6月11日 その8
午後十時。覇斗の部屋には既に速彦の姿はなく、替わって楓がやって来ていた。今日は楓が最終便のバスで帰ってきたため、指相撲に勤しむ時間はあまりない。ただ、昨夜の二人の間の取り決めで、たとえ数分しかできないとしても、練習は必ず毎日行うことになっている。
「ごめんね、遅くなって。その代わり、注文の曲はキチンと明日聴かせてあげるから」
「待ち遠しいな」
「先生のお墨付きよ。きっと凄いんだからね」
楓はあたかも別人が演奏するかのような口ぶりで言った。
「凄いんだろうな。楽しみにしてるよ」
楓の事情を知っている覇斗は、敢えて深く突っ込まない。
二人は阿吽の呼吸で、既に準備されていた試合台の上に右肘を置いた。
「今日教えるのは、時間の関係で一つだけ。──いい?」
「いいわよ。学校の勉強もしなきゃなんないしね」
「じゃあ、始めよう。まずは、昨日のおさらいからだ。準備運動がてら、試合形式でとにかく何回もやってみよう」
「わかったわ。──ああ、親指がウズウズする。禁断症状が出る寸前よ」
右手を組み合わせながら楓がそう言うと、覇斗は微妙に怪訝な顔をした。
「そういや、楓さん、学校じゃ全然アレをやらないのかい?」
「うん。親から『頼むから家の外で恥ずかしい真似をしないでくれ』って、釘刺されてるのよね。『その代わり、家族がいつでも協力するから。そうさせるから』って。だから我慢してるわ。あたし、約束はきっちり守るから。──きっちり守ってももらうけどね」
「そ、そうかい」
楓の眩しい笑顔から妙にタジタジとなる迫力を感じて、覇斗は思わず表情を引きつらせてしまった。
(言質を取られちゃったのか。こりゃあ、宮城家、墓穴を掘ったな。そっか、それで楓さん、好き放題に……)
覇斗は苦笑いを禁じ得ない。約束を盾に、勝ち誇った顔で指相撲を迫る楓の姿が目に浮かぶようだ。
十分間に渡る激しい攻防。昨日のおさらいといえども二人が手を抜くことはない。正真正銘の真剣勝負が繰り広げられ、結果、覇斗が一本を五回取って完勝した。あまりの実力差に、楓が気抜けした顔で溜息を漏らす。
「やっぱ、あんたにはまだまた敵わないわ。五回もやられちゃった。こっちは、技ありが一回だけかあ。一本取れるようになるまでしばらくかかるわね」
「いやいや、薄氷の勝利だったよ。昨日教えた技も完成度が増していたし。何回もヒヤリとさせられた」
「本当? 気休めは言わなくていいからね」
「本当さ。嘘をついてもおだてても、君のためにはならない。──ただね、一つ気になったのは、僕から技ありを取った後、一瞬動きが止まったこと。知ってるだろ、技ありを取っても、試合は止まらないって。審判はホイッスルを吹いて技ありをカウントするけど、試合そのものは終了のブザーが鳴るまで原則ノンストップだからね。ボーッとしてちゃ駄目だよ」
「そうなのよね。技ありを取ってしめしめと思う気持ちと、一本取れなくて残念と思う気持ちが同時に起こって、ちょっと混乱しちゃった。南波式のルールがまだしっかり身についてないのね。次から気を付ける」
「よし。楓さんなら大丈夫さ。それじゃあ、本題に行こう」
覇斗が再び試合台に右肘を置き、楓が追随する。
「──今からやるこれは、僕の本来の基本スタイルだ。技というより、構えに近い。相手の親指の腹に自分の親指の腹をぴったりと合わせる。こんなふうに」
覇斗は楓を相手にして実際にやってみせた。
「鍔迫り合いみたいね。これにどんな意味があるの? がっぷり四つというか、全く対等な条件じゃない」
「そう。互いが同じ条件で有利不利がないように見えるよな。だから、相手もそんなに警戒心を抱かない。なるべくゆったりとした動きで、相手の出方を見極めるような素振りを見せると、相手も同じ動きをしてくれることが多いから、そこを狙うんだ。──ま、実際にやるとなると結構難しくて、誘い込むための練習は不可欠だけどね」
「で、この状態からどうするのよ」
楓は口を尖らせて言った。覇斗の持って回った言い方が性に合わなかったらしい。
「自分の親指の腹の感覚に集中する。これだけしっかり指を押し付け合っていると、相手が次にどう動こうとしているのか、全部皮膚感覚でわかるんだ。──心を落ち着けて集中してごらん」
「あ……、うん」
覇斗は親指の右側に力を加えた。
「あ、今、力の加減が変わった」
楓は驚きの声を上げた。
「わかった? 君ならわかると思ってたよ。ピアニストだけあって、さすがに繊細だね、指の感覚」
覇斗は称賛しながら、今度は親指の左側に力を入れてみる。
「また、変わったわ。わかるものなのね」
「思いっきり意識を集中してたらな。だけど『次はどう攻撃を仕掛けようか』なんて雑念が入ると途端に読み取れなくなってしまう。そのぐらい微かな情報さ。だからこそ、それを知覚することが明確なアドバンテージになる。こっちは相手の次の動きが一瞬前に読めるけど、相手にはできないってこと。相手の出方に合わせて、一方的にカウンターの取り放題になる。──動かしてみて」
楓が攻撃に移るべくほんの少し親指の先に力を入れた瞬間、覇斗は自分の親指をグイっとズラした。大袈裟なところが何もない小さな動きである。それが楓の次なる動きに対する絶妙なカウンター攻撃になっていた。覇斗の親指の腹が、楓の親指の右側面をこすりながら上面へと伝い、最短距離の移動でたちまちにして押さえ込みの形を作り出す。
「わあ……」
感嘆する楓に覇斗は得意そうに言った。
「わかったかい? これが『クール・リーディング』──相手の動きを読んでその一歩先を行く技。そして、こいつを発展させたものが、プロレスラー相手にすら勝てる技──『クール・サムライディング』だ」
「プロレスラーに勝てるってことは、どんなに指の力に差があっても問題じゃないってこと?」
「そういうこと。楓さんがクール・リーディングを完成したら、教えてあげるよ」
「楽しみだわ」
楓の口調からは昨日までの敵愾心のようなものがすっかり消えていた。純粋に覇斗の工夫の素晴らしさを認め、尊敬する気持ちが芽生えてきたのである。根が純朴な楓は覇斗の「生徒」であることに、早くも居心地の良さを感じ始めていた。
続く