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特大家族──いい年してアレに夢中  作者: ブラックワン
第二章 リセットスイッチ
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6月12日 その4

 旅館時代のカラオケラウンジを改装した地下一階の音楽室には、かつてのバーラウンジにあった国産のグランドピアノが半ばオブジェとして設置されていた。定期的な調律こそしっかり行われているものの、元々それほど高価な品ではなく、音色も響きもどこか浅い感じがする代物である。少なくとも覇斗が以前に軽い気持ちで弾いてみた時にはそんな印象だった。しかし今、そのピアノは、本来のポテンシャルを遥かに上回る重厚な音を響かせている。


 壮麗にして優美。正確にしてダイナミック。通常より速めのテンポで奏でられるショパンの調べは、テクニックを誇示するような気負いを微塵も感じさせない、ただ美しい音の奔流となって覇斗の耳を打った。


 躍動する楓の身体。うねるような三連符の分散和音を刻む左手と、勢いよく駆け上がり駆け下りる右手。激しく強く、時には優しく滑らかに鍵盤を叩く十本の指。長く艶やかな黒髪が舞い、照明を浴びて銀線の如く光り輝く。そして、真剣さの中に凛とした気高さを感じさせる楓の顔に、覇斗の視線は知らず知らずのうちに釘付けになっていた。やんちゃな楓しか知らない覇斗としては、別人を見ている気分である。


 演奏が終わり、楓が鍵盤から手を下ろすと、覇斗は自らの感動を力一杯の拍手の形で表した。


 楓も満足そうな笑みを浮かべる。興が乗ってきたのか、「サービス」と呟いて、今度は「エリーゼのために」を弾き始めた。ベートーヴェン作曲の超有名な小品である。情感溢れる演奏であり、覇斗としても文句の付けようがない。


(どこが壁に突き当たってるってんだ、これ?)


 内心の疑問をストレートに楓にぶつけてみる。


「割とよく弾けてたでしょ」

「うん、最高だった」


 楓は背筋をピンとしたまま立ち上がり、得意気な顔で黒髪をかき上げた。


「先生もそう言ってくれたわ。だから自信を持って弾けた。あんたを喜ばせることができてよかったわ。感情を込めるフリもだいぶ様になってきたみたいね」


 肩の荷が下りてリラックスムードの楓が、さほど重さを感じさせない口調でサラリと言った。


(おいおい、まさか本気で言ってるのか?)


 覇斗は楓の言葉がどうにも納得できなかった。


「待って。『感情を込めるフリ』なんてことはないだろ。しっかり気持ちが入ってて、心を揺さぶるものがあったと思う」

「そんなふうにうまく聴こえただけのことよ。だって、曲の解釈はほとんど先生の指導通りだし……。CDの演奏をパク──じゃなくてアレンジしたところもあるし。自分の音楽って気がしないから、つまんないのよね」

「いや、ノリノリだったじゃないか。顔は真剣過ぎてちょっと怖かったけど。どう考えても、つまらない気分を演技で誤魔化してる感じじゃなかった。とても生き生きしていたよ。それに、演奏の元ネタがどうあれ、ちゃんと消化して自分のものにしてる。素晴らしかった。俺、感動したよ」


 楓は、覇斗の賛辞にジンとくるものを感じた。覇斗が自分のことを「俺」と言ったからである。お世辞でも嘘でもない、素の覇斗の本音が伝わってきて、楓は嬉しくなった。覇斗を感動させられたという事実に感動を覚えずにはいられない。しかし、次に楓の口を衝いて出たのは、感謝の言葉ではなく、なぜか反論の言葉だった。


「つまんないものはつまんないのよ。気持ちを込めて弾くなんて、今のあたしには無理な芸当なの」

「やってたじゃないか」

「やってない!」


 覇斗には、楓がどうしてムキになって言い返してくるのか不思議でならなかった。本人が「できない」と思っていることを「できている」と指摘される──本来なら喜ぶべきことのはずだ。それを否定する理由がはっきりしない。楓のことだからそう複雑な思考過程を辿っての言葉ではあるまいと予測はできるものの、現状では推理しようにも材料が足りなかった。


 実は、当の楓ですら、今の自分の心理がよくわからないのである。覇斗に褒められて心から嬉しいと思っているのに、どういうわけかその気持ちを置き去りにして反発してしまうのだ。


(みんなあたしのこと、『わかりやすい』って言うのに、どうしてあたしがあたしのこと、わかんないのよ!)


 楓は、理不尽だ、と思った。


「まるで、今の演奏に気持ちがこもってちゃいけないみたいだね。つまらないって思いながら弾くことを、自分自身に課している感じがする」


 楓をさらに刺激しないよう、覇斗はできるだけ穏やかに話し掛けた。


「そんなわけないじゃない……」


 楓の声は幾分小さくなっている。覇斗はふと閃いてこう言ってみた。


「ねえ、もし君が好き勝手に『幻想即興曲』を弾いたら、どんなふうになる? 教わったことをこの際忘れて、思い通りに『自分の音楽』を奏でるんだ。出だしだけでいいから、一度聴かせてほしいな。今のと比べてみたい」

「えっ……。──いいけど、ひどいもんになるわよ」


 楓は数瞬時間を置いて逡巡しつつ答えた。


「そうなの? まあ、弾いてみてよ」

「ちょっとだけね。恥ずかしいんだから」


 そう言って楓はおもむろにピアノに向き直り、渾身の力で両手をバーンと叩きつけた。「幻想即興曲」の冒頭の和音である。そこから暴力的とも思われる荒々しさで演奏が進行していった。


 音楽室に音の嵐が吹き荒れる。全ての音がフォルテよりも強く弾かれていた。ペダルは全く踏まない。ペダルの存在自体、楓の意識の外にこぼれ落ちてしまっているようだ。テンポは先刻の演奏に輪をかけて速い。まさしく疾風怒濤。それでもなおリズムが正確極まりないのは驚嘆に値したが、楽曲の美しさは明らかに損なわれていた。


(無駄な力が入り過ぎてる。さっきは手首の脱力も申し分なかったのに……。あの速さで、あんなに力みかえってて、一つも音符を飛ばさないのは確かに凄いけど……、先生に駄目出しされるのも無理ないな。──だが、これでわかった)


 覇斗がじっと楓の横顔を見つめる。彼女の凛とした美しさは変わらない。しかし、そこには先刻とは異質な真剣さがあった。無我夢中であることを自らに強いているような不自然さが漂っている。


 楓がキリのいいところで演奏を止めた。


「こんなもんね。どう? 乱暴だったでしょ」

「ああ、確かに」

「でもね、芸術家ぶった演奏より、あたしはやっぱり今の方が性に合ってるのよ」

「本当にそうかな?」

「え?」

「まあ、いいか。どうせ僕の勘違いだろうし。君のことは君が一番よく知っているはずだからね」


 覇斗はすぐさまそう言い添えた。いさかいの芽は早めに潰すに限る。


「──だけど、最初の演奏で僕が感動したのは間違いようのない事実だ。そこは楓さんも自信持っていいよ」

「うん。ありがと」


 楓は今度は素直に喜びを露にした。要は言い方次第なんだな、と覇斗は思う。だから思い切ってこう続けてみた。


「それにしても、さっきは言い過ぎた。謝るよ」

「いいのよ、別に」

「どうも、また視野が狭くなってたみたいだ。やっぱり、例の景色、久々に見に行くかな。どう? 楓さんも一緒に来るかい? 確か土曜の午前中は晴れの予報が出てたはずだ。予定は空いてる?」

「空いてるけど……」

「じゃあ、決まりだ。細かいことはまた今度。それじゃ、今日はこの辺で」

「え、あれ? えっ? 何が決まりなの?」

「いい演奏が聴けて嬉しかったよ。おやすみなさい」

「あ、おやすみ。──あれ?」


 覇斗は言いたいことを一方的に言ってサッと音楽室を出た。「今度の土曜、一緒に例の景色を見に行こう」という約束がなんとなく成立してしまったムードである。実のところ楓は何も了承していないのだが、拒否もされていない以上、覇斗にはこの約束を既成事実化させられる自信があった。


(本当に、言い方次第だな)


 なぜ敢えて楓を誘うのかを、はっきりと筋道を立てて話せば、却って反発を食らっていたかもしれない。余計な言葉を挟まず、考える暇を与えずに強引に誘ったのが正解だったようだ。


(さて、どうなるかな)


 覇斗は土曜日が待ち遠しかった。あの景色が楓にどんな衝撃をもたらすのか──それを考えると心が躍る。無論、狙った結果が出ない可能性も大いにあるが、その場合の言い訳はとっくに済ませてあるので、覇斗としては特に何も困らない。一応の道義として、楓に無駄足を踏ませたことを詫びるまでである。



 ポカンと口を開けて楓がドアを見つめていた。


「なんなのよ、いったい」


 急にピアノと関係ない話題になったかと思うと、いきなり音楽室に置き去りにされてしまった。何がなんだかわけがわからない。


(やっぱり変わってる、あいつ)


 楓の中で、覇斗の評価が「変わった人」から「変人」寄りに一気に傾きそうになる。しかし、先刻の会話を反芻するうちに一つ大事なことに気付いた。


(あ、誘われたんだ、あたし……。なし崩しに決まっちゃった? 深い意味は……別にないわよね? イベント的にはがっかり確率が八十パーセントぐらいあるけど)


 自然と口元が緩んでくるのを自覚して、楓はうっすらと頬を赤らめた。そして、ピアノ椅子に腰掛け直すと、一回大きな背伸びをする。


(もしかして、本当にあたしが見せかけじゃなく、ちゃんと弾けてたんだとしたら、それは、あんたのための演奏だったからかもね)


 音楽室に今日三回目の幻想即興曲が響き渡る。自分のために行う演奏は、やはり怒濤のように荒々しく激しかった。


続く

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