斗は呻いた。完全に想定外である。よもや渡辺が「他言」の「他」に家族が含まれないと勘違いしていようとは。しかし、よくよく考えれば、渡辺は「雌伏の時」を「私腹の時」と思い込んでいる男である。元々、笑いの種にもならない微妙な思い違いが多いやつなのだ。
覇斗は契約の際の言葉のチョイスを間違えたことを自ら認め、抗議を諦めた。
「それではお互いベストを尽くしましょう。私はDブロックですが、あなたは?」
「Cブロックです」
「では準決勝でお会いしましょう」
グレート・クマゴローは最後まで礼儀正しかった。
「高柳ぃ、予選なんかで負けるなよ。だが、優勝賞金百万円は兄貴のもんだ。うちの家族金庫に所得税が初還付される日も近いぜ」
渡辺兄弟が余裕たっぷりの態度で控え室から出て行くと、覇斗と楓は思わず顔を見合わせた。
「大きかったわね。二メートル越えてるんじゃない。今の、本当にプロレスラー?」
「そうらしい。友達の兄貴だってさ。まずいことに僕達の技を知られてしまった」
「そんなふうに聞こえたけど、どういう経緯なの?」
「さっき話していた小さい方が僕の友達で、彼に大会までの練習相手になってもらってたんだ。これまで君に対してさんざん師匠面してきたけど、アレに関する素質は君の方がかなり上だからね。早々に追い抜かれて惨敗を繰り返すようなことがないよう陰で実戦を積む必要があった。せめて去年の大会時のレベルに戻しておかなきゃ、僕を目標にしてくれてる君にも申し訳ないと思ったんだ。──でも、練習相手もそこそこ強くないとまともな練習にならないだろ。だから、僕の技を一通り彼に仕込んだってわけ」
「で、あんたが他言無用と言ったのに、そいつは家族になら大丈夫と思って教えちゃったと」
「そういうこと。悪気はないみたいだから許せるけどね」
「結果的に凄い強敵ができちゃったわね。去年のあんたはこんなのを望んでたわけでしょ。感想はどう?」
別段困ったような素振りも見せず、楓は淡々と覇斗に尋ねた。
「去年だったら大喜びだったろうな。本当の全力をぶつける相手に恵まれたわけだから。きっと優勝して人生の目的を果たした気分に浸っていたと思うよ。それが束の間の夢と気付くまではね……。──ただ、今年の僕はさすがにそんな気分じゃない。本音を言えば、君との戦いだけに集中したいと思ってた。今の僕のアレに対する意欲は、全て君という存在を通してもたらされるものだったからね。余計な要素はなるべく入れたくなかったんだけどなあ」
「あら、あたしは歓迎するわよ。馬鹿でかい、見た目に強そうなやつをやっつけてこそ、優勝に箔がつくってもんじゃない。あたしのブロックに来てほしかったわ」
「そうだな。君はそうでないと」
覇斗は楓の前向きな明るさが大好きだった。
「僕も君を見習うとするよ。僕は……」
「オー、カエデ、こコにいマしたカ」
空気を読まないタイミングで部屋に入ってきたのは、真っ黒な新品のカンフースーツに身を包んだキース・リチャードソンである。
「あ、先生」
楓は嬉しそうな顔を見せた。今回は敵同士になったとはいえ、基本的に楓はキースに懐いている。いつも柔和な笑みを湛え、どこかとぼけた感じのするキースは、宮城家の大人にはいないタイプであり、楓の心を和ませる独特の雰囲気を持っていた。
「あナたは、Aブロックでスね。わタしはBでス。直接対決ができナかった場合の取り決めをしておキマしょう。今回の勝負はわタしが持ちカけたものでス。よってわタしが決勝に出られナかった場合、無条件でカエデの勝ちとしマすね」
二人とも予選敗退してしまった時のことをキースは想定しているようだ。楓が一回戦敗退、自分が五回戦敗退でも、楓の勝ちにするつもりらしい。お優しいこと、と楓は内心でオジョウサマ風に笑った。
「先生。じゃあ、頑張って予選突破してみてください。準決勝であたしと当たりますよ」
「モチロン、わタしもそレを望んでいマす。お互いガンバリマショー」
楓とキースが固い握手を交わす。
別れの言葉とともにキースが去った後、楓は表情を強ばらせ自分の右手を見ていた。
「どうした?」
覇斗が尋ねると、楓は瞬きもせずに覇斗の目を見つめ、
「知らなかった。あたしよりずっと握力強かったわ。手が大きいのと指が長いのは見りゃわかるけど、あんな身体だもん。非力だとばっかり思ってた。きっと手首の力も腕力もあたしより強いわ」
と答えた。
「意外だな。あんなに華奢なのに。でも、それだったら……」
「そう」
覇斗の言葉を遮り、楓は不敵な笑みを浮かべた。
「きっと先生は決勝トーナメントに出てくる。あんたと戦う前のいい腕慣らしになるわ。いろんな技を実戦で試す絶好の機会よ」
続く