6月11日 その6
午後五時。
宮城家の和風庭園は、旅館の庭園だったこともあり壮観である。池を中心として、岩を高く積み上げて造られた滝、様々な大きさや形の庭石、四季折々に異なる表情を見せる多彩な木々、地元の清流に住む岩魚やカジカが放流されている川──それらがダイナミックに配置された池泉式庭園で、あと三週間もすればアジサイが見頃を迎える。
七瀬千春子と美晴子の姉妹が部活動をせず、第一便のバスで帰るのは、この庭園の管理をするために他ならない。彼女らは、特に誰に頼まれたわけでもないのに、暇を見つけてはしょっちゅう庭園に来ている。管理といってもやれることは限られており、雑草取りや掃き掃除、水撒きなどの軽作業が主体だった。剪定や、害虫駆除、雪吊りなどの大がかりな仕事は、時々やってくる庭師や庭仕事の得意な居候にお任せである。
生まれた時からずっと都会で暮らしてきた二人は、自然と直に触れ合える田舎の生活に憧れていた。北陸の暮らしは、思っていたものより厳しい面もあったけれど、毎日が新鮮な発見と驚きに満ちていて、来てよかったと素直に思える。世界の色鮮やかさ、水と空気のおいしさは都会では味わえない格別なものだった。喧噪のない空間に鳥のさえずりが間近で聞こえ、草木や花々が生き生きとして辺りを彩る。そこかしこに明るい生命の息吹が感じられた。冬は確かに寒く暗いものの、冬ならではの楽しみも別にある。それに今は除雪機や路地の消雪装置もあるので、昔ほど雪に生活を脅かされることもない。ましてやこの家は大家族。雪下ろしだってみんなでやればたちまち捗るのだ。
そんなお気に入りの田舎で庭いじりを趣味とする生活を、二人は気ままに楽しんでいた。
今日の千春子の仕事は雑草取り。地道な仕事である。庭園の端から毎日少しずつ草を刈っていって、全域を刈り終わる頃には、最初に刈った場所の草がもう伸びている。エンドレスな作業だった。普通ならすぐに嫌気が差すところだろう。だが、彼女は単純作業が苦にならないタイプであり、辛そうな様子もなくせっせと鎌を動かしていた。
片や美晴子の仕事はグミの収穫である。庭園内に一本だけある大きなグミの木に赤い細長い実がたくさんぶら下がっている。この木の下に脚立を置いて、実を一つ一つ収穫しようというのだ。グミの実は、甘酸っぱい中にちょっと渋みがあるのが特徴である。渋みは渋柿のように口中にいつまでもへばりつくタイプの強烈なものではなく、甘さを感じているうちにスッと消えてしまう程度の優しいものだ。慣れると、とてもおいしく食べられる。
普通、グミの木といえば枝にトゲがつきものだが、ありがたいことにこの木にはなかった。品種によるものなのか、樹齢によるものなのか、変異によるものなのかはわからない。美晴子としては、とにかく痛い思いをせずに収穫できさえすれは、それでいいのだった。
二人はお揃いの長靴とジーンズ、つばの広いUVカットの帽子、色違いのUVカットパーカー、という出で立ちだった。ぱっと見では誰が誰だか全く見分けがつかない。二人とも色白なので紫外線対策には気を遣っているようだ。この時期はまだ日没までに時間がある。
「みぃちゃん、つまみ食いはあかんよ。夕食に出すんやから」
「今年のはジューシーでおいしいの。甘いわよぉ」
「だからつまみ食いせんといてって」
「だってまずいものを食卓に出すわけにはいかないじゃないのぉ。ちゃんと味見して、おいしいものを出さなきゃ」
「味見したら種しか残らんがいけど」
「種の周りが特に甘いのよねぇ」
「美晴子、ふざけてるでしょう」
「ごめーん」
などというじゃれ合いにも似た会話をしながら、二人はマイペースで作業を続けている。
ケッケーン、とどこかでキジが鳴いた。すぐ近くで聞こえた気がして千春子が振り返ると、十メートルほど離れた苔の上を、雄のキジがノソノソ歩いていた。身体が金属光沢を持つ鮮やかな緑で、羽根が茶色、目の周りにどぎつい赤色の肉腫があって全体的に派手派手しい印象である。地面と水平にピンと伸びた長い尾が美しかった。千春子が視線をぶつけても、まだ逃げる気配はない。
(キレイだな。雌は地味だけど、雄はほんとにキレイ)
千春子が近づいていくと、キジは警戒したのか徐々に足を速めて距離を置こうとする。
そういえば、と千春子は思った。キジの姿は何度も見たことがあるけれど、飛んだ姿は一度も見たことがない。彼女は思い切ってキジに向かいダッシュした。
バタバタバタ。遂にキジが飛んだ。容姿と異なり、飛ぶ姿は全然美しくない。ジタバタジタバタもがくように羽ばたいているが、身体が重いのか低空飛行にしかならず、しかもすぐに着地してしまった。
「ダサいわぁ」
なぜか美晴子の方からがっかりしたような声が聞こえた。
「こんなに目立って、飛ぶのも下手で狩猟の対象にもされてぇ、しかもおいしいって話なのに、よく絶滅しないよね」
「きっと隠れんのが上手ながいちゃ」
千春子が弁護する側に回る。
「ただいま! グミ採ってるんだって?」
よく通る大声とともに、突然、髪を汗で濡らした覇斗が庭園に現れた。生徒会の仕事を早めに切り上げ、全速力で帰宅するなり庭園に直行してきたようだ。美晴子が驚きのあまり脚立の上で硬直してしまうと、その様子を見ながら千春子が笑いを堪えていた。実は、こっそりと千春子が「手伝ってくださいメール」で覇斗を呼び寄せていたのである。
「美晴子さん、代わりますよ」
「いいですいいです、そんな、申し訳ないです」
「そんなこと言ったって、高い所、手が届かないでしょう?」
「みぃちゃん、手伝ってもらわれ。いっぱい収穫するためやよ」
千春子が笑顔で後押しする。
「じゃ、じゃあ、お願いします」
恐る恐る地上に降りた美晴子から収穫カゴを受け取ると、覇斗はそれを腰にくくり付け、樹上動物のような身のこなしで脚立を上っていった。
覇斗の身長は百七十三センチである。百五十センチ前後の美晴子とは手の届く範囲が違う。しかも要領がいい。手から遠い所にある実も、枝をうまく曲げて引き寄せ、次々に取っていく。覇斗は、瞬く間に美晴子の取り残しを収穫し終え、トッと地面に降り立った。
「うわあ、ハヤーイ。スゴーイ。イカ忍者みたいです」
美晴子は目をキラキラさせて感動しきりである。
なお、「イカ忍者」とは何かのキャラクター名ではなく、単なる「伊賀忍者」の誤読だった。伊賀と双璧を成す有名な忍者の里である甲賀──その読みが「こうか」だとたまたま知っていたせいで、自信たっぷりに恥ずかしい間違いをやらかしてしまったのだ。
「はい、美晴子さん」
ポンとカゴを手渡され、ボーッとしていた美晴子が我に返ると、覇斗の顔がすぐ近くにあった。うわわわ、と内心パニックになりながら千春子の方をチラっと見る。千春子は口先や顎を大げさに動かしつつ、実際に声を出さずに「行け」とか「言え」とか言っていた。
(そ、そうだ。お、お礼を言わなきゃ)
「あ、あのぉ……」
美晴子が勇気を振り絞ったその時、
「ぃやあああーーーーーぁっ!」
と、突然悲鳴が轟いた。覇斗が振り向くと、千春子が数メートル離れたところの地面を指差して怯えている。
「ヘ、ヘビ…………。ヘビおった、ヘビ」
それを聞くや、覇斗は千春子の方へすぐさまダッシュで駆け寄った。確かに蛇だ。身体をくねらせながら植え込みのサツキの下へ入っていった。一瞬見えた蛇の頭は三角の形。そして丸い斑紋。恐らくマムシ、と覇斗は判断した。マムシなら放っておくことはできない。この先、庭仕事が安心してできなくなってしまう。幸い覇斗は蛇を苦手としていなかった。
「千春子さん、離れてて。僕がやっつけるから」
「は、はい」
慌てて十数歩移動し、サツキを遠巻きに見つめる千春子。覇斗は庭園の隅に立てかけてあった竹箒を見つけると、それをでサツキの下をつついて追い出すことを考えた。
すぐに実行に移そうとする。ところが竹箒をつかんだ覇斗の手は、不意に何者かによって後ろから抱え込まれてしまった。
「危ないです」
「誰? ──え、茉莉花さん?」
覇斗の腕を抱えていたのは、予想だにしない平野茉莉花だった。白いギャザーブラウスに紺のロングスカート。どことなく気品を感じさせる彼女が、真剣な表情で言った。
「藪蛇という言葉もあります」
「でも、今探し出して退治しておかないと……」
「物置に蛇の捕獲器があります。せめてそれを使ってください」
「え、別に道具なんかなくたって……。──いえ、わかりました。物置の場所はどこですか?」
茉莉花の請うような眼差しにほだされて、覇斗は折れた。
「こちらへ」
腕を抱えたまま、茉莉花が覇斗を引っ張る。身体が一瞬密着し、覇斗は鼓動の高鳴りを感じた。パッと手にしていた竹箒を放し、大声で叫ぶ。
「ちょっとの間、蛇、見張っててください! 無理しない範囲で! お願いしまーす!」
そして覇斗は戻ってきた。手にマジックハンドの大物のような捕獲器を持って。物置に行って戻ってくるまで一分も掛かっていない。だが、全ては終わっていたのだ。庭園にはいつの間にか松之進がいて、ヒーローになっていた。千春子と美晴子から褒められたり感謝されたりで、照れながら頭を掻いている。
(いったい何が……?)
半ば呆然としながら、遠くから話を聞いていると、おおよその状況がつかめてきた。
一、千春子の悲鳴を聞いて、ちょうど帰宅したばかりの松之進が庭園に駆け付ける。
二、その時偶然、マムシがサツキの下から出てくる。
三、勢いよく飛び出した松之進が、何も気付かずグチャッとマムシの頭を踏んづける。
四、マムシ死亡。千春子と美晴子、松之進に対し感謝感激雨あられ。
「うちの松之進が余計なことを……。すみません」
出番を失い意気消沈する覇斗に、茉莉花が謝った。
「いえ、僕はみんなが無事ならそれでいいんです。捕獲器、返してきますね」
「なら、一緒に行きましょう」
「え?」
「昨日、高柳さんにお話があると言いました。今日は時間、ありますか?」
「あ、はい」
覇斗は小さな声で、美晴子達に向かって「じゃ、行きますね」と言い残して庭園を後にした。その様子を美晴子は横目で見ていたが、「待って」の一言がどうしても言えない。唇を噛みながら見送るしかなかった。
「──で、話ってなんですか?」
捕獲器を片付けると、さっそく覇斗は茉莉花に尋ねた。
「実は、そんなに大したことじゃないんです。弟が──松之進がいつもお世話になっているので、お礼を言おうと思って……」
「お礼だなんて。これといって特別なことは何も……」
「いえ、弟から高柳さんのことはいつも聞いてます。生徒会の仕事を肩代わりしてもらっているそうで……。今日は、松之進、行きましたか?」
「ええ、バッチリいい仕事をしてくれました」
生徒会室でのジャンケンを思い浮かべながら、覇斗は言った。松之進が、姉貴に怒られたから来た、と言っていたことには一応触れないでおく。
「そうですか。よかった。あの子、人の好意についつい甘え過ぎる癖があるんです。たまにはビシッと言ってやらないと、本人の為になりません」
茉莉花はあまり表情を動かさす、生真面目な口調でそう言った。弟思いのいい姉さんだな、と覇斗は松之進をうらやましく思う。
「──ところで高柳さん」
「はい?」
「松之進が学校でモテモテだって本当ですか? あの子は頑なにそう言い張ってるんですが」
「ええっ、まっつん、マ、マジでそんなこと言ってますか?」
覇斗のリアクションを見れば、真実は一目瞭然である。茉莉花は安堵の息を吐いた。
「あれ、なんでホッとしてるんですか?」
もしやブラコンか、と好奇心から覇斗が水を向けると、茉莉花は珍しく慌てた風情で、こう言った。
「私、趣味で占いをやっています。私の見立てでは、弟はあと十年は恋人ができないはずなんです。だから、外したかと思って気になって気になって」
「えっ、占いって、所詮は当たるも八卦、の世界でしょう?」
占いというものを全然信じていない覇斗は、ぴんとこない様子で茉莉花を見た。
「私の占いはほとんど外れません。外れないように色々と工夫してますから。なので、外れた場合には、さらに工夫を施す必要に迫られます。今回は松之進が見栄を張ってただけとわかって安心しました」
「占いに予知能力並の精度を求めてるってことですか? でも、まっつんから聞いた話じゃ、『占いなんて所詮、客が言ってほしいと思ってることを技術で読み取って、それを先回りして言うだけの商売』だって、おばちゃん、言ってたみたいですけど」
「母は、お客の満足を最優先に考えますから。母にとって占いはそのための小道具に過ぎません。でも、私は趣味でやってる分、未来を知る手段としての占いに純粋に向き合うことができます。今は的中率を上げることを最優先課題としてまして……。──まあ、そんなことはともかく……」
茉莉花は唐突に話題を変えた。
「──今から母の部屋に行きませんか」
「おばちゃんの?」
何の脈絡もなく突然出てきたお誘いである。一瞬、覇斗は当惑し、そして思い当たった。今までの話はほんの前フリで、むしろこれが茉莉花の話の本題ではないのかと。そういえば、松之進が南花の能力の話を持ち出したのもいきなりのことだった。松之進と茉莉花の言動から、南花の意図が透けて見えてくる。
「──もしや、僕の最高の能力が何なのか、って話じゃ?」
「あら、松之進から何か聞きました?」
「ええ、まあ」
「母は、高柳さんがなんでもできる凄い人だってことに、最近気付いたみたいです。それで急に興味津々になって……。──高柳さんは信じなくても一向に構わないので、母を満足させてやってはいただけませんか」
やっぱりか、とは思ったが、年上の茉莉花に丁寧に頭を下げられると、覇斗としても断りにくい。
「痛くないのならいいですよ」
つい承諾してしまった。
「ちょっとチクっとしますけど」
「ええっ! 何するんですか?」
「嘘ですよ」
茉莉花はチロッと舌を出してクスッと笑った。表情に乏しい女性とばかり思っていた彼女の予期せぬ冗談。あまりにも爽やかな笑顔の不意打ちだった。ほんの一瞬の表情──しかし、その一瞬が、覇斗の心臓に大きな高鳴りをもたらす。
(ああ、また『芽』が生えてきたのかな。まったく俺ってやつは……)
自分でもどうしようもない突然の感情の襲来に、覇斗はただ、うろたえるしかなかった。
続く