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特大家族──いい年してアレに夢中  作者: ブラックワン
第二章 リセットスイッチ
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6月12日 その1

 6月12日(水)


 この日は楓が珍しく第二便のバスで帰ってきた。いつもより宿題が多いからという微妙な理由でピアノの自主練習を早めに切り上げてきたらしい。しかし、あながち嘘でもないようで、午後六時に覇斗の部屋にやってきた彼女は、数学の問題集と筆記用具を持参していた。


「覇斗君。わからない問題があるんだけど、教えてくれる?」


 そう言って楓が開いたページに載っていた問題は、意外にも覇斗にとってそう難しくないものばかりだった。


 州立御三家の生徒ともあろう者が何故この程度の問題でつまづくのか──覇斗の顔色からそんな疑問を感じ取った楓は恥ずかしげにこう言い添えた。


「あたし、地頭(じあたま)はそんなに良くないのよね。記憶力で勝負するタイプなの。一度教えてもらったことは何年も忘れない。公式だって一瞬で暗記できるわ。だけど自分で解き方を考えるのは苦手」

「大学受験は暗記が主体だから、記憶力の良さは凄い武器だよ。数学だって問題を解きまくって覚え込めばいいわけだし。──現国はどうなの?」

「そんなに苦手でもないわ。小さい頃から読書が大好きだったからかな」

「じゃ、問題ないね。──さ、ノートを開いて。教えてあげるよ」


 覇斗は楓の隣で、問題の解き方をわかりやすく丁寧に解説していった。楓は頷きながら聞き入るばかりである。質問をする必要が全くない。しまいには、そもそもどこがわからなかったのか、わからなくなってしまったほどだ。


(やっぱり、頭いいなあ)


 楓が心から感心する。


 しかしその時、当の覇斗は予期せぬピンチに見舞われ、心中でどぎまぎし通しだった。実は、ちょっと視線をずらすだけで、楓のTシャツの襟元から浅い胸の谷間が覗けてしまうことに気付いてしまったのだ。覇斗も健全な男子である以上、そういう方面の関心は大いにある。とっさに宮城速彦の「針のむしろ」という言葉が思い浮び、持ち前の諦めモードが発動しなければ、危うく欲求に負けてしまうところだった。


(これが、俺の最高能力・バリエーションNO.1──『永続する(エターナル・)賢者の時(ワイズマンタイム)』だっ。身から何も出すことなく、いつでも賢者タイムに移行することができるっ!)


 平野南花の言葉を気にしないと誓った覇斗だったが、どこかで影響を受けてしまっていることは否めない。すました顔を保ちつつ内心で危機脱出に安堵している覇斗を、楓ははつらつとした笑顔で見つめた。


「ありがとう。おかげで全部解けるようになったわ。あんたって、ホントに頭がいいのね。今まではお母さんに教わってたけど、体育教師だからね、専門外の勉強教えるのはキツいってこぼしてたし、これからはあんたにお願いしようかな。どうしてもわからないって時だけだし、迷惑じゃなければ、だけど……」


 覇斗よりほんの少し身長が低いだけの楓が、身体を折り曲げて下から覇斗の目を覗き込むようにする。覇斗はこの仕草には弱かった。「エルメスのバッグ買ってぇ」と言われたらホイホイ買ってしまいそうなくらい弱い。


「オーケー。既にアレを教えてる立場だし、一つ教えるも二つ教えるも一緒さ。自分の復習にもなるしね」


 覇斗は精一杯カッコつけた言い方で快諾した。


「助かるわ。きっとお礼はするからね」

「貸しは貯めておくことにするよ。いつか僕だけのためにピアノコンサートをやってほしいな」

「いいわよ。幻想即興曲もその時まで取っとく?」

「いや、それは今日お願いするよ。もう耳がショパンを聴く耳になってる」

「どんな耳なのよ」


 その時、部屋に梵鐘の音が響き渡った。


「あ、ご飯だ」

「きっとそうね。今日は七時ぴったりだわ。行きましょう」

「うん」


 二人は連れ立って覇斗の部屋を出た。端から見ると実に楽しげで、今にも手を繋ぎ出しそうな雰囲気である。──もっとも、食堂に着く頃までには、互いに何か意識したのか、少しよそよそしげに離れてしまっていたのだが……。



 食堂には食欲を誘うスパイシーな香りが漂っていた。


 今日の夕食の献立はカレーライスとコールスロー、ヨーグルトフルーツである。楓は女子高生グループの中に入り、さっそく食べ始めた。同席しているのは一昨日の夕食と同じく千春子と美晴子、茉莉花である。最終便で帰宅することの多い楓にとっては、同年代の家族との夕食の機会はあまりない。雑談タイムとしても貴重な時間だった。


「ところで、かえちゃん、あれからハトちゃんとうまいことやっとるがけ?」


 千春子が、楓と覇斗の関係を茶化す気満々で言った。たちまちにして表情を強張らせた美晴子が、不安げな視線を楓に送る。


「『うまいこと』って何よ。真面目にアレをやってるだけだからね」


 あっさり美晴子の緊張が解けた。楓はその場しのぎの嘘は滅多につかないし、ついてもすぐにボロが出る。わざわざ勘繰って裏を読む必要はないのだ。


「ホンマ? つまらんちゃ。もっとこう胸躍るような進展はないがけ?」

「進展ならあるわ。あたしもアレ、本気で強くなりたいし、頭を下げて教えを請うことにしたのよ」

「えーっ、信じらんない。負けず嫌いの楓が自分から頭を下げるなんて。ハト君、そこまで極端にアレが強いのぉ?」


 美晴子が心の底から驚いた声を発した。


「なんていうか、強さに理論の裏付けがあるのよ。あたしがアレフリークだとしたら、あいつはアレ博士かプロフェッサー・アレね」

「松之進が言ってたわ。高柳さんは万事において研究熱心だって。ちょっと気になることがあれば、なんでもとことん追求するって」


 茉莉花が感情の起伏を伴わない口調で静かに言う。


「ってことは、ハト君、楓みたいにアレばっかにのめり込んでるわけじゃないのね。ああ、よかった。ホントによかったぁ」

「アレばっかにのめり込んでて悪かったわね」

「でも楓、ちゃんとまともに頭を下げたの? ハト君の人の良さにつけ込んで無理やりコーチを迫ったんじゃないのぉ?」

「その辺はフレンドリーなもんよ。なんなら本人に確認してみたら? 今年の大会が終わるまでは惜しみなく協力してくれる約束よ」


 実は美晴子の思い描いたシチュエーションの方が現実に近いのだが、その後の関係の円満さが楓に思い違いをさせていた。楓が覇斗に対してまともに頭を下げたことなど、かつて一度もない。


「けど、大会ってハト君も出るんでしょ? ハト君、自分のライバルをせっせと育ててるってことぉ? なんかかわいそう」


 美晴子は家族が相手だと言いたいことを全部言える。だから、覇斗の姿を見ただけで途端に萎縮して別人のようなキャラになってしまう自分がひどくもどかしく、恨めしい。その思いが募って、楓に対して少々突っかかる口調になってしまった。


「違うのよ。あいつは強力なライバルがいないとやる気が出ないの。大会に優勝すること自体には今じゃ全然関心ないみたい。あいつがあたしを教えるのには意味があって、要は自分のやる気の素を育ててるってことなのよ。で、あたしはあいつにやる気になってもらわないと困るのよね。本気のあいつに勝って去年の雪辱を果たしたいから」

「なかなか複雑な関係やちゃ。でも、優勝に興味ないんに、ハトちゃんがやる気になるメリットちゃあるがけ?」


 千春子が不思議そうな顔をする。


「特にはないわね。賞金にもこだわりがないようだし。ま、あいつはあいつなりに、ちょっとした思い入れはあるみたいよ。自分の編み出した技やテクニックがあたしに受け継がれるってことにね」

「松之進が言ってたわ。高柳さんは元々誰にでも愛想がいいけど、一緒にいて楽しい女子にはことさらサービスがいいって」

「へえー。なら、案外単純な動機で、かえちゃんを喜ばせるためにやってるんかもしれんね。──あれ? もしかしたらこの師弟関係ちゃ、大会が終わったら解消されるん?」

「そ、そうなるわね」


 楓はなぜか一瞬言葉に詰まった。


(それでいいのよね、あたし。たまに勉強を教えてもらう約束はしたけど、それって特別な関係でもなんでもないし……)


「もったいないちゃ。せっかく良さげな感触なんに。──そんなら、なんも遠慮せんからね」

「遠慮?」

「取り敢えず、みいちゃんがハトちゃんと普通に仲良うなりたいらしいから、そのお手伝いをさせてもらうちゃ。後は本人の頑張り次第でどこまでも。──ま、みぃちゃん、いっつもテンパった挙句に『いいですいいです』ばっかやし、道は険しいちゃ」

「ちょ、ちょっと千春子、本人の目の前でそんな恥ずかしいこと言わないでよぉ」


 美晴子が慌てて千春子を止めようとする。それを尻目に千春子は悪戯っぽく楓にウインクした。


「──ちゅうことで、かえちゃん。攻めるんなら今のうちやよ」

「こら、千春子、あんた、どっちの味方よぉ」

「シーッ。みぃちゃん、今のはかえちゃんの反応を見たかっただけやちゃ」

「残念でした。カマかけようったって、そうはいかないんだから」


 楓が余裕の表情を見せる。しかし千春子は、楓が脊髄反射的に反発しなかったことに、却って何か引っ掛かるものを感じていた。


 そこへ茉莉花が淡々とルーチンワークをこなすように口を挟む。


「松之進が言ってたわ。高柳さんは、今なら誰の申し込みでもお付き合いを受けるって。ただし先着一名に限り」

「えっ!」

「えっ!」

「えっ!」


 楓が、千春子が、美晴子が、持っていたカレーのスプーンをテーブルに落とした。


「うーそですよー」


 意表を衝かれて呆然となった三人に向かい、茉莉花は澄まし顔に薄く楽しげな色を滲ませながら、チロリとかわいらしく舌を出した。


「嘘です。みんな、結構簡単に引っかかりますね。ちょっとありえないようなことを言ったのに」

「……」

「……」

「……」


 三人が無言で顔を見合わせる。松之進のあずかり知らないところで、理不尽にも彼の株は下がった。


続く

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