6月12日 その2
再び覇斗の部屋である。楓は中に入ってくるなり、深呼吸をし始めた。覇斗が理由を聞くと、「さっきびっくりしてまだ心臓がドキドキしてるから、落ち着きたい」とのことである。
「だったら、気分が落ち着くハーブティーでも飲むかい? 市販のブレンド品だけどね」
「いただくわ」
ティータイムの間、二人は自分の好きな音楽について雑談していたが、そのうち覇斗が楓の相談を受ける形になった。
「──あたし、この先、どう進んだらいいんだろ」
決して言葉足らずな問いではない。覇斗には楓の心情が充分に汲み取れた。
「勉強とピアノ、両立は無理かい?」
「ピアノを部活動のようなものと考えれば、今のところ勉強との両立は可能よ。だけど、本気で一流のピアニストを目指すのなら、生活の全てをピアノ中心に考えなければ無理。音大受験の準備も早くからやっておかなきゃなんない。ピアノさえうまけりゃ受かるってもんじゃないしね。──で、一流を目指さないのであれば、最初からピアノはちょっとした特技と割り切って、普通にそれなりの大学に進学した方がいいんじゃないかと思うのよ」
「中途半端は嫌なんだな」
「うん。でもね、まだ選択を迷うところにさえ、辿り着けてない。目下、アレで頭がいっぱいだから。ピアノに情熱の全てを注ぐなんて、今のあたしには想像さえできないわ。かといって勉強にもそんなに身が入らないの」
「当分は楓さんのピアノも、『アレの肥やし』のままか。そりゃ、ピアノの先生もヤキモキするよな」
先刻、楓の口からキースの参戦を告げられていた覇斗は、そんな感慨を漏らした。
「申し訳ないわ。あたしなんかが振り回しちゃって。そもそもあたし、ピアノを速く正確に弾く技術は我ながら大したもんだと思うけど、芸術家としての素質はあんまりないんじゃないかな。だって、スローテンポな曲は、どんな名曲でも一分聴かないうちに眠たくなっちゃうし、『熱情』ソナタを弾いてても頭の中は恐ろしく冷静だし。先生があたしを買いかぶってるだけなんじゃないかって思っちゃう」
「そんなことはないよ。芸術云々を語るには、僕らの歳じゃまだ若過ぎると思う。これからさ。若いうちに身に付けるべきは絶対に演奏技術の方だよ。楓さんのテクニックは先生からも太鼓判が押されてるんだろ。もっと自信を持つべきだ」
「そう? ホントにそう思う?」
「早く君の演奏を聴きたいな。そしたら、きっと確信を持って断言できると思うよ」
「フフッ、ありがと」
楓の表情がパッと明るくなる。ヒマワリを思わせる眩しい笑顔だった。
「元気が出てきたわ。あんたの言葉って、効くわね。格別に立派なこと言ってるわけでもないのに、なぜか心に響くの」
「え、そうかい?」
つい楓の笑顔に引き込まれてしまった覇斗は、次に言おうとした言葉を忘れた。思わず顔を見合わせる二人に訪れた一瞬の静寂。その空白を埋めてしまおうと、楓が早口で喋り出す。
「なんだか不思議だわ。あたしとあんたが和やかに話せるようになったのって、つい一昨日のことじゃない。なのに、今まで家族にも言えなかったことを、こうして相談できてしまうんだもん。前にも言ったけど、あたし、最初あんたのことを、中身のないただの八方美人だと誤解していたのよ。ひどくない?」
「いや、確かに八方美人的要素はあるから。それは自覚してるし、学校の友達からも時々言われるよ。ただ、僕の場合、他人に嫌われたくない、好かれたいという意識でやってることじゃない。目の前の人と真摯に受け答えすることだけを考えていたら、結果的にそれっぽくなってしまうんだ」
「そこに下心はないの?」
聞きようによっては失礼極まりない言葉だったが、楓のストレートな物言いに慣れていた覇斗にとって、鼻白むほどのことではなかった。
「無意識レベルではあるのかもしれないけど、意識したことはないな。僕は損得勘定で動くのが苦手なタイプみたいだ。何せ『諦めがいい』からね。損もすんなり許容できて得もあっさり放棄できる」
「欲がないのね」
「ないんじゃなくて、勝手に消えていってしまうんだ。我ながらそんなところが嫌で、去年までは頑張ってたんだけどな。今は無理することはないという気がしてる。でもね、親しい人に頼られたら、本気でなんとかしてあげたいとは思うよ。これって欲じゃないのかな」
「そのぐらいは自分で判断しなさいな。──そうそう、勘違いしてほしくないから言うけど、あたしは下心があっちゃ駄目って言ったつもりはないからね」
「あ、下心があってもいいんだ」
「待って。勘違いしないでね。下心があってほしいなんて思ってないんだから」
「そうなの?」
「えと……もう……どうでもいいわ。──ささ、アレ、やりましょ」
あからさまに不自然な話題転換である。覇斗は口元が綻ぶのを止めることができなかった。
楓はその場しのぎの嘘やごまかしを苦手としている。状況に迫られて嘘をつくこともあるが、大概すぐにバレる上、嘘を嘘で塗り重ねることができない。話したくないことがあれば、頑張って隠し通すか、別の話題を振って強引にうやむやにしてしまうしかなかった。そんな無器用な正直さが彼女の言動から透けて見える。覇斗はそこになんとも言えない微笑ましいものを感じた。楓の言葉の一つ一つが一服の清涼剤のように思える。
その時不意に覇斗は思いついた。指相撲の件で家族全員を振り回して困らせた楓が、結局誰からも嫌われていない理由を。
(要するに、嫌えないよな。こんないい子なんだから)
「え、何ニヤニヤしてんのよ」
「楓さんは素敵な人だなと思って」
「何それ、褒めてんの? 褒めてるのよね」
「さてと、アレやるんだったね」
「切り換え、早っ!」
明らかにもの足りなさげな楓を誘導して、覇斗は今日のレッスンを始めることにした。尻切れトンボになってしまったピアノの話は「演奏会」の後ででも充分できる──そう判断してのことである。
「今日は、クール・リーディングのおさらいをしよう。なんといってもこれが一番の基本だからね、地味だからといって馬鹿にせず覚えてほしい。うまく行ったらクール・サムライディングも教えてあげるよ」
覇斗が試合台に右肘を載せると楓も後に続き、親指の腹同士をくっつけ合った。
「『サムライディング』って英単語あったっけ? 侍に関係してるの?」
「全然。僕の造語さ。言葉の意味は、技の内容がわかれば自ずと理解できる」
「そう? じゃ、早く教われるよう頑張ってみるわ」
合図はもはや要らない。互いに同じ態勢ながら、以心伝心で覇斗が技の受け手、楓が攻め手となって練習が始まる。覇斗の鋭い動きに対応しながら、およそ二十分間、楓は親指の腹の皮膚感覚に意識を集中し続けた。しかし、さすがの楓もカウンター攻撃を成功させるまでには至らない。
「まだ無理ね。あんたの動きは読めるんだけど、それにどう攻撃を対応させたらいいのかよくわからないわ」
「考えたら駄目だよ。反射運動みたいなもんだから。でも、僕が相手じゃなかったら、楽々押さえられたと思うな。そのくらいスムーズな動きだった。ま、焦ることはないさ。気長に行こう。クール・サムライディングはまたのお楽しみだ」
「もうやめるの?」
「うん。今日は君に、もう一仕事してもらわなきゃならないからな。僕の経験上、これ以上の意識の集中は、後で精神的な疲労の元になる。代わりに僕の最後の技をチラッと教えるよ」
「最後の技?」
「そう。『ライトニング・カウンター』だ」
続く




